第3話 遭遇
「あれって……」
千里が視覚の端で捉えたのは、草木の隙間に見え隠れする火の玉らしき二つの白い斑点。
正体を確認すべく、ライトの向きを変えようとしたその瞬間。
「馬鹿お前っ……!」
シガケンが千里の腕を掴み、抑止した。
しかしその反動で光が乱れ、僅かばかり、火の玉を照らしてしまう。
――――人影。
ギョロッと開かれ、血走った眼球。
不自然なほどに開かれた瞳孔。
目元に届きそうなほど吊り上がった鋭い口角。
本来、誰しもが持つ両の腕は、無い。
千里が見た二つの白い斑点とは、火の玉ではなく目玉だったのだ。
「イィィィイイィィイイイイイイイイイイイッ……!」
ライトの光に反応したのか、黒板を爪で引っ搔いたような鋭利で甲高い叫び声が轟いた。
木々の葉が屋根の役割を果たしているせいで、その金切声は森の中で籠るように反響する。
ゆえに、千里らの鼓膜を強烈に刺激し、その距離感をも狂わせてしまう。
「きゃぁぁあああっ!」
呼応するように叫喚するミトモモ。
「何……!? 今の何っ!?」
火の玉の正体と目が合ってしまった千里もまた、焦燥感に駆られる。
「間違いない……! テナシだ! とにかく引き返すぞ!」
ここで意外と冷静だったシガケンが、怯える二人に真由美から教わった例の禁忌を思い出させた。
大至急、三人は踵を返し、来た道を全力で駆け下りる。
「ィィィイイイイイィイイ!」
不快極まりないその音は、恐怖心を増幅させる。
「はぁっ……はぁっ……ついて来てるよぉぉ……!」
目尻から大粒の涙をボロボロと零すミトモモは、握り潰すように千里の手を掴んで、怖気を逃がしている。
幸い、先導してくれるシガケンのライトのおかげで道に迷うことは無い。
「お前ら振り返るなよ!」
シガケンが真っすぐ前を見据えながら後ろの二人に忠告した。
「分かってる……! でもマジやばい! すぐ後ろまで来てるよねこれえ!」
千里の真後ろ、小走りなのかハイテンポな足音が、寸分も遅れることなく猛追してくる。
「イィ! ィイイィイイ! イィィィィィィ……!」
無論、追駆するのは足音だけではない。
「ついて来てるか! 二人とも!」
禁忌その四、即時引き返し、振り返らぬこと。
後ろの二人が心配だが、首を捻って様子を窺うわけにもいかないシガケンは、森全体に呼びかけるように安否確認を試みた。
しかし呼吸を乱しながら必死に走るミトモモには、返事をする余裕が無い。
それを悟った千里は、彼女の手をギュッと握り直し、二人分の生存報告を済ませる。
「大丈夫! ミトモモも私も大丈夫……!」
揺れる三本のライトが投じる草木の影は、先ほどまでの優雅な舞踏会から一転、テロの現場のようなパニックに陥っていた。
◇
禁足地、と書かれた看板まで、死に物狂いで帰ってきた千里らは、地面にへたり込み、少しでも多く酸素を取り込まんとしていた。
彼女らが諦めずに走り続けた結果、後ろから「ゔゔぅ……」という唸り声が聞こえたと同時に、迫る足音は止んだ。
その後、奇声や草木を踏みしめる音は聞こえなくなり、命からがら禁足地から脱したのである。
しかしつい先ほどまで追いかけてきていた存在の目や口、そして声や足音、様々な恐怖が脳内で無限にループ再生され、否が応でも海馬に刷り込まれてゆく。
「マジで遭遇するとはな……」
なんとか呼吸を整理し終えたシガケンがポツリと呟いた。
「でも……助かった……私たち生きてる…………」
依然として息を切らしながら、千里は愁眉を開く。
彼女の隣で仰向けになって悶えているミトモモは、まだ声を出せる状態ではなさそうだ。
「あぁぁああっ!」
唐突に叫び声を上げた千里。
さすがに驚きを隠せなかったシガケンはバッと振り返り、ミトモモも勢いよく上体を起き上がらせた。
おそらく二人とも、テナシが脳裏によぎったのだろう。
「二万五千円……」
あまりの恐怖に、いつの間にか心霊コミュニケーションツールを手放していたことに気付いただけだった。
緊張からの緩和により、ミトモモは目を潤わせながら眉間に皺を寄せ、千里をパタパタと叩く。
シガケンは呆れ返り、言葉も出なかった。
◇
「やっぱり実在するんだ……」
千里は帰るなり、留守番をしていた櫻子にテナシと遭遇したことを話した。
相変わらずミトモモは体の震えが止まず、千里からひと時も離れようとしない。
そんな様子を目の当たりにした櫻子は、千里らの話を一切疑わなかった。
「お母さん、凄く心配してた。もう行かない方がいいんじゃない?」
本当に心配してくれているようだが、櫻子はどこか忍びなさそうに提案した。
わざわざついて来てもらった立場上、あまり強気になれないという彼女の心境が手に取るように分かる。
きっと母親とよく似て、優しい心の持ち主なのだろう。
「チーちゃんん……さすがにもう帰ろうよぉ……」
都市探サークルでは、様々な都市伝説やオカルトの話題があがり、数多くのスポットを巡ってきた。
しかし今回のように、身の危険を感じるに至ったことは無かった。
そのせいか、ミトモモはずいぶん怯えている。
「正直、俺はテナシの正体を暴きたい」
胡坐をかいて、テーブルに方肘を乗せながら、シガケンは言った。
この時、千里は中立的な意見だった。
今回はテナシに見つかったため、逃げ果せるしか選択肢は無かったが、もし茂みに身を潜め、テナシを観察できるのなら、ぜひともしてみたい。
だがしかし、今回は運が良かっただけで、次に遭遇した時、ただで済まない可能性も往々にしてあり得る。
シガケンや自分は大丈夫だとしても、ミトモモを傷つけるわけにはいかない。
そんな葛藤を、汲み取るようにシガケンが続ける。
「でも、さすがに危険すぎる。今回はテナシを目撃できただけでも大収穫やろ。禁足地に行くのはもうやめにしよう」
たまに見せる抜群の判断力と冷静さが、シガケンの武器。
千里は彼のそういうところには何度か胸をときめかせているが、その後すぐ、問答無用で視界に飛び込んでくるダサいファッションのおかげで、血迷わなくて済んでいる。
「だね。とりあえず明日は、櫻子が記憶を取り戻すのを手伝お」
そう言って千里は櫻子に微笑みかけた。
しかし彼女は、ゆっくり首を横に振る。
「ううん。私はここまでこれただけで十分。みんなのおかげだよ。ありがとう。だから一晩ゆっくりして、明日にはもう帰りなよ」
「でも……」
口ごもった千里は、シガケンとミトモモの方に視線を滑らせて意思の疎通を図る。
その後、やや間があって、一応サークルの創設者である千里が決断を下した。
「分かった。櫻子がそう言うなら」
余計に干渉するのも良くないと判断し、翌日もとい、今日、村を出ることにした。
「うっし! じゃあ今日はオールやな! 俺トランプ持ってきてんねん!」
「やったぁ! 大富豪やろぉ!」
いつしか元気を取り戻していたミトモモが、柔らかくて白い、大福のような拳を掲げた。
シガケンは部屋の隅に寄せていた自身のリュックを持ち出し、チャックを摘む。
言うまでもないが、彼はリュックもダサい。
でかでかと書かれた〝BLACKDRAGON〟という英文字と、大きく翼を広げるトゲトゲした龍が、中学の家庭科の授業を彷彿とさせる。
そして極めつけは、取り出したトランプの柄。
「なにそれ……ゴーヤ……?」
さすがの櫻子も黙っていられず、引き気味に尋ねた。
「そう! かっこいいやろ? 修学旅行で沖縄行った時に買ってん」
「やだなに!? 恥ずかしっ! なんかもう服装も相まって中学生と話してる気分やわ! いや今時の中学生はもっと洒落てるか!」
我が子の奇行を恥じらう母親の如く、無性に居たたまれなくなった千里は、ツッコまずにはいられなかった。
◇
「ところで、櫻子ちゃんお父さんは? はい7渡し」
質問と一緒に、不要なカードを櫻子に差し出したシガケン。
櫻子は差し出されたカードを受け取り、手札を整理しながら問いに答える。
「お父さんはもう亡くなっちゃったんだって。私には記憶が無いけど、さっきお母さんが教えてくれた」
パスの意を込めて首を振った櫻子は、千里に順番を回す。
「そ、そうやったんや。なんかごめんね……」
「8切りからの……革命じゃぁあああ! 大貧民は失うもんがないんじゃこらぁあ!」
一瞬暗くなりかけた空気を吹き飛ばすように、現在大貧民の千里が叫んだ。
次、負けじと大富豪のミトモモが咆哮し返す。
「革命返しだぁぁああ!」
こうしてゲームは白熱し、叫び声を上げる度に、別室で真由美が寝ていることを思い出し、数分間は声を静めるが、気が付くとボリュームが上がっている、という傍迷惑な大学生を繰り返すのであった。
一頻りトランプに興じた四人は、櫻子の言葉に甘え、順番にシャワーを浴びる運びとなった。
「シガケン。髭とかちゃんと剃ってんだ。なら服もどうにかしろっつの」
千里は洗面台に放置された四枚刃の剃刀にツッコミながら脱衣し、蓄積された畏怖と汗を流した。
時刻は午前五時。
外が明るくなってきた頃に寝転び、疲労が溜まった全身の筋肉を伸ばすことほど気持ちのいい瞬間は無い。
そんな安い至福を味わって数分もしないうちに、千里はストンッと瞼を下ろした。
結局、四人とも太陽が真上に昇るまで、泥のように眠ってしまった。
とはいえ、千里に言わせれば、その生活リズムに違和感は無く、普段と何も変わらない。
強いて言うなら、ベッドではなく敷布団であることと、自然に囲まれているおかげか、空気が美味であることくらい。
アラームの力を借りず、自ずと瞼が上がった千里は、隣で瞑目するミトモモの異変に気付く。
「ミトモモ……? 大丈夫?」
異常に寝汗をかいており、悪い夢を見ているのか眉根を寄せて、苦悶の表情を浮かべていた。