ルシファーと蜘蛛の省察
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が背景にあります。
時間の流れが曖昧な、次元の狭間のような場所に「バー・ルシファー」は存在する。カウンターの内側に立つのは、自らを堕天使、あるいは魔王とすら呼ばせる存在。彼(彼女?)は、グラスを磨く指先で、宇宙の始まりから連なる無数の魂の「糸」を感じ取っていた。絡まり、結ばれ、そして出来事が付着する切断面を、彼は「逸脱と変化」という自らの職分として、ただ眺めている。
ある晩、そのバーに静かな客が訪れた。かつて地獄で犍陀多に己の糸を差し出す形となった、あの蜘蛛だった。だが、その佇まいは単なる蟲ではなく、静かな知性を湛えているように見えた。
「やあ、久しぶりだな」ルシファーは、魅力的だがどこか傲岸な笑みを浮かべた。「君の細やかな仕事が、実に人間らしい結末を迎えた一件以来か。犍陀多…哀れな男だ。変化の機会を与えられながら、己の限界――反省の欠如――から逃れられず、結局は元の場所へ逆戻りだ。まさに、逸脱の失敗例だな」
彼は、カウンターに肘をつき、蜘蛛に向かって手を差し伸べる。その掌には、かつての蜘蛛の糸を思わせる、はかなくも鋭い光の欠片が揺らめいていた。
「これは君のものだった。彼奴が掴み、そして自ら断ち切った可能性の残滓だ。宇宙のバランスとして、返しておこう」
蜘蛛は、その光を一瞥したが、すぐに視線をルシファーに戻した。多眼が静かに瞬く。
「お心遣い感謝いたします、明けの明星。ですが、もはやそれは不要です」
その声は、ルシファーの意識に直接響く。
「あの糸は、過去の私。ただ、生来の役割の中で生きていた頃の証。犍陀多は、他者の道(畜生の道、とでも言いましょうか)を借りて未来へ向かうことしか考えられなかった。過去を清算し、自らを省みることで魂がよみがえり、新たな可能性が拓けるとは知らずに」
蜘蛛は、すっと一本の脚を上げると、そこから力強く、美しい光沢を放つ新しい糸を空間に紡ぎ出した。それは以前の糸とは比較にならないほどの強靭さを秘めているように見えた。
「ご覧なさい。これが現在の私自身が紡ぐ糸です。反省とは、過去の絡まりを解き、そこから学び、未来を織りなす智慧。自らの内に変化と逸脱の源泉を見出すこと。――そう、あなたの本来の役割にも似て、しかし内発的な力です。ですから、もう、間に合っておりますよ」
ルシファーは、その新しい糸の輝きに、一瞬、目を瞠った。そして、深く、面白そうに目を細める。
「……ほう。これは驚いた。反省によって自らの内に『変化と逸脱』の根源を見出し、それを御してみせるとは。俺の権能の本質を、ある意味で俺以上に体現している、か……」
彼は、くつくつと喉の奥で笑う。
「まさか、蜘蛛に一本取られるとはな。神の計画というやつは、実に愉快な逸脱を用意してくれる」
その表情には、いつもの傲岸さとは違う、純粋な感嘆と、あるいは自らの役割である「変化」が思わぬ形で結実したことへの奇妙な満足感のようなものが浮かんでいた。
「いいだろう。その見事な糸で、これからも存分に宇宙を渡るがいい」
蜘蛛は静かに一礼すると、自ら紡いだ輝く糸を手繰り、バーの空間に溶けるように消えていった。
ルシファーは一人、カウンターに残された蜘蛛の糸の幻のような輝きを見つめ、そして、満足げに、再びグラスを磨き始めた。変化は、いつも彼の予想すら逸脱していく。だからこそ、この役割は飽きることがないのだ。
そういえば人の人生って糸みたいなものですよね。
前に進めなくなるほど絡まってしまうたびに、切り取られて忘却する。
ときどき、その絡まりが未来ですっかりほどけてしまうことで、
前世をも見通せるほど、歴史をありありとたどれるのかもしれません。
今回のモチーフはそんなところです。
天国から糸を垂らしたのはルシファーさんで、
その糸を提供したのが犍陀多に気まぐれで助けられた蜘蛛さんという設定でした。