カクテル「光と闇」
ルシファーさん、ちゃっかりルシアンさんと名乗っているようです。
深夜の帳が街を包む頃、バーの重い扉が静かに開いた。
外の湿った空気とは裏腹に、店内には古木と微かなアルコールの香りが満ち、時間の流れが緩やかに歪んでいるかのような錯覚を覚える。
カウンターの中では、バーテンダーのルシアンが、一点の曇りもないクリスタルのグラスを、まるで祈るように丁寧に磨いていた。
その年齢不詳の顔には、全てを見透かすような深い瞳と、時折、人を惑わすような魅力的な笑みが浮かぶ。
入ってきたのは、仕立ての良い服に身を包んだ壮年の貴族と、その隣を歩む、若く美しいが、どこか影と反抗心を宿した瞳を持つ娼婦だった。
貴族――アルマン子爵は、不機嫌さを隠しもせずに席に着くと、隣の女性、エララを促した。エララは黙って、子爵から少し距離を置いて腰を下ろす。
「いつものスコッチをダブルで。彼女には… 何か甘いものを」アルマン子爵が吐き捨てるように言う。
「かしこまりました」
ルシアンは静かに頷き、手際よく準備を始める。
琥珀色の液体が注がれたグラスが、子爵の前に置かれる。彼はそれを掴むと、一気に喉に流し込んだ。
「…ルシアン、君はどう思う? これほど心を尽くし、不自由ない暮らしを約束しているというのに、彼女は頑なに私を拒むのだ。側室として迎え、大切にすると言っているのに。全く、女心というのは非合理で理解し難い」
エララは視線をカウンターの木目に落としたまま、ぴくりとも動かない。
ルシアンは、エララのために用意したカクテル――深く蒼いリキュールがグラスの底で揺らめいている――を彼女の前にそっと置くと、子爵に向き直った。
「非合理、ですか。子爵が彼女を求められるのは、合理的な理由からで?」
「当然だ。彼女は美しい。私の地位にふさわしい華やかさを持っている。それに、私の庇護があれば、彼女も不幸な境遇から抜け出せる。双方に利益がある、実に合理的な判断だ」
「なるほど」
ルシアンは目を細める。
「それはまるで、光が闇を照らし、形を与えようとするかのようですね。あるいは、火がその熱で、触れるものを変容させようとするように。『文明』が持つ、秩序立て、構造化し、効率を求める力。子爵のお考えは、その『光・火』の属性を強く感じさせます」
「属性…? また妙なことを言う」
子爵は眉をひそめる。
「失礼。ただのアナロジーですよ」
ルシアンは微笑む。
「ですが、アナロジーは時に本質を映し出します。では、エララ様。あなたは何を『非合理』だと感じていらっしゃるのですか?」
初めてルシアンに視線を向けたエララの瞳には、強い光が宿っていた。
「…利益とか、地位とか、そういう話ではありません。ただ…『嫌』なのです。その方の側にいる自分を想像すると、息が詰まる。心が『違う』と叫ぶのです。理由なんて、うまく言えません。でも、この感覚は嘘じゃない」
「『嫌』、ですか」
ルシアンは静かに頷く。
「それは、とても根源的な感覚かもしれませんね」
彼は子爵に向き直る。
「子爵、物理の世界には『排他律』というものがあります。同じ状態の粒子は、同じ場所に存在できない。互いに反発し、己の『個』を保つのです。もし、この宇宙のあらゆる存在が、その根底で『私はこれではない(キライ)』あるいは『私はこれと共にある(スキ)』という、自他の境界線を引くための根源的な力を持っていたとしたら?」
「馬鹿な。感情と物理法則を混同するな」
子爵は鼻で笑う。
「お言葉ですが」
ルシアンの声は静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。
子爵が反論する。
「そもそも、なぜ『スキ/キライ』が根源的だと? 例えば『恐怖』や『喜び』といった、もっと強い感情もあるだろう?」
ルシアンは子爵の視線をさりげなく流しつつ答える。
「恐怖は脅威への反応、喜びは調和の結果。しかし『スキ/キライ』は、それ以前の、存在が『個』として成り立つための、最初の境界線なのです。未分化な可能性の海から『私』という輪郭を切り取る、最初の『分離』と『選択』。排他律が物質の形を保つように、この根源的な斥力と引力が、私たちの輪郭を保っているのかもしれません」
ここで、ルシアンは再びエララに視線を移す。
「あなたの『嫌』という感覚は、もしかしたら、あなたという存在が持つ固有の形、その境界線を守ろうとする、魂の叫びなのかもしれません。それは、大地に根を張り(土)、感情という水脈を湛え(水)、自由な風を求め(風)、そして他者には窺い知れない内なる深淵(闇)を持つ、『文化的なあり方。無理に光を当てられ、形を変えられようとすることへの、根源的な抵抗…」
「…!」
エララは息を呑み、ルシアンを見つめた。
自分の言葉にならない感覚が、形を与えられたような気がした。
「つまり、君は彼女の我儘を肯定するのか?」
子爵の声に怒気が混じる。
「肯定も否定も。ただ、異なる『属性』が存在するという事実を申し上げているだけです」
ルシアンは穏やかに答える。
「光が闇を不要だと断じても、闇なくして光は輝けない。火が水を支配しようとしても、水なくして火は燃え続けられない。無理に一方の法則を他方に押し付ければ、そこには歪みしか生まれません。それは、宇宙の『公正さ』に反する行いだからです」
彼はカウンターに置かれた、光を反射するシェイカーと、影を作るボトルの両方に軽く触れた。
「真の調和は、支配ではなく、異なる属性が互いの境界線を尊重し、時には反発し(相克)、時には支え合う(相生)バランスの中に見出されるもの。物理法則が力の絶妙なバランスの上に成り立つように、心の世界もまた、然りです」
「…では、どうしろと? 諦めろと?」
子爵は納得いかない顔だ。
「諦める、というよりは、『見方』を変える、でしょうか」
ルシアンは、カウンターの後ろの古びた鏡を示す。
「鏡は、あなたが『見たい』と願うものを映しがちです。しかし、その鏡に映らない部分、あるいは鏡の裏側、つまり『非存在』の領域に、解決の糸口が隠れていることもあります」
彼は、まるで遠い場所を見るような目をした。
「例えば、力ずくで手に入れようとするのではなく、なぜ彼女が『嫌』と感じるのか、その根源にあるもの…彼女自身の『闇』や『水』の属性を理解しようと努めること。あるいは、ご自身の『光』や『火』の属性が、時に相手を焼き尽くす可能性を自覚すること。異なる属性間の『コミュニケーション』の法則、それこそが、現代人が忘れかけた『魔法』の入り口なのかもしれませんよ。それは、存在だけでなく、非存在の領域にまで働きかける、新しい『法』なのです」
ルシアンの言葉は、静かだが重く、バーの空気に染み込んでいくようだった。
アルマン子爵は、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込み、エララは、わずかに潤んだ瞳で、自分の手元の蒼いカクテルを見つめていた。
やがて、子爵は乱暴に席を立ち、エララも静かにそれに続いた。彼らは一言も発さずに店を出ていく。
一人残されたルシアンは、カウンターに残された二つのグラスを手に取り、再び布で磨き始めた。鏡には、相変わらず、ただ薄暗い店内が映っているだけだ。
「光と闇、火と水… 相生相克の理は、かくも難しく、そして美しい。さて、彼らの『物語』は、どんな『変化』を迎えることやら」
その声は、誰に聞かせるともなく、バー『予定調和』の静寂へと消えていった。まるで、それ自体が宇宙の囁きであるかのように。
バーの名前が『予定調和』!