74話 龍の遺産
俺を乗せたラーンはルクス湾の上を飛び、邪竜の吹き飛ばされた方向に向かっていた。
「逃げていく……あそこは……」
邪龍は蛇のように体をうねらせ、海から浜辺をゆっくりと移動していた。向かう先は、龍人たちが避難していた崖下の洞窟のようだ。
ラーンは、それを見て言う。
「祠に……これは」
「人目に付かない場所だ。俺たちを呼んでいるのかもしれない」
俺はそう答えた。
体力を回復させるなら、海中深くに潜ればいい。しかしそうせず、しかもわざわざ自分が封印されていた洞窟に向かうのは、何か意図があるからだろう。
体の動きを見ても、邪龍はもう瀕死の状態だ。
邪龍が洞窟に入るのを見届けてから、俺たちも洞窟に入る。
洞窟の中では、邪龍が顔だけを海に向けて力なく横たわっていた。
ラーンが着陸し、俺とエリシアも地上に降り立つ。警戒する俺たちだが、ラーンだけは一目散に邪龍の顔の近くに飛んだ。
邪龍ももはや敵意はないようだ。瞼を開き、燃え滾るような赤い瞳でこちらを睨む。
禍々しくも美しく感じた先ほどとは違い、今の龍からは神々しさを感じる。瞳も鱗も宝石より眩く輝いていた。
一瞬驚くような表情をした邪龍だが、駆け寄るラーンに視線を向けて口を開いた。
「我が血を引く葉末……苦労をかけたな」
ラーンの見た目は翼が生えたりと変わっているが、邪龍は子孫と分かっているようだ。
「もう、何も仰らないでください、祖龍よ」
ラーンはそう言って邪龍の頬を撫でる。
邪龍は首を小さく横に振る。
「我に気遣いは無用……我は己が力を過信し、闇すらも支配できると考えた愚者だ。罪なき人々を殺め、そなたたち葉末に永遠とも思える苦難の道を歩ませた」
闇を支配しようとし、そして邪龍に堕ちた。やはり闇魔法を使おうとし悪魔化するのと同じような感じだろうか。
「しかし……これは天龍の罰か、あるいは慈悲か。我が前に闇を操る──人間が現れるとはな」
邪龍は俺にぎろりと目を向ける。
俺を”人間”と邪龍は呼んだ。悪魔ではなく、”人間”と。
どこかほっとするような気がしたが、邪龍は少し判断に戸惑ったようにも見えた。
邪龍に訊ねる。
「俺が、一瞬でも悪魔に見えたのか?」
「いや、単に魔法を見て疑ったまで。そなたはどこからどう見ても人間であろう。人間よりも人間らしい」
「そう、か……」
「ふむ。その口ぶりからすると、何故自らが闇の力が操れるかは分からぬようだな」
邪龍の問いに俺は頷く。
「一つ手掛かりがあるとすれば、この俺の手にある深淵の紋か」
まさか、自分を操るはずだった悪魔がポンコツだったとは言えない。いや、その可能性は高そうだけど……
「なるほど人の授かる、紋章か。人間には、紋章があったか」
邪龍はやけに納得したような顔をした。
「だが闇の神の紋を授かる者はいくらでもいたはず……いや、お主の持つ紋は……見たことがない」
「やはりか」
こくりと邪龍は頷く。
「紋章は望むものを得られるわけではなかろう。そなたは闇の力を操れる紋を授かる運命にあった。翼を持たぬ龍から、翼を持って生まれた赤子のように」
つまり、偶然、たまたまというわけか。
今のところは確かにそうとしか説明がつかないな……
邪龍は続ける。
「とはいえ、良いものを見せてもらった。そして何より、我と葉末を永遠の苦しみから解放してくれた。礼に、我が研鑽した龍眼を授けよう」
「龍眼?」
ラーンが頷く。
「生まれながらにして龍の目に宿る天龍の力です。人の紋章のように、龍に力を与えます」
「そんなものを俺に? それに受取るのなら、ラーンが」
末裔の代表であるラーンが受け取るべきだ。
しかしラーンは首を横に振った。
「祖龍がそうお望みなのです……それに、私の主はすでにアレク様。アレク様にこそ受け取っていただきたく存じます」
「だけど……その前にどんな力なんだ? 俺が授かっても仕方がないかもしれない」
俺の声に、邪龍はふっと笑う。
「そう身構えるほどのものではない。我が葉末が人の紋章のようだと口にしたが、人の紋章と比べれば、はるかに些細な恩恵だ。我ら龍は強者故、人ほど天には愛されておらぬのでな──いや、そなたには少し失礼だったか」
「気にするな……祟る神も神の内だから」
闇の神に愛されてしまったのだろう。
「ともかく、受取るのだ。単に物を見極めるのに恩恵があるだけだ。我には時間がない」
「でも……ラーン、いいのか?」
ラーンは深く頷く。
「どうか、その力を以て我らをお導きください」
「分かった。頼む」
邪龍はうむと答え、眼から光を発する。
やがて光が収まると、邪龍が訊ねてくる。
「どうだ?」
「どう、と言ってもな」
「天を見上げ、よく目を凝らすとよい」
「目を凝らす? ──っ!?」
洞窟の岩の天井が透け、はっきりと青空が目に映った。
「天井が透けている? 外の景色か? なんだこれ……」
「透視の力だ。絶えず血を巡らす生き物は難しいが、人の衣服や鎧ぐらいは透かして見えよう」
そう話すと、エリシアが何かに気付いたように呟く。
「……はっ! ということは、いつでも私の体をアレク様が……!」
今以上に体型を維持しないとと一人顔を赤らめるエリシア。
「絶対にそんなことには使わないから安心してくれ……いや、しかしこれは」
今までも壁越しなどで魔力の形を掴めた。だがこれがあれば、より詳細な情報を得られる。
覗きには使わないと言ったが、刺客が服の下に忍ばせた暗器を察知することもできるだろう。
「しかも、なんだか視力が良くなった気がする……動く物をはっきり捉えられるような」
「遠くを飛ぶ鳥の羽ばたきすらも鮮明に見えるはずだ。龍ならば誰しも得られる龍眼の力だ。同じく龍が持つ浮遊の力も得られたはずだ。お主は先ほど空中を瞬間的に移動していたが、きっと役に立つだろう」
軽くその場でジャンプして浮遊するよう念じると、俺の体はふわりとゆっくり落ちていく。邪龍の言うように《転移》と組み合わせれば、空の移動も楽になる。
「すごい……どれも素晴らしい力だけど、魔法でもここまでの透視は難しい」
「喜んでくれるか。特に透視は弱点を探るため、鮮明に見えるよう鍛練を重ねたからな」
邪龍は満足そうな顔で答えるが、口から血を流す。
俺は慌てて言わなければいけないことを思い出す。
「……そうだ。お前の子孫──ラーンたちは、俺の眷属となってくれた。これからの難を逃れるためだ。お前も望むなら」
「我にも、その眷属になれと言うのだな。だが、無用だ」
邪龍はそう言うと、洞窟の外に目を向ける。
「我はさらなる力を求めたがために、かつて罪なき者たちに対し災厄をもたらした。報いを受けなければならぬ。それに、葉末と己の力を絶やさずに済んだ。これ以上の福を我は受けてはならぬ」
無理強いはしない。
昔滅ぼした殺した人々に対し、罪の意識があるのだろう。
邪龍はラーンに目を向ける。
「苦労をかけたな。我が血肉は今宵の餐とし、骨と鱗、牙は己を守る武具とせよ」
「祖龍の亡骸にそんなことはできません……」
「我はそなたたちに苦労をかけた。何か、そなたたちに遺したいのだ。それに血肉を与えるは、龍に伝わる葬儀でもある」
それでもラーンは首を横に振る。
そういった龍の信仰もあるのだろうが、ラーンたちは人間と交わりここで暮らしてきた。墓地も作っていたし、仲間の遺体はそのまま埋葬していたのだろう。血肉を食べろと言われても、なかなか受け入れられるものじゃない。
俺はこう提案する。
「帝国では故人の遺髪を残す風習もある。生え替わる物だけ、遺してはどうだ? 残りは、俺の島に埋葬する」
「となれば、髭と鬣、鱗、牙ということになるか……ラーンよ。それならば使ってくれるか?」
邪龍の問いに、ラーンはゆっくりと頷く。
「それならば……形見と思い、大事にさせていただきます」
「そうか……ありがとう。これで思い残すことはない」
邪龍は満足そうな顔をする。
ラーンたちにとっては自分たちを苦しめる原因を作った邪龍だが、やはり自分たちの祖先ということもあり複雑な思いなのだろう。
そもそも帝国の貴族が封印を解かなければ、邪龍が暴れることも、龍人が死ぬこともなかった。龍人たちはここで静かに暮らせればよかったはずだ。
もちろん、善か悪かと問われれば邪龍は悪だ。力を求め関係のない者を死に至らしめたのだから俺は同情できない。
「ラーン……ここでは長居はできない。邪龍をアルスへと送るから、そこで仲間と最期を看取ってくれ。龍人たちもアルスへ戻っているはずだ」
こくりと頷くラーン。
しかしエリシアは不安そうな顔だ。
邪龍が暴れるというよりは、俺にこの巨大な邪龍をアルスへ《転移》させられるかと思っているのだろう。
だが龍人に仲間になってもらった──きっとできるはずだ。
俺はアルスの砂浜への《転移》を念じる。
すると、一瞬で燦燦と陽が降り注ぐアルス島へ戻ってきた。邪龍はもちろん、エリシアもラーンも一緒だ。
邪龍は驚くような顔をする。
「この風……こんなにも遠くへと一瞬で」
どうやら帝都とアルスが相当離れていることに気が付いたようだ。
邪龍はこう続ける。
「龍眼を与えるに相応しい者だったな……そなたなら、龍王すらも降すかもしれん」
「龍王?」
「地上にある全ての龍の頂点に立つ者のことだ。お主の今後──天、いや地の底から見守るとしよう」
愉快そうな顔をすると、邪龍は満足そうに目を閉じた。
その頭をラーンが優しく撫でる。まだ生きてはいるが、もう長くはないだろう。
「ラーン……俺はマーレアス号に戻って、救助なりやることがある。後は任せていいか?」
「任せるなど……お慈悲をくださり、ありがとうございます」
ラーンは俺に深く頭を下げた。
しかし、闇の力か。龍すらも欲すとは……
死を確定させてからとはいえ、俺も闇の魔力に手を伸ばした一人だ。たしかに、闇の力には他者を惹きつける魅力がある。
だがどうして、龍も使えなかったものを俺が使えるのか。やはり、すでに存在感すらなくなったあのポンコツ悪魔のおかげなのか──
俺がこれから向かうミレス……そこで、何かしら悪魔や闇魔法に関する知識を得られればいいが。
俺はこの後ルクス湾にいるマーレアス号に戻り、沈んだ船の救助を手伝うのだった。