115話 枝分かれ
「ケルベロス……」
凶悪な狼の顔が三つ、こちらを睨んでいる。
かつて帝国軍が侵略してきた魔王国と戦った際、このケルベロス一体によって百人以上の帝国兵が一瞬で葬られてしまった。
家を突進だけで軽々と粉砕し、人や牛を一口で食らう──やつに蹂躙された村や町は数えきれないほどだったという。
戦力としては、最低でも天使や悪魔に匹敵する存在と見て良い。
こんなやつが帝都の地下で召喚されるとは……
だが、こいつは死霊魔法で呼び出された。普通の召喚魔法で呼び出される召喚獣とは違うはずだ。
魔力切れで消える、というのは考えにくい。
厄介な相手だな……
俺が不安に思う一方で、エリシアは全く怖気づくことなく刀を構える。
「祖龍と比べればだいぶ可愛いですね。可愛いらしいもの好きな私からすれば、斬るのが躊躇われるぐらいです」
「……可愛い、か? まあ、たしかに祖龍と比べれば……」
祖龍の咆哮は海面に大きな波を起こさせるほどだった。しかも地上から天を突き破るほどに大きかった。それと比較すれば──
「──恐れるような相手じゃないな」
「はい!」
そうだ、十分に対処できる相手だ。
むしろ恐れるべきはあの不気味な男──リュセル伯爵のほうだ。
リュセル伯爵は仲間と一緒には自決せず、ずっとこちらの様子を眺めている。
俺は後ろの隠し扉で控えていたティカに視線を送る。リュセル伯爵のマークは頼むと。
ティカは深く頷くと姿を消した。
リュセル伯爵に何か動きがあれば、俺に伝えてくれるだろう。もちろん、俺も常に警戒する。
「エリシア。まずはあのケルベロスを倒──っ!
ケルベロスは一瞬にして俺たちの眼前に迫り腕を振りかぶる。
まずは回避だ。俺はすぐにエリシアと共に【転移】して、ケルベロスの後方へと出た。
ケルベロスの腕は床を割り、闘技場全体を大きく揺らした。
「最初は人間と魔物と思いましたが、私の見当違いでしょうか?」
リュセル伯爵はそう言って首を傾げた。
自己紹介をするつもりもないし、今は返事をしている余裕もない。
ケルベロスは左側の頭をこちらに向けると、体を翻し再び飛び掛かってくる。
すぐにまた【転移】で避ける。
しかしケルベロスも予期していたのか、すぐに振り返り口から黒い液を飛ばしてきた。
あれは魔法ではなく唾液。ただの唾液ではなく触れればたちまち死に至る毒を含んでいる。
後ろに向かうのを読まれている。ならばと、ケルベロスの右に出て躱す。それからも今度は左、その次は後ろ──と転移する先を不規則に変え回避した。
だがケルベロスの攻撃と移動が早く、なかなか反撃できない。
エリシアが言う。
「アレク様。このままでは埒があきません。二手に分かれましょう」
「そうしよう……だが、無理はするな」
「はい。ですがご心配なく、遠くからメーレも支援してくれるようです」
観客席の隠し扉の近くにメーレの姿が見えた。
闇魔法での支援はメーレに任せて問題ないだろう。
俺は次のケルベロスの突進を待って、エリシアをその場に残し再びケルベロスの後方に出る。
一方のエリシアは振り下ろされたケルベロスの爪を身を低くして躱し、ケルベロスの腹の下へと潜り込む。そして聖の魔力を宿した刀を振るった。
斬撃を食らったケルベロスはすぐに跳躍し距離を取る。
効いてはいるようだが、悪魔と違って悲鳴を上げてはいない。
エリシアが刻んだ腹の傷も少し血が流れるだけで、すぐに閉じてしまった。
並みの悪魔よりも強そうだな……
「……頑丈だな」
俺も聖魔法を放ち攻撃するが全くケルベロスは動じない。
一方のケルベロスは三つの頭から毒液と黒いブレスを放ちながら、俺とエリシアに腕と爪を振るった。
こちらは二人なのに、いまだ防戦一方。反撃できる隙が見つからない。
敵は一体。持久戦をしかければ、倒せるとは思うが……
しかし、向こうも一手を打ってくる。
リュセル伯爵がケルベロスに問いかける。
「……セスター殿、いつまで飼い犬のようにじゃれ合っているおつもりですか? 彼らの弱点は、彼ら以外にあることを先程学んだではありませんか。それに、魂が多いに越したことはないでしょう?」
そう呟くとケルベロスは一つの頭を観客席のほうに向ける。
そこには体を低くして怯える観客たちの姿があった。
「ひ、ひいっ!!」
ケルベロスは俺とエリシアを二つの頭でけん制しながら、残り一つの頭で観客へとブレスを放った。
しかしメーレが【闇壁】を展開し、観客を守る。
すると今まで無表情だったリュセル伯爵が感心するように言う。
「おお、先程の移動といい、これは──人間でも魔族でもないのですね」
「……なんだ、その程度の目か」
俺の口から思わずそんな言葉が漏れた。
俺とメーレは人間だし、エリシアは魔族。魔物ではない。こいつの見立ては間違っている。
しかし、間違っていたのは俺だった。
リュセル伯爵はこう言葉を紡ぐ。
「かといって、魔物でもない。なら、考えられるのは悪魔か闇の紋章を持つ者。悪魔ではないでしょうし、簡単に悪魔化する普通の闇の紋の持ち主でもない。そうなれば、可能性はひとつ」
リュセル伯爵は不敵な笑みを浮かべる。
「闇の力に溺れず、悪魔をも撥ね除けるというあの闇の紋を持つ、ただ一人の者──それ以外、考えられません」
あの闇の紋、という言葉に俺は思わず足を止めてしまった。
──俺の【深淵】を知っている?
「アレク様!」
エリシアの呼びかけに我に帰り、すぐにその場から【転移】する。
先程までの無表情とは打って変わって、リュセル伯爵は歓喜を露わにする。
「──やはり、そうでしたか! よもや、こんな近くでお会いできるとは! 光栄の至り! ──不躾ながら、じっくりとその至高の紋を見せてはいただけませんか!?」
俺は仮面を付けている。にもかかわらず、まるで心が読まれているような錯覚を覚えた。
こいつは非常に危険だ……そしてなんとしてもこいつから情報を得なければ。
しかしそんな俺の心情すら読めたのか、リュセル伯爵はこう呟いた。
「なるほど……お話しすることは叶いませんか。しかも私がこの情報を持ち帰ることができる可能性は、限りなく低い。残念ですが、私の負けでしょうか」
リュセル伯爵は悲しそうに言うと、剣を抜いた。
「……ですが、最後まで抵抗させていただきます。望みがある限りはね。まあ、仮にこの私が無理でも、他の私がまたあなたを見つけるでしょう。そしてその紋を持つあなたには、こちら側に来ていただきます」
……私がまた?
やはり他にリュセル伯爵がいるということか?
こちら側というのは、悪魔側という意味か?
本当に謎の多い男だ。
俺が混乱していると、リュセル伯爵は剣を自分の首に当てた。
「──死なせるか」
すぐに俺はその剣を風魔法で弾こうとするが、間に合わない。
ティカも向かってくれたが、リュセル伯爵はすぐに剣を自分の首に押し付けた。
リュセル伯爵は痛がる様子もなく笑ったまま倒れる。その体は瞬く間に黒靄で覆われた。
そしてリュセル伯爵の黒靄はケルベロスに吸い込まれる──そう思った。
だが違った。リュセル伯爵の黒靄はその場に留まり、新たな姿を形作る。
黒靄が晴れると、そこには俺たちもよく見る悪魔が立っていた。
頭には二本のうねった角。体はがっしりとしており、背中には立派な黒い翼が見える。
一方で今まで見た悪魔のように凶悪な顔ではなく、無表情だった。
エリシアが口を開く。
「──悪魔?」
闇魔法を使ったため悪魔化したのだろうか?
地上のリュセル伯爵の紋章は覚えている……【聖者】だ。聖の魔法に長ける強力な紋章で有名だった。
つまり、別人?
だが、今はそんなことを気にかけている余裕はない。
ケルベロスに加え、悪魔まで現れたのだから。
ティカもすぐに排除しなければと判断したのだろう。悪魔に肉薄しナイフを振るう。
悪魔はそれを右に──いや、左右に二体へと分れ、避けた。
「──ぶ、分身!?」
慌ててティカはリュセル伯爵から距離を取る。
二体に分かれた悪魔は今度は四体に──その四体は八体にと多数の分身を作る。
やがては三十体ほどの分身が闘技場を囲んだ。
悪魔たちの中から、愉快そうな声が響く。
「──至高の紋を持つ御方に我が魔法を披露できるとは、何と幸福なことか……」
その声が響くと、悪魔たちは自らの手に黒靄の剣を召喚した。
「本気でいかせていただきます──我らの主よ!」
悪魔たちは一斉に動き出すのであった。