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第9話   返報

 視界は水底に沈むように揺らぎ、蛍光灯の眩さが幻想的ですらあった。

 眼球だけが溺れているようで、全てが霞んでいる。

 それでも、笹岡ではない誰かがすぐ傍に佇んでいることだけは、肌で感じ取れた。


 息を整えながら、瞼をギュッと閉じては開き、何度も繰り返す。

 徐々に水滴が涙腺に吸収され、歪んだ景色の中でその人物の輪郭が浮かび上がってゆく。

 そして、答え合わせをするように声が耳を打つ。


「一条さん!」


 艶やかな黒髪を羽ばたかせたのは、櫻子だった。

 彼女の手には、真っ赤な涙を滴り落とす、重厚な南京錠が握られている。


「櫻子っ……!」


「ごめん! 私間違ってた!」


 南京錠を手放した櫻子は、懺悔しつつ千里の拘束を解き始めた。


「櫻子……来てくれたん……」


 緊張と緩和の最たる例を経験した千里の表情は、もはや喜怒哀楽のいずれにも当てはまらない。

 だが、ただ純粋に嬉しかった。

 半ば強引に迎え入れた新たな都市探メンバーが、こうして助けに来てくれたことが、この上なく喜ばしかった。


 ロープを解き終えた櫻子は、床にできた血の池に頭を浮かべる笹岡を尻目に、素早く鞄の中を漁り始めた。

 ほどなくしてガーゼと包帯を取り出し、千里の肩に応急処置を施そうとしたが、千里はそれらを静かに受け取り、代わりにミトモモとシガケンの解放を彼女に委ねる。

 櫻子は「でも……」と憂色を浮かべたが、千里の確かな眼差しを見て、今や互いに過剰な気遣いなど無用であることを悟り、隣の寝台に歩み寄った。


 千里は顔を歪めながらも、傷口にガーゼを押し当て、包帯を巻きつける。

 幸い傷は浅く、数枚のガーゼで事足りた。

 処置を終えた頃には、シガケンとミトモモの縛られていたロープが外され、二人の瞼が微かに動き始めていた。


「シガケン! ミトモモ!」


「あれ……千里…………」


 顔だけをこちらに向けるシガケンは、目を擦りながらか細い声を発した。

 その呑気な様子は、腹立たしいものではあるものの、どこか安心感を与えてくれる。


「チーちゃんん! 肩どうしたのぉ……!?」


 ずいぶん寝起きが良いミトモモは、真っ先に千里の包帯に目がいったらしい。

 一時は死をも覚悟した千里の目に映るその光景の全てが、懐かしく、心地好い。


「話はあと! とにかく逃げるよ!」


 千里は床に転がる笹岡には目もくれず、鉄格子の開閉口に立ち、三人を急かした。

 峠を越えた彼女は、いつも以上に頼もしく、たくましい。

 シガケンとミトモモも、寝台から跳ね飛ぶように立ち上がった。


「えぇ!? し、死んでるのぉ!?」


 足元に転がる人形に気付いたミトモモが、叫喚した。


「うわっ! マジかよ! これ全部血!?」


 シガケンもまた焦燥を隠せない。

 とはいえ、今は説明している場合ではなため、千里は再び三人の尻を叩く。


「いいから! とにかく急いで!」


 渋々、二人は口角を曲げながらも笹岡を跨ぎ、鉄格子を潜り抜ける。

 しかし唯一、櫻子だけは浮かない面持ちのまま動こうとしなかった。


「何してんの櫻子! 道案内頼むよ!」


 千里の依頼が予想外だったらしく、櫻子の瞳が一瞬、見開かれる。

 だが、すぐにその表情は沈み込み、細く長い睫毛の下で視線を落とす。

 静かな間がやや流れ、おずおずと彼女は問いかけた。


「私を信じてくれるの……?」


「当たり前やん! 都市探メンバーやろ!?」


 千里は一切の迷いを見せずに即答した。

 他の二人にも否定の色は微塵も見えない。

 まるで、千里が言わなければ自分が代わりに答えていたと言わんばかりに。


「でも……私、あなたたちを騙して……」


 櫻子は千里たちに目を合わすこともできず、目線を斜め下に向けたまま呟いた。

 軽い息で吹き消えてしまいそうな震えたその声からは、彼女の後ろめたい気持ちがひしひしと伝わってくる。


「うっさいなーもう! 罰が欲しいならシガケンの服選びに付き合うこと! 分かった?」


 後頭部を掻きながら、千里は突飛な判決を言い渡した。


「それいいぃ! サーちゃんなら何とかしてくれるかもぉ!」


 柔らかく、もちもちした手を合掌させたミトモモが共感を示す。

 すかさずシガケンが裁判官に異議を唱える。


「ちょっと待てや! 俺は自分で選ぶぞ! 他のやつに選ばれた服なんかダサくて着れへんもん!」


「え、じゃあシガケンは櫻子とのデートチャンスを逃すってこと?」


「…………いや、それは逃せやんな。分かった、じゃあ俺も櫻子ちゃんの服選ぶわ!」


 何がとは言わないが、諸々の自覚が無いシガケンは、その言葉に意図せぬ効力があるとも知らずに宣言した。

 それを聞いた千里は「その手があったか!」と手を叩き、賛同する。


「おぉ! それこそ正真正銘の罰やん! 懲役とタメ張るよ!」


「さっきから何言うてんねんお前。さすがの俺でもキレるぞ」


 眉間の皺を濃くしたシガケンに対し、千里が油を注ぐ。


「いやいや、シガケンやからこそ着れるんよ。私らには着られへんよそんな服」


 千里は、彼が怒っていないことを知っていた。

 これは余談だが、シガケンが本当に憤るのは、友達や家族を馬鹿にされた時と、大学一のマドンナにアタックし、玉砕したことをいじられた時だけだということが都市探の常識なのである。


 小気味良い掛け合いに、櫻子の顔が綻んだ。

 そして目尻に宿る透き通った涙が静かに溢れ出し、頬を伝って一筋の光の線を描きながら零れ落ちる。


「もうええわ! ほら、櫻子ちゃん行こ」


 ダボついたズボンで手汗を拭ったシガケンは、櫻子に手を差し伸べた。

 涙を振り払いように溌剌な笑顔で頷いた彼女は、彼の手をしっかりと握り返す。

 ダサ男は「おうふ」というキモイ声を漏らしつつ、顔を赤く染め上げた。



 櫻子が反旗を翻したことを村人たちは知らない。

 ゆえに彼女は堂々と地上を闊歩することができる。

 それを利用し、櫻子には地上の偵察を委ねた。

 おかげで、難なく地下室から地上へ――――勝手口から脱した千里らは茂みへ駆け込んだ。


 外は闇に圧されるような静寂が支配していた。

 どうやら笹岡が言っていた通り、丸一日、夢路を辿っていたらしい。

 空を見上げても、晦日月は朧げな影として浮かぶのみで、ほとんど光をもたらさない。

 まるで月そのものが息を潜め、帳の奥に隠れてしまったかのようだった。

 幸い、櫻子が家から持ち出した懐中電灯のおかげで、視界は確保できている。


「ミトモモさん、もう体調は大丈夫なの……?」


 草葉を掻き分けながら、櫻子が気遣う。


「うん。ちょっと頭が痛いけどぉ、もう大丈夫ぅ」


「よかった……ごめんね」


「ん~なにがぁ?」


「実は、ミトモモさんの太ももに残ってる刺し跡って、私が注射した跡なの……」


「えぇ! マジぃ!?」


 衝撃の告白に、ミトモモは思わず声を上げてしまった。

 反射的に千里が彼女の二の腕を叩き、人差し指を唇に立ててジェスチャーする。

 するとミトモモはパカッと開いた口を両手で塞ぎ、申し訳なさそうに何度か小さく頷いて反省の色を示した。


「少し熱が出る程度の毒を注入したんだけど、後遺症とかは出ないはずだって笹岡さんから聞いてるから大丈夫だと思う。たぶん……」


「たぶんかぁ……ま、桃はこう見えて頑丈やから大丈夫やと思うぅ――――」

 

「櫻子! おい櫻子おお!」


 不意に背後から男の声が響いた。

 低く鋭いその声は、千里とシガケンの脳の海馬をノックする。


「待ってくれ! 櫻子ぉお!」


 櫻子の家に忍び込み、暗い押入れの中で息を殺していた時、戸の向こうから聞こえてきたあの声だった。


「お父さん……!」


 櫻子は声の方向に一瞬だけ視線を送ると、顔に何とも形容しがたい表情を浮かべた。

 村人を裏切るという行為は、家族を裏切ることと同義。

 その重圧に押し潰されそうな彼女の瞳には、複雑な感情が渦巻いているように見える。


「あれ櫻子のお父さんなん!? いいん!? このまま行っても!」


 千里は険しい山道を切り開く櫻子の背に、その決意を試すかのように問いを投げつけた。

 しかし、櫻子からの返答が無い。

 唇を噛みしめる彼女を見るに、やはりまだ躊躇いが拭いきれていないのだろう。


「止まってくれえ!」

「櫻子!」

「櫻子ちゃん!」


 最初は櫻子の父親のものだけが聞こえていたが、その声に重なるように、他の者たちの声も混じり始めた。

 それに比例して、懐中電灯が差す光の数も、自ずと増える。


「櫻子ちゃん! 急げ! このままじゃ追いつかれる!」


 最後尾を守護するように駆けるシガケンが、先頭に聞こえるよう木々に向かって声を嗄らした。


「みんな! まっすぐ行けば夫婦滝に繋がる川があるから!」


 葛藤の末、何かを決意した様子の櫻子。

 彼女の次を走る千里は、言わんとすることを察し、眉を潜める。


「櫻子! 何言ってんの!」


 急ブレーキを踏んだ櫻子は振り返る。


「絶対追いつくから!」


 思わず千里も足を止める。

 ミトモモとシガケンも同じく。


「行って……!」


 これまでで一番の声量で、櫻子は声を荒げた。

 背後では追跡者たちの足音が、獣のような勢いで迫り来る。

 その音は鼓膜を打ち、危機が肌に伝わってくるほどの距離にまで近づいていた。


「絶対な」


 千里は櫻子の片腕を握り、真っ直ぐな眼差しを彼女に刺した。

 もはや脅迫にも思えるその目は櫻子にとっては嬉しいものだったらしく、彼女は潤ませた眼のまま、力強く首を縦に振る。

 他の二人もまた、心強い面持ちで、櫻子に目を向けた。


「絶対行く」


 櫻子の誓いを受け取った千里は、後ろの二人と視線を交わし、全力で走り出した。

 すれ違い様、ミトモモは櫻子にハニかみ、シガケンは軽く肩をポンと叩いて信頼を託す。


 ――――三人は振り返らず、ただひたすらに足を回した。

 草を殴るように分け、土を蹴り飛ばし、存分に体内へ酸素を巡らせた。

 櫻子が時間を稼いでくれたおかげか、それ以降は背中をライトで照らされることも無かった。

 彼女が無事でいてくれることを祈るばかりだ。


 そうして、待望の優しいせせらぎが鼓膜を揺すり始める。

 木々の割れ目に飛び出た三人は、荒い砂利を踏みしめ、異世界から現実世界に戻ってきたような感覚が全身に染み渡った。


「二人とも下がれ!」


 突如、シガケンが二人の前に立ち、背を見せた。

 彼の視線の先――――川下には、五本の光線がこちらに向いていた。

 それに気付いた時、川上でもゴリゴリと石が擦れる音が鳴り始め、複数の光の筋が闇に浮かぶ。

 さながら舞台に立つ劇団員を映やすスポットライト、或いは大泥棒を晒すサーチライトのように、三人を集中して照らし当てられている。


「ここまで来たのに……」


 深く息を吐いた千里。


「チーちゃんん……」


 震えた手で、千里の腕にしがみつくミトモモ。


「さすがに多すぎやろ……」


 頼り甲斐のあるシガケンでさえ、数的不利には成す術が無い様相を見せている。


 ――――じりじりと間合いを詰めてくる男たち。

 その手には、畑仕事に用いるであろう鎌や鳅が握られており、どれも刃先は錆びついている。

 対するこちらは、丸腰の状態かつ、女二人男一人という圧倒的な劣勢。

 武装も数も、絶望的な差であった。


 無謀な抵抗を試みたところで、鈍く錆びた農具が容赦なく肉を裂き、無残な傷口から破傷風菌が忍び込むだろう。

 とはいえ、抵抗せずとも、捕らえられれば最後、両腕は切り落とされ、この地に棲みつく忌まわしい言い伝え――――無垢のテナシと化す運命が待ち受けている。


「大人しくしろ!」


 川下、五人の先頭に立つ白髪の男が鍬を突き付ける。


「なんで俺たちなんすか!」


 シガケンが対話を試みた。

 ミトモモが頼りにしていた千里でさえ怯え、今やシガケンの両手には芳しい華が二輪、集っている。

 そこだけを切り取ったのなら、いくらダサい男でも顔が良ければモテるという風刺画のようにも見えなくはない。

 もっとも、そんなことに現を抜かす余裕は、今のシガケンには無いが。


「お前らが村に来たからや! もうどうしようもない! 潔く受け入れろ!」


 理不尽な言葉を吐き捨てた直後、男たちは雄叫びを上げ、猛然と駆け出してきた。

 話し合いを拒む相手に情を訴えたところで、それは虚空に消えるだけだ。

 ならば逃走を選ぶ他に道は無い。


 ――――前方も後方も退路は無し。

 さりとて来た道を引き返せば、櫻子の父親たちと鉢合わせる危険性がある。

 淡い希望があるとすれば、川を渡って対岸の森に逃げ込むことだろうか。

 ただ、それに縋るにはあまりに不確実だ。

 川幅は目測で約30メートル。

 決して渡れぬ距離ではないが、ライトの光では水深はおろか、流速も読み取れず、もし流れに呑まれれば溺死する可能性もゼロではない。

 いや、いっそこの状況で安楽死を望むのなら、溺れ死ぬことなのかもしれない。

 迫り来る凶器を前に、千里はそんな卑屈な思考に取り憑かれつつあった。

 しかし次の瞬間、右手の茂みから、黒い影が飛び出す。


「ぐぁっ……!」


 川下から襲い掛かる集団の一人が、車に跳ねられたかのように宙を舞い、豪快な飛沫を上げて川に着水した。

 男が持つ懐中電灯は防水仕様なのか、水中から漏れ出す光の筋は途絶えることなく下流に押しやられてゆく。

 どうやら流れは強いらしく、水分が満ちた男の喚きが何度か聞こえたが、ほどなくして呑み込まれ、光と声は遥か遠くへ霞んでいった。

 暴れながら水中でうねる光線は、さながら蛇のようで、どこか美しく、神秘的だった。


 千里たちはもちろんのこと、周りを囲む村人たちも狼狽え、右往左往するライトがその騒然たる事態を表していた。

 間髪入れずに、次々と男らが川へと飛び込んでゆく。

 それが彼ら自身の意思なのか、影による仕業なのかは千里にも判別できなかった。

 しかし間もなく、影の正体が明らかになる。


「イィィィィイイイィイイイイッ……!」


 ――――剥き出しの眼球。

 吊り上がった口角。

 膝から脛にかけて貼り付いた絆創膏。


「テナシだああ!」


 後方の男が喉を震わせた。


「イイイイイッ!」


 大地を揺るがす雷鳴のように咆哮したテナシは、川下にいた最後の男に猪突猛進し、水中へ弾き飛ばした。

 周知のとおりテナシには双手が無い。

 だが、それは何の障害にも感じていない。

 テナシの攻撃は、ただひたすらに体を使った突進と蹴りに絞られるが、一挙手一投足に全く無駄が無く的確。

 反撃の隙を与えることなく、瞬く間に敵を一掃したのだ。


「イィ……」


 自然と、全てのスポットライトがテナシに引き寄せられる。

 今の一瞬だけは、この世界の中心であるかのように――――この演劇の主役であるかのように、周囲の空気さえも彼に吸い込まれてゆく。

 そして、次なる獲物を探すべく、ゆっくりと振り返り、その照準をシガケンに定める。

 安直に推察するなら、彼との距離が最も近いからだろう。


 テナシは悠然と歩み始めた。

 一歩一歩、淡々と歩を進める。

 緩やかに砂利が摩擦する音が大きくなり、テンポも速まってゆく――――やがて、矢のように疾駆する。


「イイイイィイィィッ!」


 覚悟を決めたシガケンは、格闘技の経験が無いものの、両拳を前に添え構える。

 邪魔にならぬよう、千里とミトモモは少しだけ後ろに下がり、彼に重なるように身を縮めた。

 しかし三人の臨戦態勢は、全くもって必要なかったことを体感する。


 テナシは千里を一瞥をくれた後、三人をスルー。

 勢いそのまま、川上に立つ逃げ腰の村人たちへ一直線で駆け抜けた。

 直後、男たちの悲痛な叫び声が響き渡る。

 その声色は千差万別で、恐怖と絶望が入り混じった、聞くに耐えないものであった。


「千里! ミトモモ! ボサッとすんな行くぞ!」


 呆然と立ち尽くしていた二人を、シガケンが現実に引き戻す。


 テナシのおかげで開かれた退路に、拒む者はいない。

 三人は迷いを振り捨てるように、全速力で駆け出した。


 行く先々で、川の中に眩い光が認められた。

 もし仮にこの状況がゲームなら、そこを探れば鉱石などの貴重な素材が入手できるのかもしれない。

 しかし千里らにはそこに何があるのかは、探るまでもない話だった。

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