157話 記憶
魔王領へ上陸した後、俺たちは慌ただしい日々を送っていた。
リュセル伯爵がルイベルのミレス行きの護衛を探している間、俺たちはミレスの拠点強化に力を注いでいた。
単に魔導具を運び込むだけでなく、鼠人にミレスや学院の詳細な地図を作成してもらい、万が一のときの逃走経路なども整備していく。
一方、帝都では魔族の保護や、ヴェルムをティアルス大陸領の拠点にするため、周辺の魔物の討伐などに取り組んだ。
もっとも、こちらはだいぶ気楽なものだ。
帝都ではすでに「鼠の王」の噂が広まり、魔族が襲われること自体が珍しくなっている。
ティアルスの魔物たちも、俺たちの姿を見るとすぐに退いていく。
どちらも俺たちの報復が怖いのだろう。
しかも俺自身が直接動くというよりは、眷属たちが何かを作ったり行動したりすることに、俺が許可を出すだけのことが多い。
つまり、俺自身はほとんど何もしていない。
理想的な生活ではあるが、リュセル伯爵と拝夜教団の動向を考えると、じっとしてはいられない気分だ。
かといって、誰かに「何か手伝おうか?」と尋ねても、出番がないのが実情。
皆、俺がいなくても暮らしていけそうなほど頼もしい。
少し寂しくもあるが、やがて訪れるかもしれないその日の戦いを思えば、安心でもある。
仮に俺が死んだとしても、皆ならきっと大丈夫だ。
──もちろん死ぬ気はない。
そして、もし死ぬとしても、それはその日を乗り越えた後の話だ。
それと、もう一つはっきりさせておかなければならないことがある。
──それは、俺の中にいた悪魔のことだ。
あの悪魔は最初こそ騒がしかったが、いつの間にかまったく声が聞こえなくなってしまった。
別に、寂しくてもう一度会いたいわけじゃない。
ただ、もし“その日”に備えて、あいつが俺の体を乗っ取る力を蓄えていたら──そう考えると、不安が消えない。
まあ、あの間の抜けた悪魔に限って、そんな用意周到な真似はしないだろうけど……
とはいえ、悪魔については分からないことばかりだ。
最近戦ったルスタフは、悪魔化した直後に自我を失ったように見えたが、すぐに元の人格に戻った。
闇魔法で悪魔化した者は、通常は自我を失う。
エネトア商会で出会ったエネトアの息子もそうだったし、歴史上の記録を見ても例外はない。
だが、例外はある。
中身の悪魔を排除して正気に戻った邪龍や、俺の眷属になって悪魔を抑え込んだメーレのように。
ルスタフも、その例外の一人と言えるのかもしれない。
単に、俺の中の悪魔と同じで、ルスタフの中の悪魔も弱かっただけなのか?
だが、ルスタフの野心は相当なものだった。
その強い意志が悪魔を飲み込んだと考えれば、話としては筋が通る。
ただ気になるのは、ルスタフが正気に戻った際、悪魔と争っていたようには見えなかったことだ。
むしろ目的は一致していた。
ルスタフは、人類だけでなくすべての支配者になると言っていた。悪魔も同じような野望を抱いていた。
──つまり、悪魔と同じ目的や欲望を持っていれば、飲み込まれずに済む可能性がある。
下手をすれば、人間の意志が悪魔を制することすらあるのかもしれない。
俺は賭博が好きだった。
あの悪魔も賭博が好きになってたし、もしかしたら目的が一致していたのかも……
……いや、さすがにそれはないか。
結局のところ、人がどうして乗っ取られるのか、その仕組みは分からない。
だが確かなのは、あいつがまだ俺の中にいるはずだということだ。
だから俺は、悪魔を呼び覚ませないか試してみることにした。
今、俺はヴェルム近くの平原にいる。
そこには一本のミスリル製の柱が立っていた。
一見するとアルス島にある転移柱のようだが、そうではない。
これはティール島にあった装置を元に、ユーリとエリシアが作り上げたものだ。
周囲に聖属性の魔力の壁を展開する仕組みになっている。
俺はこの聖なる結界の中で、いろいろと試すことにした。
万が一、俺が悪魔化しても、この壁なら容易には破れない。
たとえ闇の召喚魔法で悪魔を呼び出しても、対処は可能だ。
壁の外からは、エリシアとメーレが心配そうに俺を見つめている。
まずは頭の中で、あの悪魔の声を思い出しながら「出てこい」と念じてみる。
だが、まったく反応がない。
声に出して呼びかけても同じだった。
エリシアとメーレが不安そうにこちらを見ている。
俺はため息をついた。
二人には、俺の中の悪魔のことも伝えてある。俺が悪魔化するかもしれないということも。
「……やっぱり、こんなんじゃ駄目か」
次に闇魔法を使いながら呼びかけてみる。
だが、それでも悪魔の声は聞こえなかった。
想定内だ。
次は闇の召喚魔法を使う。
召喚したいのは、もちろん俺の頭の中の悪魔。
俺の中にいるはずの悪魔をイメージして、呼び出せないか試す。
以前、別の悪魔を召喚したときは襲われた。
今回も警戒を怠らず、詠唱する。
「来たれ、来たれ──光届かぬ場所から来たれ……悪魔よ」
闇の魔力が渦を巻き、黒靄が現れては消える。
その場に現れたのは、一体の悪魔だった。
筋骨隆々とした体の悪魔。
俺の中で響いていた甲高い声とは違い、低く唸るような声を発している。
そして、やはり俺に襲いかかってきた。
俺はあらかじめ準備していた聖の魔力を放ち、《聖光》で悪魔を撃退する。
悪魔は光に焼かれ、すっと消え去った。
何度も試したが、出てくるのはどれも頭の中の悪魔とは思えない者たちだった。
結局、俺の中にいる“あの”悪魔を召喚することはできなかった。
やはり駄目か……
俺は深く息を吐いた。
そのとき、エリシアとメーレが結界の中に入ってきた。
エリシアが心配そうに顔を覗き込む。
「アレク様、お疲れの様子です。少しお休みになっては?」
「いや、大丈夫だよ。だけど……」
俺が言いかけたところで、メーレが察したように口を開く。
「このまま続けても、その悪魔を呼び覚ますのは難しいかも。昔聞いた話では、召喚魔法で呼び出されるのはこの世界の存在じゃないって。悪魔も召喚獣も、別世界の住人なのかもしれない」
俺は深く頷く。
「そうかもな。どのみち俺の中に宿ってる悪魔とは、直接の繋がりはなさそうだな……」
「八方ふさがりだね。その日の前に片付けておきたい問題だったけど」
メーレが珍しく難しい顔をした。
俺も思わずため息を吐いてしまった。
──あんな悪魔のために、ここまで悩むなんて馬鹿馬鹿しい。
けど、不安は潰しておきたい。
あいつは、俺と同じく賭博好きだった。
他の悪魔と違って、会話ができそうな雰囲気もあった。
「でも……目覚めさせる手立てが思いつかない」
俺が唸ると、エリシアが何かを思い出したように言う。
「そういえば……その悪魔、以前賭博に興奮していたのですよね? 私とアレク様で帝都の競馬場に行ったとき」
「ん? ああ、そうだった。俺の幻聴じゃなければだけど」
「賭博の時と同じ刺激を与えれば、もしかして……」
エリシアはそう言いかけて、すぐに首を横に振る。
「申し訳ありません。そんな簡単に目覚めるはずがありませんね……」
だが否定できる根拠もない。
「いや、可能性はあるかもしれない。それに──競馬場といえば……」
その瞬間、思い出した。そろそろ、あの馬が危ない。
「競馬場といえば?」
と、メーレが首を傾げる。
「ホーリーシャドウが危ないかもって」
「ホーリー……シャドウ?」
メーレがさらに不思議そうな顔をする。
エリシアが説明を補う。
「バイコーンの血を引いたとても強い馬なんです。あの馬のおかげで私たちはアルス島行きの資金を稼げたのです」
「あっ。競馬の馬のことなんだ……」
メーレは少し困惑気味だ。競馬には興味がないのだろう。
だが、俺が気にしているのはそこではない。
「競馬は好きだけど、競馬の話をしたいんじゃない。ホーリーシャドウはデビューから一年後、バイコーンの血を引いているという理由で殺されるんだ。そろそろ、何かされるかもしれない」
帝都では鼠の王の活動で魔族襲撃が減ってきている。魔族を襲えない鬱憤を抱えた者たちの矛先がホーリーシャドウに向かないとは限らない。
過去の時間軸ではまだ余裕があるはずだが、俺たちの活動で予定が変わる可能性もある。
「それは止めないと」
と、メーレが真面目な顔で頷く。
「ああ。悪魔の件とはあまり関係ないけど……」
「闇の紋章持ちも魔族も魔物も、みんな安心して暮らせる場所を作るんでしょ? そのバイコーンも助けてあげるのは当然だよ」
メーレはそれにと続ける。
「それに、その馬を見たら、アレクの中の悪魔も反応するかもよ?」
「まあ……あのときの大勝ち、俺自身も今まで味わったことのない興奮だったからな……」
それだけの勝利だった。悪魔の興奮もすごかったのを、俺は今でも覚えている。
──案外、本当に目覚めるかもしれない。
「ともかく、一度ホーリーシャドウの様子を見にいきましょうか?」
エリシアの提案に、俺は大きく頷いた。
「ああ、そうしよう」
こうして俺たちは、翌日、帝都の競馬場へ向かうことになった。