第7話 潜入
乏しい月明かりの下、千里たちはスマホのライトをかざしながら、必死に茂みを掻き分けた。
闇は想像以上に重苦しく、まるで自分たちを呑み込まんとするかのような圧迫感を常に感じさせる。
だがしかし、その暗闇が思わぬ利をもたらしていることも確かであった。
村人たちの懐中電灯が放つ光の筋は、夜の帳を切り裂くように浮かび上がり、彼らの居場所をくっきりと浮き彫りにしてくれるのだ。
そのおかげで、村人と鉢合わせることなく、多少の遠回りを余儀なくされながらも、無事に村まで戻ってきた。
機敏に、かつ静寂に行動する二人は、さながら米陸軍特殊部隊デルタフォースの隊員にでもなったかのようだった。
――――それぞれ、別の木の幹に身を寄せ、影に溶け込む。
人の往来は無いものの、櫻子の家の窓から光が漏れ出しているが認められる。
村人たちが、いったいどれほどの温度感なのかが分からない現状、鉢合わせになってしまった後の展開が予測不能。
千里らを捕らえるのが目的か、はたまた息の根を止めようと画策しているのか。
最悪の場合、顔を会わせるや否や飛びかかってくるやもしれない。
しかし、もはや憂いている暇など無いことだけは確かだ。
取り急ぎ、現段階でのミッションは、一秒でも早くミトモモを救い出すことなのである。
そんな焦燥と使命感が胸を押し、二人は木陰から静かに櫻子の家へと歩みを進めた。
敷居を跨ぐ経路は二つ――――正面玄関と勝手口。
まず、周辺の家々から容易に見渡せるため、正面玄関から入るのは愚策と言えよう。
それに、裏側からわざわざ正面に回り込むだけでもリスクが伴う。
そうとなれば、やはり裏手にひっそりと控える勝手口一択だ。
千里は周囲を警戒しながら、シガケンが扉を開けるのを見守る。
彼は、限りなく無音で、手際よく戸を引いた。
正確には、一瞬、ギィッと軋む音が呻いたが、至近距離にいた千里でさえ聞き逃しそうなほど微小だったため、中に人がいたとしても気付かれていないだろう。
膝を折り、背を丸めながら戸を潜るシガケンは、正真正銘の泥棒。
着々と育ちつつある口髭が生き生きとしており、唐草模様の風呂敷を担いでいないことが不自然に思えてしまうほどだった。
千里もまた、盗っ人の自覚を持ちながら、彼の背後に続く。
入り際、ドアノブに手をかけた。
そして扉を閉めつつ、後ろ歩きで忍び込もうとしたその瞬間、シガケンが手の平を押し出すような仕草を見せた。
どうやら扉はそのまま開けておけということらしい。
不自然に開け放たれた扉を見た者に、侵入を気取られてしまう可能性を懸念したが、千里はすぐにシガケンの意図を読み取った。
これは逃走経路を確保しておくための策なのだと。
勝手口から足を踏み入れ、キッチンを通過。
灯りがつくリビングには誰もいない。
それどころか、屋内に人の気配が無い。
血眼になって自分たちを探し、出払っているのだろうか。
言葉ではなく視線だけをシガケンと交わしながら、彼が臭いと言っていた部屋を目指す。
ザッザッザッ――――。
侵入から間もなく、屋外、主に勝手口の方から、土が摩擦する音が聞こえ始める。
小気味良いその音は、次第にボリュームを上げ、ピタリと止まった。
どうやら千里が危惧していた事態が現実となってしまったようだ。
今さら勝手口から逃走を図ろうにも、先ほど聞こえた足音の発生源と出くわすだけ。
さりとて、正面玄関から脱出するという手段もあるが、玄関に近い部屋に人がいないことは目視確認できていないため、到底、安全とは言い難い。
とどのつまり、身を隠すことが最善。
二人とも、そう考え至るまでに、時間も言葉も要しなかった。
大慌てで飛び込んだリビングには、引き違い戸の押入れがあった。
シガケンは藁にもすがる思いで、左の戸の窪みに指を引っかけ、丁重に右へスライドさせる。
中の造りは典型的で、上段と下段に別れているタイプだった。
下段には、何やら様々な物が詰まっており、体を捻じ込む隙間は無い。
しかし運良く、上段には数枚の布団が畳み込まれており、二人が身を隠すには充分なスペースがあった。
シガケンは交通誘導員のように手を振り、千里に先を譲る。
ベッタベタのホラー展開に、一抹の不安を抱えながらも誘導に従った千里は、膝を軸によじ登り、奥へ這い進んだ。
その後、シガケンも勢いよく上段に飛び入る。
逼迫した状況ゆえ、シガケンの頭が千里の臀部に衝突したが、双方、それに気付いていない。
一連の動作は、迅速でありながらも、音を立てぬよう細心の注意を怠らずに遂行された。
布団が衝撃を吸収し、音を最小限に緩和してくれたのも幸いした。
最後の仕上げに、ゆっくり戸を閉め、闇の力を頼る。
古い木の匂いが鼻腔をくすぐる。
引き違い戸の中央、重なる部分の隙間から、仄かに光が差し込んでいる。
その輝きは舞い上がった埃を照らし、夜空に煌めく星々を彷彿とさせた。
「真由美。戻ったんか……?」
台所の方から、低い男性が響く。
その瞬間、千里の鼓動が躍り出す。
激しく波打つ脈は、体内で籠るように反響し、音が漏れていないか心配になるほどだった。
息を殺し、気配も殺める。
自分は無機物の塊。
意志を持たない。
人間は、そのほとんどが水分で構成されていると聞く。
ならばやはり、無機物。
今はただ、この場に留まる静水。
そう意識するものの、頭の片隅では「いや、こんなベタなシチュエーションある!?」という内なる声が響き、自身が二重人格だったのかと懐疑的になってしまう。
「いるんか……?」
今度はすぐ近くで男の声が聞こえた。
息を潜める千里には、その声が耳元で囁かれているかのような錯覚を引き起こし、緊張が一層高まる。
――――足音が迫る。
隙間からはリビングの様子が覗き見えない。
だが、間違いなくいる。
ある種、第六感的な何かが発現し、見なくても感覚的に把握できている。
そしてついに、宙を泳ぐように輝いていた埃の星々が、雲に覆われてしまったかのように、戸の隙間から漏れ入る光が陰った。
押入れのすぐ目の前に、人が立っていることは明白。
直後、ひとりでに戸が開き始める。
絶体絶命。
成す術無し。
頭をフル回転させた千里が出した結論は、全力で戸を蹴り飛ばし、男諸共吹き飛ばすことだった。
徐々に開かれてゆく戸を尻目に、尻をつき、両足を持ち上げ、バネの要領で膝を顔の前まで引き付ける。
頭上にある押入れの奥側、すなわち壁面に両手をつき、押し出す腕力と、伸ばす脚力を、同時に用いる。
全身に力を込めようとしたその時だった。
プルルルルッ!
携帯の着信音が轟いた。
無論、千里もシガケンも、スマホはマナーモードに設定している。
発射の準備が万端だった千里は、五センチほど開かれた戸が動きを止めたことに気付き、その体勢を保ったまま、再び息を潜める。
「もしもし?――――あぁ――――分かった。すぐに行く――――」
バタンッ――――。
半開きだった押し入れの戸が、勢い良く閉められた。
引き違い戸の隙間から再び差し込む光は、どこか安心感を与えてくれる。
そして、足音が遠退いてゆき、やがてギィッという音が鳴り、静寂に包まれた。
窮屈な空間で、二人は胸を撫でおろした。
しばし様子を窺ったうえ、後から入ったシガケンがおずおずと戸を開け、隙間からリビングを覗き込む。
問題無いらしく、順に押入れから脱した。
気が付けば二人とも過剰に汗をかいており、毛髪が額や頬に張り付いている。
だが、そんな小さな不快感は今の二人にはどうでもいいことだった。
重要なのは、あのミトモモを見つけ出すことに他ならないのだから。
シガケンの記憶を頼りに、目的の部屋の前まで辿り着き、彼はドアノブに手を添えた。
千里は後ろを警戒しつつ、その様子を息を飲んで見守った。
扉は施錠されていなかった。
シガケンが2~3秒、暗い部屋に顔を覗かせた後、脅威が無いことを確認し、扉を全開放――――入室する。
すかさず千里もその部屋に忍び入り、扉をそっと引き、閉めた。
室内は真っ暗で、照明のスイッチが見当たらないため、スマホのライトで光源を確保。
――――残念ながらミトモモの姿は無く、ただの物置部屋だった。
古びた家具や雑多な道具が整然と並ぶだけで、異様さの欠片も感じられない。
あまり長居するのもリスクが伴うため、二人は早々に探索を切り上げることにした。
しかし、シガケンがドアノブに手を添えた瞬間〝ゴトンッ〟という鈍い音が、微かに足元で鳴り渡った。
千里は退室しようとする彼の肩に手を置き、引き止める。
キョトンとした表情を見るに、どうやら彼には今の音が聞こえなかったらしい。
極端に小さかったため、そもそも聞き間違いである可能性も否めないが、念には念をと、千里は耳を澄ませた。
ンンンッ――――。
微かに、しかし確かに女の声が床を震わせた。
身動ぎ一つせず、聴覚に意識をフォーカスしていたからこそ聞き取れた、幽微な音声だった。
今度はシガケンの鼓膜にも届いたらしく、二人とも、自動販売機の下に転がり込んだ百円玉を探すかのように、四肢を床についた。
くすぐったさなど意に介さず、敷かれた絨毯に耳を押しつけ、さながら聴診器のチェストピースのように、微細な振動さえ逃さぬよう音を拾う。
そして、再び声が響いた。
明瞭に捉え、疑心が確信へと変わる。
その声は、紛うことなきミトモモの叫び声であったのだ。
シガケンは、絨毯越しに、あらゆる箇所を人差し指の関節でノックし始めた。
乾いた音が返ってくるばかりだったが、ある一箇所で、音が沈み込む。
二人は目を見合わせ、阿吽の呼吸で絨毯を引き剥がした。
姿を現したのは、古びた木製の床板だった。
しかし、他の板とはわずかに色合いが違う。
シガケンがそっと触れると、手の平に伝わる感触もどこか軽やかだ。
息を呑む千里の視線を感じながら、彼は慎重にその板の端を持ち上げた。
薄暗い隙間がゆっくりと口を開き、地下の異様な空気が二人の顔を撫でる。
その奥には、狭く、どこか湿気を帯びた階段が暗がりに消えていくように続いている。
まるで何十年も人の足音を聞かず眠りについていたかのようなその階段は、不吉なほどの静寂を抱え、二人を誘うように口を開いた。
千里は思わず一歩後ずさりしたが、シガケンは鋭い目つきでその地下空間を見据え、わずかに唇を引き締めた。
迷いなど微塵も感じさせない眼差しに、千里も覚悟を決めるように息を整える。
そして目を交差させた二人は頷き、スマホのライトを闇へ向けた。