184話 最後の選択肢
夜が明けて間もないころ、水平線に一隻の船が見えた。帆をいっぱいに膨らませたその船は、瞬く間に俺のいるヴェルトワの桟橋へと近づいてきていた。
船から錨が下ろされ、渡り板が桟橋へかけられると、真っ先に船を下りる者がいる。
俺より頭二つ分ほど背が高い、長い黒髪の女の子。耳はとがっていて、人でないことが窺える。
──マレンだ。
桟橋を歩き近づいてくるマレンの表情が徐々に分かるようになってくる。深刻そうな顔をして、ただ真っすぐ前を向いている。
龍眼で先程から甲板に立つマレンを見ていたが、そのときも同じような表情で陸地を眺めていた。
早く故郷に戻りたい……そんな焦る思いが嫌でも伝わってきた。
マレンは桟橋から俺の立つ埠頭に到着する。俺はエリシアとメーレと共にそれを待っていた。
しかし俺に気が付く様子はない。高速船を出迎える者は俺を含めて十名ほど。子供は俺とメーレだけだが、マレンはこちらを一瞥することもなかった。
俺のことを忘れた……というよりは、気にしている余裕すらないようだ。
マレンは近くにいた港湾の作業員に何かを訊ねるが、作業員は首を横に振る。
肩を落とすマレン。だがすぐに街へと向かう。
俺はマレンに声をかける。
「マレン」
「うん? ……え?」
マレンは振り返るときょとんとした顔をした。しかしすぐに驚いた様子で言う。
「あ、アレク? な、なんでこんなところに?」
「いや……実はちょっと商売で来ていたんだ」
マレンはこちらに体を向けて言う。
「こんなところに商売に? ……アレク、悪いけどやめたほうがいいと思うよ。ここはあらゆる商会の墓場って言われているぐらいだから」
マレンはそう言うと、何かに気付いたような顔をする。
「ごめん。実は急いでいて。それとしばらく大学には戻れないから」
「何かあったのか?」
「……大丈夫だから。それじゃあね」
俺に背を向けるマレン。
「待ってくれ、マレン。まだ会って間もないけど友人だろう? 何か力になれるかもしれない」
マレンは一旦足を止めて言う。
「こんなことは言いたくないけど、アレクは帝国の人でしょ?」
特に帝国から来たことはマレンに名乗っていなかった。しかしヴェルトワに入ったときも、俺たちに嫌悪の目を向ける者がいた。外国の者からすれば、ちょっとした動作で俺たちが帝国人だと分かるのだろう。
「それ以前に、俺たちは友人だろう? 一緒に悪魔なんかを召喚しようとした」
そう言うと、マレンは言葉に詰まる。
しかしやがて首を横に振った。
「……アレクのためにも、関わらないほうがいい。ごめん、行くね」
そう言ってマレンは足早に俺のもとを去ってしまった。
その背を見てメーレが呟く。
「とても挨拶できる雰囲気じゃなかった……」
「相当深刻な表情でしたね」
エリシアの言う通り、やはりマレンは重大な問題を抱えているようだ。
メーレが俺に言う。
「頼ってくれると思ったけど、読みが外れたね。一瞬、気持ちが揺らいだようにも見えたけど」
「そうだな。言葉に詰まったのは、一度は俺を頼ろうとしたのかもしれない。しかし結局そうはしなかった」
エリシアが頷く。
「頼れない理由があったわけですね」
「そうだ。マレンは俺が帝国人だと知っていた。そして俺に関わらない方がいいと言った……察するに、帝国が関係していると見て間違いない」
「ノストリアは帝国の辺境と接しているのでしたね」
「そうだ。明確な国境線もないから、力で勝る帝国の辺境貴族の襲撃や略奪が頻発している。マレンの故郷もそれに巻き込まれたのかもしれない」
メーレがそれに答える。
「私はユリスにこのことを伝えてくる。周辺の帝国貴族の情報を知っているかもしれないし。知らなかったら調べてくれるかも」
「頼む。俺はマレンを追ってみるよ」
そうして俺はメーレと別れ、エリシアと共にマレンを追うことにした。
姿を見せながらだとマレンが俺たちを撒こうとするかもしれない。そうすればマレンの帰郷が遅れてしまう。だから《隠形》で姿を隠し追跡した。
しかし俺たちの配慮がどうこうという前に、マレンの帰郷は難航しているようだった。
城門で待機する荷馬車の御者や付近の商店に、馬車を手配できないか訊ねているのだろう。だが、どこも首を縦に振らない。
一方で俺たちが新たに借りた商館には足を踏み入れなかった。青髪族たちが商館の前にいたのだが、帝国の者だと察したのだろう。
マレンは途方に暮れるように、街路で立ち尽くす。
歩いて向かうには時間がかかる、といったところか。子供一人では、盗賊や魔物に襲われる心配もある。
……多少強引だが、手を貸すしかない。
帝国人の俺が駄目なら、別の俺が向かうだけだ。
俺は仮面を付けて、鼠の王へと姿を変える。服もさすがにこのままではまずいから、ローブのようなものをエリシアに羽織らせてもらう。
そうして俺はマレンのもとに歩み寄った。
「困っているようだな?」
「え? ……誰?」
「俺は鼠の王だ」
首を傾げるかと思ったマレンだが、思い出すような顔で言う。
「鼠の王……船内で船員が話していた、あの鼠の王? どこからともなく現れては、困っている人を助けるって言う」
高速船内でも噂になっていたのだろう。鼠の王の噂は広がっているようだ。
「その鼠の王かは分からないが、俺は虐げられている魔族や闇の紋章持ちを守るために戦っている」
「そんなことも話していたわね……その鼠の王が、なぜ直接私に」
「君が困っているように見えた」
「……」
マレンはその言葉に黙り込んでしまう。
「私に、力を貸してくれるの?」
「そうだ」
「ありがとう──そう言いたいところだけど」
マレンは俺に両手を向けた。
「何の真似だ?」
「あなたたちの情報収集能力はすごいって聞いた。だから、私のことも知っているでしょう。私を殺しにきたの? ……悪魔を呼ぼうとしている私を」
悪魔を呼ぶ……マレンは悪魔を召喚することにこだわっていた。拝夜教団や魔王軍でもなければ、誰もが敵視するような行為だ。
以前も俺は、マレンになぜ悪魔でないといけないのか訊ねた。その際、マレンは悪魔は強く、故郷を守るのに使役したいと言っていた。
しかし強い召喚獣は悪魔に限らない。マレンは他の召喚獣も呼び出せるはずで、使役できるかも分からない悪魔より、そちらを伸ばしていけばよかったはずだ。
そもそも悪魔は強力だが、魔物を攻撃するとは聞いたことがない。
つまり、呼び出すのが悪魔でなければいけない理由は……
「……悪魔を使い、大量の人間を殺す。君はそう考えているんだな」
相手が天使ということも考えられる。しかし天使は人を襲わない。
「……そうよ。魔族も闇の紋章持ちも、等しくね。近隣の者たちは、帝国人もノストリア人も敵」
マレンの目的は部族を守ること。そしてそのためには、周囲のあらゆる勢力を打ち倒す必要があるようだ。
「だが、もし大量の人間を殺す必要がないなら……君の故郷が守られるなら、どうする?」
「悪魔を召喚する以外、そんな日は来ない」
マレンは幼い。そう思い込んでいるだけか、あるいは他に悪魔でないといけない理由があるのか。
だがいずれにせよ、確かなことがある。
「……マレン。結論から言うなら、君が今悪魔を召喚するのは、どうあがいても無理だ」
「……それは」
「大学で友人の助けも受けながら闇の召喚魔法を使って、君は悟っただろう。悪魔を召喚できるとしたら、膨大な魔力の根源が必要になるはずだと。その根源はどこにある?」
つまりと俺は続ける。
「君が故郷に戻ったところで、何も変わらない……ある一つの手を除けば」
マレンはゆっくりと自分の手の甲に目を向けた。そこにあるのは闇の紋章だ。
「……そうね。それしかない。私が悪魔になる。それが最後の手」
「悪魔になれば、見境なく人々を襲う獣になる。君自身が、故郷の者を傷つけてしまうかもしれない……君はそれが嫌だから、悪魔を召喚する、という方法を模索していたんじゃないか?」
俺の言葉にマレンは頷く。
「そう。だから探していた……でも、もう私にはこれしか」
「マレン。俺たちは、君の味方だ。君が悪魔に心を売らない限り、君を助けられる」
「どうやって? これは、私たちの宿命みたいなものなのに」
宿命というものが何かは分からない。
しかし、奇しくも俺たちとマレンは同じような問題を抱えている。
「俺たちも……どうやっても覆らなかった結末のために戦っている。マレン、君と同じだ」
ユリスが何度やり直しても変えられなかった結末。宿命のような終焉の日を俺たちは変えようとしている。
「マレン。君を助けたい。そしてそれが終われば、君の力を貸してほしいんだ。君を助けることは慈善じゃなくて、俺たちの戦いのためでもある」
そう言うとマレンはしばらく黙り込んだ。
だが、マレンにはもう打つ手が悪魔化以外になかったのだろう。
やがて深く首を縦に振った。
「力を貸して、鼠の王……私は、どうしても故郷を救いたい」
俺はその言葉に頷き返した。
こうして俺は、鼠の王としてマレンに協力することになった。