155話 異国への上陸
……まさか生きている内に魔王国をこの目で見られるとは考えもしなかった。
見渡す限りの砂の大地に俺は目を奪われていた。
エリシアも始めて見る光景なのか、目を丸くして言う。
「ここが魔王国の大地……」
「全然木が生えていませんね。魔王国は森林が少ないのでしょうか」
「不毛の大地、という感じだな」
ラーンとセレーナもそう呟いた。
嵐を抜けた俺たちは南東に船を進め、大陸が見える位置に船を停泊させた。
ここは、モノアの助言で見つけた、魔物が少なく上陸が容易な沿岸だ。
すでにモノアや龍人によって、沿岸近くの海も偵察してもらっているが俺たちの接近はまだ魔王国に察知されていないようだ。そもそも周囲に船はまったく見えないし、沿岸の村や街も少ない。
仮に敵がいたとしても、マーレアス号には《隠形》の魔導具があるから見た目で敵から補足される心配はない。
魔王国を見つめる俺たちの後ろで少し不満そうな声が響く。
「ここだけ見りゃ、不毛かもしれねえが、魔王国全体がこうってわけじゃねえよ。俺たちが住む北はむしろ鬱蒼とした森しかねえ。こんな砂漠は一部だけだ。おそらくここは南西部のツレム砂漠だろう」
「ツレム砂漠……二千年前から名前は変わっていないのね。毎年、西から吹く風がツレム砂漠の砂をティアルスのほうまで運んできていた」
メーレは思い出すように言った。
「とすると、ここは位置的にはティアルスの真西にあたるのか。ずいぶん、南に流されたんだな……」
嵐に巻き込まれた場所から、船で二日ほどはかかる距離のはずだ。
そんな中、後ろから突然ぎゅっと抱きしめられる。
「うう、アレク様ぁ……!」
「うん? ゆ、ユーリか」
振り返るとそこにはユーリの泣きじゃくる顔があった。
嵐にいる間、やはりというか外の眷属たちは大混乱に陥ったとのことだった。しかしそれをユーリが中心となって抑えていてくれたらしい。
俺たちが嵐を抜けたあとも船に乗り込んだ魔物たちの食事の用意など、奔走してくれた。
ようやく色々と落ち着き、俺のもとに来れた、というわけだ。
俺は、俺の胸を抱き寄せるユーリの腕に手を添えて言う。
「ユーリ、心配をかけてすまない」
「いえ……私こそ、たった一夜お留守にされただけで、すいません……だけど、アレク様と会えなくなったらと思ったら、私不安で不安で……ううっ!」
ユーリはさらに俺を強く抱きしめた。俺はそんなユーリの肩を撫でて慰める。
それをエリシアとセレーナは若干羨ましそうに見ていた。
普通なら絶対やらないが、突然俺がいなくなったユーリの気持ちを考えればこうせざるを得ない……
そんな中、エルブレスが感心した様子で言う。
「ずいぶん慕われているんだな」
「アレク様とお会いすれば、誰もがそうなりますよ。 ……ユーリ。再会の喜びを分かち合いたいのは私たちも一緒。ですが、それは全てを終わらせてからにしましょう」
ユーリは頷くと俺から体を離して、涙を拭った。
「ご、ごめん。アレク様も、取り乱して申し訳ありません」
「いや、ユーリは本当によくやってくれた」
俺はそう言って魔王国のほうへ顔を向けた。
「それじゃあ、捕虜と帰国を望む魔物たちを沿岸に送り届けよう」
「今、小舟を用意しています。偵察しているモノアさんが戻り次第、そちらで上陸させましょう」
ラーンの言うように、龍人たちが船から海に小舟を下ろしていた。
俺はエルブレスに気になることを訊ねる。
「しかし、こんな砂漠に降ろして大丈夫だろうか?」
「近くに街や村があるから大丈夫だ。捕虜にお偉いさんがいるなら、そいつが土地の有力者と世話の話をつけてくれるだろうしよ」
エリシアがエルブレスに頷く。
「あとは、捕虜の方々に委ねたほうがよろしいかと。それに、あまり上陸に時間をかけると、魔王国の軍勢が集まってくるかもしれません。まずは上陸させ、数日分の食料や水を与えるのも手かと」
ここはすでに魔王国の勢力圏。
《隠形》でマーレアス号の姿は見えないとはいえ、魔力ですでに補足されている可能性もある。
ここはエリシアの言う様に、早急に魔物たちを上陸させるべきだろう。
「そうしよう。魔物たちを小舟に乗せてくれ」
少ししてモノアが上陸地点の選定と沿岸の偵察から帰ってくると、俺たちは魔物の送還を始めることにした。
まずは嵐の中に囚われていた魔物たちを、龍人たちが船頭を務める小舟に乗せて沿岸へと送っていく。
その後に、帝都で捕えたドッペルゲンガーたち捕虜を送り届けるのだが、こちらは俺自身も同乗することにした。
ドッペルゲンガーたちが最後に反抗してくる可能性もある。監視のためだ。
表向きは見送りのため、とドッペルゲンガーには伝えたが。
俺とドッペルゲンガー、そしてエリシアが乗る小舟を龍人が漕いでいく。
俺もエリシアも仮面を付けている。ドッペルゲンガーたちには顔を見せるわけにはいかない。
とはいえ、先に上陸した魔物たちから俺の名前ぐらいは割れてしまう可能性は高い。いや、もう名前ぐらいは把握されているかもしれない。
ただ、アレクという名は帝国ではありふれている。そこまで警戒することもないだろう。
小舟が陸地へ近づく中、ドッペルゲンガーが口を開く。
「昨夜は色々あったようだな」
「俺からは何があったかは言えないが……先に送った魔物たちが言い広めるだろう」
魔物たちの口に戸は立てられない
嵐のことも、俺たちのことも魔王国に少なからず広まってしまうはずだ。
ドッペルゲンガーは小さく頷く。
「そうだろうな。しかも、帝都でのことは私が洗いざらい話してしまうだろう。本当に、私をこのまま送るつもりか?」
「約束は約束だ。こちらの言葉を信用して捕虜になってくれた以上、それは守る」
「人間にしては律儀なものだ。ならばせいぜい、ありのままを魔王様にお伝えするとしよう」
「その時は、俺たちが争いを望んでいないことも一緒に伝えてくれると助かる」
そんな会話を交わしているうちに、小舟が陸地に到着する。
すでに陸地では魔物たちが上陸しており、龍人が食料や水筒を配っていた。また、ドッペルゲンガー以外の捕虜も上陸しており、拘束を解かれていた。
俺もドッペルゲンガーの拘束を解いて言う。
「これでお前は自由だ。食料や水は足りるか?」
「問題ない。他の魔物たちも含め、私がこの地の酋長に話をつける」
「そう、か。ではこれで」
「ああ、感謝する……そうだ。名を名乗っていなかったな」
「触れずにいたが、そうだったな」
魔物たちが全員名を持っているという確証はなかったため、こちらからは訊ねなかった。
「私はシャルズだ。覚えておくと良い、鼠の王よ。お前のことを必ず魔王様のお耳に入れよう。不遜にも、魔王様にお会いしたいと宣ったこともな」
「急ぎではないとは伝えてくれ。会えたらでいい。頼むぞ、シャルズ」
「そんなことを伝えたら、確実に私の首が飛ぶ。 ……いや、もうそれは決まりか」
どうやら処罰を覚悟しているようだ。
とはいえ、恐れる様子も逃げようとしている様子もない。魔王への忠節は確かなのだろう。魔王には確実に報告に行くはずだ。
そんな中、俺は魔物たちが騒がしいことに気が付く。
どうやら西のほうから何者かが向かってきているようだ。
シャルズが言う。
「土地の兵が気付いたのだろう。あとは任せろ」
「ああ」
俺はそう言って、他の眷属たちと共に小舟に向かう。
すると魔物たちからちらほら、眷属たちに声がかかった。
何を言っているかは分からない。
しかしメーレが訳してくれる前から何の言葉かは分かった。
頭を下げるなど身振り手振りで分かる。俺たちに感謝しているのだ。
「ありがとう、だって」
メーレが呟いた。
命を助けてもらったのなら、俺も同じ反応をするだろう。人間も魔族もそう変わらないはずだ。目の前の魔物たちも。
俺たち同様、争いを好まない魔物も多い。
魔王の考えは分からないが、やはり魔王国とも争いたくはないな。
そんなことを思いながら、俺は小舟に向かった。その間にも、何度か感謝するような声が響いていた。
こうして魔王国での短い滞在を終えた俺たちは、マーレアス号に帰還するのだった。
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「行ったか……惜しいな。人間でなければ、誼を通じることもできただろうに」
アレクたちの船が消えると、シャルズはそう呟いた。
「──うん? これは……!」
しかし何かに気が付いたのか急に肩を震わせると、すぐに西に向かって跪いた。それから神妙な顔をして呟く。
「昨夜の閉じ込められていた私でも分かったあれほどの騒ぎ……やはりお気づきになられていたか」
シャルズの部下たちも、平伏するなど礼を尽くして西から来た影を迎える。
周囲の魔物たちが困惑する中、西から来た影はゆっくりとシャルズの前に降り立った。
「あっ……!」
その場にいる魔物たちの誰もが影の正体を察し、ひれ伏した。
誰もが影を直視しない中、影が声を響かせる。
「シャルズ。帝都でのことは聞いたぞ」
シャルズは額を地につける。
「面目次第もございませぬ、陛下。このシャルズ。どのような処罰もお受けする所存です」
「敵地で決死の任にあった者を咎めたりはせぬ。それに、あのセスターがやられたと聞いた。余の目算が誤っていたと見る他あるまい」
「滅相もないことでございます! 陛下のご決断に間違いなど」
「あったのだよ。事実だ。あの伯爵からの連絡も完全に途絶えてしまったのだからな」
そう答える影に、シャルズは返答しようがなかった。
影は何もない海へと目を向ける。
わずかな魔力の淀みがある場所へ。マーレアス号の方向だ。
「嵐が消えたのも、おおかたあれが原因だろう……お前たちをここに送り届けたのも、彼の者たちで相違ないな?」
「ご明察の通りにございます。首領の名はアレク。帝都の魔族を助け、鼠の王と名乗っております」
「鼠の、王か。か弱い名前だな」
「しかしながら、その力は魔王様に──いえ、なんという不敬を」
「余に匹敵するやも、ということか。ふむ、ふむ」
影はその場で足踏みする。
しかし少しして足を止めた。
「……ならば、ここでやるか。不意打ちであれば、勝てるやもしれぬ」
「陛下のご決断であれば、このシャルズ従いまする。されど、彼の者に魔王様と積極的に敵対する意思は見られませんでした」
「余を困らせたいのなら、そなたたちを返すような真似はせぬだろうからな。あるいは、罠ということもあろうが……ともかく、余と会いたいと申しておったのだな」
「それも、急ぎではなく、しかも必ず会いたいわけではないと……まことに不敬な輩ですが」
「ふっ。なんだそれは。会いたいと申しておきながら、余との面会はさして重要ではないと申すか」
影は愉快そうに声を響かせた。
それからすぐに魔力の淀みを探るが、すでに淀みは見えなくなっていた。
「鼠の王とやらは、面白い船を持っているようだな……よかろう、鼠の王よ。そなたが急ぎでなくとも、余はすぐにでも会いたくなったぞ。必ずそなたの正体を突き止め、そなたと会おうではないか」
「汚名を雪ぐ機会を与えていただけますなら、ぜひ私に彼の者との交渉を」
「うむ。そなたに任せよう」
影は頷いて言うと、周囲の魔物たちに目を向ける。
「皆、疲れていることだろう。魔都までは我が船にてくつろぐとよい」
「へ、陛下のお召艦に!?」
魔物たちは影の声にざわつき始める。
しかしその声は、空から現れた巨大な帆船が吹く風に掻き消される。
「ふ、船が空を……」
「あれが、魔王様の大飛空艇……!」
魔物たちは帆船を見て、感嘆の声を上げるしかなかった。
シャルズが声を振り絞る。
「皆、陛下のご慈悲に感謝せよ! そして永世、陛下を称えるのだ! ……魔王様万歳! アシュテル様、万歳!」
その声を皮切りに、他の魔物たちも万歳を響かせる。
しかし影──アシュテルだけは、マーレアス号が消えたほうをじっと見つめていた。
「──鼠の王。そなたは余の味方となるか、敵となるか。見極めさせてもらおう」
魔王アシュテルは不敵な笑みを浮かべるのだった。