第2話 姉−3
僕と姉の間に、会話はほとんどなかった。せいぜい「おはよう」程度だ。おそらく姉も、僕と同じ気持ちだったのだ。突然15才の弟ができて、どう接したらいいかわからなかったと思う。そんな僕と姉が、薄い壁一枚で仕切られた部屋で寝起きした。自分の部屋すら、僕は居心地が悪くなった。
春になり、僕は公立の進学校に入学した。その高校は、家から車で30分くらいかかる場所だった。そんな遠くの学校を選んだのは、第一に、この家から離れたかったからだ。第二に、横浜線沿線だったからだ。東京都から出て、横浜に近づきたかった。横浜は、先端の街というイメージがあった。横浜には、きっと新しいことがある。新しいことが、姉と母を塗りつぶしてくれればいい。僕は、漠然とそんなことを考えていた。
しかしそれは、無駄な抵抗だった。高三になった姉は、ますます綺麗になった。部活を引退すると、大学受験のために、姉は部屋にこもるようになった。僕は彼女に気を使って、部屋で音楽をかけたり、大きな物音を立てないようにした。すると、さらさらさらと、姉がペンを走らせる音が聞こえる気がした。勘違いかもしれない。でも、僕にはそう聞こえた。その音は、そよ風のように心地よかった。
高校一年ともなると、男同士でキワドイ話をするものだ。クラスメイトの女の子が、僕らの妄想の犠牲者となった。
「蒲原って、いいケツしてるよな」
「同感!」
「いや、蒲原はデカイだけじゃん。清水の方がいいよ」
「え〜、清水って陸上やってるから、ケツは筋肉だぞ」
「締まってるから、いいんだよ」
「納得いかね〜」
いつも、こんな調子だった。こんな話に参加しているとき、僕は姉を想った。姉はこのクラスのだれよりも、いや、この学校の誰よりもいい女だ。そう考えて、僕は誇らしい気持ちになった。僕はだんだん、実の姉に恋することに慣れてきた。許されぬ恋に、良心の呵責を感じなくなった。頭がもう、麻痺していた。だから、あんなことをしたのだ。
姉は学校帰りに予備校へ通い、ほぼ21時きっかりに帰ってきた。彼女は部屋で着替えて、まずお風呂に入る。お風呂の次に遅い夕食を食べ、それから部屋で勉強をする。毎日きっかり、1時まで。とても規則的だった。
あまりに規則的だったから、僕は許されぬ企みを思いついた。もちろん、悪いことだと思った。踏み越えてはいけないラインだと思った。だが、魅惑がそれらに勝った。抵抗できない力が、僕を操った。
我が家の風呂は、一階の北側にあった。風呂の外はすぐ塀で、その先は隣の家だった。風呂の窓から塀まで、1mもない。おまけに、灯りもなくて真っ暗だ。その暗がりに、僕は忍び込んだ。まるで闇を好む昆虫のように。
毎日姉が風呂に入ると、僕はそっと部屋を出た。裏口から外に出て、忍び足で風呂場の前に立った。風呂の窓を、少し開ける。最初は、ムワッと大量の湯気が出る。それに耐えると、次第に視界が開ける。目の前に、姉がいた。女性らしく、全身をくまなく洗っていた。
あまりにも、呆気ない犯罪だった。姉は、全く気がつかなかった。僕は、彼女の身体を凝視した。この美しい生き物の、あらゆる部分を記憶しようと努めた。でも、カメラは使わなかった。それだけは、したくなかった。あくまで、自分の両眼だけにこだわった。
姉の入浴を覗くようになって、一週間が経った。知らず知らず、僕は警戒心が緩んでいた。いつもと同じく、風呂の窓の前に立った。そのとき、突然「進!」という怒鳴り声が聞こえた。
その声の主に、僕は首をつかまれた。風呂と塀の狭い通路から、庭に引っ張り出された。父だった。風呂場から、姉の「何?何?」とうろたえた声がした。父は僕を、庭に倒して馬乗りになった。僕の顔を、両手の拳で一発、二発、三発、・・・と立て続けに殴った。
父は、大人しい人だった。父と暮らしてきて、僕は体罰を受けたことは一度もない。むしろ暴力全般を、否定するタイプの人だった。だから、その夜の父は異様だった。父は力を込めて、僕を殴った。何発目かで、ガキっというすごい音がした。前歯が折れたのだ。でも父は、殴り続けた。折れた前歯が、口の中で踊った。内部のあちこちを傷つけ、口から血が噴き出て庭にこぼれた。
父は、泣いていた。僕を殴りながら、おいおいと泣いていた。ようやく僕は、これで合点がいった。父は、僕を罰しているのだ。当然のことだ。殴られて、当たり前だ。だから、僕は抵抗しなかった。五十発くらい殴られて、僕の顔は真っ赤に腫れ上がった。次の日から、僕は一週間学校を休んだ。
それ以来、姉は毎朝早く家を出るようになった。夜は、予備校の自習室で勉強をして、23時頃に帰るようになった。つまり、僕が目覚める前に家を出て、僕が夜部屋に入った後頃に帰ってきた。僕と姉は、一切会わなくなった。
僕も変わった。母はもちろん、父とも話さなくなった。僕なりに、罪悪を背負った。家にいると、何をしていてもあの覗き行為を思い出した。たまらなくなって、僕は家から逃げた。自転車で20分かかるファミレスに、夜中までバイトをすることにした。僕は、姉よりもさらに遅く帰った。父よりも母よりも遅く床についた。