第5話 探求
「シガケン。近づいてみよ」
依然として立ち上がろうともしないテナシを眺めながら、飽くなき探求心に背中を押されるように、異常な提案をした千里。
無論、シガケンは柳眉を逆立てて異議を唱える。
「馬鹿か……!? 襲われたらどうすんだよ!」
「大丈夫や。問題無い」
少し咳払いをして喉を整え、いい感じの発声で返答した千里は、凛々しい顔付きに変貌していた。
「やべぇ。フラグ立ち過ぎ……」
首の筋がプツンと切れたかのように、シガケンは頭を垂れた。
「ついてこい……!」
男らしく肩越しにシガケンを一瞥した千里は、片手を振って合図した。
つい先ほどテナシと目が合ったせいか、膝が爆笑して歩きづらいが、構わず一歩踏み出す。
肝こそ小さい彼女だが、たまに妙なスイッチが入る時がある。
正に今、そのスイッチがオンになり、恐怖心と探求心が鬩ぎ合い、もはや本人は意識を保つことで精一杯の状態に陥っているのだ。
言うなれば、酩酊状態に近い。
「はぁ……またかよ……」
肩でため息をついたものの、シガケンは側頭部を掻きながら千里の足跡を辿る。
そうして草木を掻き分けて、じわじわと進んでいくと、俯いているテナシの首に筋が浮き上がった。
そしてゆっくりと顔を上げ、千里と目が合致する。
探求心が押さえ込んでいた恐怖心が、破竹の勢いで浮上し、体が硬直する。
目の前でピタッと足を止めた千里に倣い、シガケンも静止。
千里は心の中で「いや、だるまさんがころんだか!」とツッコミを入れた。
関西の血はあれど、口角を緩める余裕までは持ち合わせていない彼女は、ただただ動きと息を止めることしかできない。
――――寸刻、こちらの様子を舐めた後、またもやテナシは項垂れた。
千里とシガケンは互いに見合わせ、深く息を吐き、再び足を前に押し出す。
その後も、狂気のだるまさんがころんだを継続し、テナシのすぐ近くまで、二人は接近した。
距離にして1メートルほど。
概ね10メートルを切った辺りから、テナシは俯かなくなり、千里とシガケンの顔を見比べるように、交互に視線を滑らせていた。
不思議なもので、目が合っても襲ってこないことが分かると、恐ろしさも薄れてくる。
「イィ……」
テナシは、歯の隙間から漏れる「シー、シー」という息に混ざる枯れた声を零している。
「大丈夫……?」
千里は恐る恐る、極力刺激しないように、声を小にして意志疎通を図る。
すぐ傍に控えるシガケンも固唾を飲んで、返答を待つ。
「イィィィィ……」
口角が鋭いナイフのように保たれているせいか、言葉は発せない様子。
それにしても、一昨日に遭遇した時と比べ、やけに疲弊しているように見受けられる。
「シガケン。右足……」
千里が指を差した。
テナシの右足には、4センチほどの切り傷が認められた。
「枝か何かで切ったんかな……」
膝から脛にかけて刻まれたその傷は新しいらしく、緋色の液体がドクドクと流れ出ている。
無論、致命傷には程遠いが、放置しておくと地味にヒリヒリするタイプの傷だ。
他にも体中、多数の切り傷や痣が残っている。
それらを目の当たりにして、千里は確信した。
「やっぱり幽霊なんかじゃない」
傷や血液もそうだが、汚れが目立つものの、タンクトップと半ズボンという装いが、人間らしさを際立たせている。
シガケンもそれを認めざるを得なかった。
さりとて彼は、幽霊を信じていないため、その考えに至るのは難くない。
やや間を置いて、千里は驚愕の行動に出る。
「あった」
ショルダーバッグのチャックを開き、中から大きめの絆創膏を取り出した。
「千里……それはやめとけ……」
さすがのシガケンも看過できず、千里の前に片手を広げ、行く手を阻んだ。
口を一文字にした千里は、無言のまま彼の目を見据える。
「分かったよ……ちょっとでも動いたらすぐ離れろよ」
高速道路の料金所に設置されている遮断機のように、シガケンの手が上がり、千里の道が開かれた。
そんなやり取りをしている間も、テナシは二人に視線を注ぎ続けている。
「大丈夫。怖がらなくていいからね……」
ずいぶん褪せていた恐怖心が、再燃する。
極寒の地にいる時のように、肺が震え、呼吸が掠れる。
それでも千里は、テナシの元へ歩み寄り、伸ばされた右足の隣で膝を畳んだ。
「すぐ終わるからね……」
シガケンを見るのをやめ、千里の顔を吸い付くように凝視するテナシ。
この女はいったい何をするつもりだ、とでも思っているのだろうか。
その視線を浴びながらも、絆創膏の剥離紙を摘もうとするが、手が震え、繊細な作業がままならない。
手首をブラブラと振ってみたり、拳をギュッと握り込み、今度は力一杯に開いたりして、指の緊張を解す。
依然として、テナシは千里の様子を窺っており、目線を放す気は無いらしい。
「よし……」
ようやく絆創膏の粘着部分が露出した瞬間。
ギッヒッ――――。
テナシの体が大きく揺らいだ。
直後、千里の叫喚が轟き渡る。
「ギャアア゛ァああ!」
繊細な作業に集中していたがゆえに、千里は兎のように飛び、後方に跳ね、ペタンと尻餅をついた。
すかさずシガケンが彼女の元に駆け寄り、両肩に手を添え、支える。
その後、まるで桜の花びらの如く、ゆらゆらと肌色のテープが千里の額にそろり。
テナシは座ったまま、相変わらず不気味な笑顔をこちらに向けていた。
ただ単に、咳き込んだだけだったのだ。
「あぁはっはぁぁ……神は言うてはるぅ……ここで死ぬ運命やないってぇへぇ……」
緊張と緩和により情緒が乱れた千里は、半泣き半笑いの状態で、額に着地した絆創膏を手に取った。
「もうそれは分かったから、さっさと貼れよっ!」
シガケンは安堵の表情を浮かべつつ、涙ぐむ千里の頭を撫でるように叩いた。
気を取り直して、千里はテナシの脛にできた傷口にティッシュをあて、ある程度、血液を拭き取り、絆創膏で蓋をした。
やはり、終始テナシは見つめてきたが、襲ってくる気配は全く無く、手当は無事に終了。
「これで大丈夫だからね」
恐れていないというと嘘になるが、千里は今できる最大の微笑みをテナシに向けた。
するとテナシは、予想外の反応を示す。
――――剝き出しになった眼球が潤い始める。
やがて、俯いたと同時に、一筋の雫が煌めき、ズボンに染み入った。
信じ難い光景を目の当たりにした千里は言葉を失い、思わずシガケンの方を見上げた。
彼も驚きを隠せず、口を半開きにしたまま思考停止していた。
「おーい……千里ちゃーん…………」
「……謙太くーん…………」
遠くから、微かに声が響いてきた。
どうやら村人たちが二人を探しに来たらしい。
その瞬間、テナシはびくりと身を震わせ、背後の木の幹に体を擦り付けるようにして立ち上がった。
鋭い眼差しで千里とシガケンに視線を流し、危険な気配を放つ。
その威圧に、千里は思わず身を引き、シガケンと共に一歩後退する。
しばしの沈黙の後、テナシは二人に向けた視線をふと解き、村人の声がする方向とは逆に振り返ると、茂みに飛び込み、走り去っていった。
「千里。行くぞ」
そう言ったシガケンは、千里の手を握り、テナシの背を追うように駆け出した。
致し方なく、千里もそれに続く。
「どしたん? 村の人が探しに来たんちゃうの?」
駆け足のまま、千里がシガケンの背に問う。
「おかしいと思えへん?」
千里を肩越しに見やり、彼は答えた。
「何が?」
シガケンは「あとで説明する」とだけ言い残し、とにかく千里の手を引いた。
彼は妙に勘が鋭い時がある。
特にババ抜きの時は、その力を存分に発揮する。
今回もその力が働き、何かに気付いたのだと悟った千里は、彼を信じ、口を閉ざした。
◇
「んで、何がおかしいんよ」
しばらく走り、深い茂みに身を隠した二人。
早速、千里が解説を求めた。
「昼間はテナシに襲われるって聞いたやろ?」
不安そうに辺りを見回しながら、千里が頷く。
「襲ってくるどころか、大人しいくらいやった。それにさ、みんなテナシのこと知ってるはずやのに、俺らがいるかどうかも分からん禁足地に入ってきてる。おかしくないか?」
「そうやけど……私らのことを心配してくれたのでは?」
「どうやろな。テナシ遭遇時の禁忌、覚えてるか?」
無論、千里は覚えていた。
――――禁忌その一、話しかけぬこと。
二、目を合わせぬこと。
三、光を当てぬこと。
四、即時引き返し、振り返らぬこと。
「これってさ、テナシと接触させたくないっつーか、テナシの正体を知られたくない。そんな意図を感じへん?」
この時、シガケンが言わんとすることを、漠然と理解し始めた千里は、首筋に悪寒を感じた。
そして、腕の体毛が逆立つのを視認した時、地に見え隠れする異常に目がいく。
「うわっ……!」
千里の足元、土に埋まって見え隠れしていたのは、人骨――――頭蓋骨の空洞、すなわち眼球の受け皿、眼窩だった。
恐怖の念に苛まれ、脚の力が抜けた千里は、またもや尻餅をついてしまう。
「大丈夫か」
再びシガケンが肩甲骨に手を添え、彼女を支える。
千里が怯えた目を向ける先、地中からこちらを覗き込んでいる頭蓋骨と目が合った彼は、眉根を寄せた。
「やっぱりおかしいな。この村……」
「うん……どうする……?」
得体の知れない畏怖に蝕まれた千里は、シガケンに上目を遣い、珍しく乙女らしい一面を見せた。
しかし彼は表情一つ変えずに、周辺を警戒しながら今後の方針を固める。
「今はもうちょっとこの禁足地で身を隠そう。夜になったら村に戻って、情報を集める。とにかくミトモモを探さな、俺らも帰れへんしな」
彼の毅然とした態度と、ダサいチェック柄のシャツを見て、千里は我に返る。
そして「これが吊り橋効果とやらか」などと呑気に心中で呟きつつ、平静を装った。
「だね……どこ行ったんやろ、ミトモモ……」
斯くして、二人は夜の帳が下りるまで、息を潜めることとなった。