111話 鏡
ツレンが地下水道に入ったという報を聞き、すぐに俺たちも動き出した。
闘技場と付近の地下水道に武装した眷属たちを配備し、俺はエリシアと共に狼人たちの檻に急行する。
ツレンを尾行するティカは鼠人の伝令を送り、ツレンについて報告してきた。
エリシアが珍しく焦るような顔を見せる。
「一人……本当に一人で来るつもりでしょうか?」
「ずいぶんと不用心だな」
地下水道には盗賊やごろつきがたむろしていることが多い。
檻の周辺の安全は確保しているのなら問題はないかもしれないが……
それでも数十名いる狼人の前に一人で姿を現わそうとするのは勇気がいるはずだ。
「単に遠目から檻の様子を見に来ただけかもしれない……とりあえず俺は狼人たちに話をつけておく」
俺は仮面をつけて檻の狼人たちのもとへ歩み寄る。
狼人の一人がこちらに気が付いた。
「おお、あんたか!」
狼人たちには眷属を通じて食事を配り、その際に連れていかれる先が闘技場のような場所ということは伝えてある。
だからか皆落ち着いた様子だ。
「皆、聞いてくれ。ついにお前たちの引き取り手がくる」
「ついに来たか……どんなやつらなんだ?」
「今のところ、こちらに向かっている相手は一人……至聖教団の神官が一人だ」
「神官が一人?」
狼人たちは困惑し始める。
一人なら俺たちでも捕まえられるという声も聞こえてきた。
だが、そうされては困る。釘を刺しておく。
「たとえ相手が一人でも俺たちが現れるまで手出しはしないでくれ。相手がどんな魔法を使うかも分からない。それに共犯者も捕らえたい。お前たちの無実と相手の罪を明るみにするのに必要だ」
そう話すが狼人たちはざわついたままだ。
狼人たちもまさか相手が一人で来るとは思わなかったのか少し困惑しているようだった。
これは……俺たちが誘拐した衛兵とグルなんじゃないかと疑う狼人がいてもおかしくない。
相手が一人でも抵抗してはいけないなんて、あきらかに不自然だ。
俺たちは食事と水を彼らに与え、闇の紋章持ちや魔族であることを伝えてはいるが、狼人たちの目の前で敵を倒したわけでもない。
全て演技だと思われても仕方がないのだ。
俺は狼人たちに頼むように言う。
「……不安だとは思うが、どうか信じてくれ」
狼人たちの反応は早かった。
「もちろん、信じるよ……あんたたちの言う通りにする」
一人の狼人が言うと、他の狼人も首を縦に振る。
俺は狼人たちに訊ねる。
「……相手が一人でも抵抗するなと言っているのに信用してくれるのか?」
「あんたたちと衛兵、そしてこれから来る奴が組んでいて、あんたが嘘を吐いている……まあ、人間ならそう考えるかもな。だが俺たちは狼人。コボルトや狼と変わらねえ」
そう話す狼人は自分の鼻を指さした。
「俺たちは鼻が良い。 ……衛兵たちとあんたたちの匂いは全く違った。あんたたちからは常に海岸の住人の匂いがする。衛兵たちからは全くそんな匂いはしなかった。仲間とは思えねえ」
他の狼人たちも口を開く。
「しかも衛兵たちの匂いはゆっくり近づいてきたのに、あんたたちの匂いは突然現れる。食事や水を運んでくれた鼠たちも。只者じゃないってことが分かる」
「私たちを商品として考えているなら鼻の良さは分かっていておかしくない。でも、あなたたちは私たち狼人を特別扱いしてないから、そんなこと気にしなかった……私はそう思う」
これは……少し狼人たちを侮っていたかもしれない。
俺たちがこの近くに【転移】していたことも匂いで判断していたのだろう。
狼人たちの鼻の良さは少し考えれば気付けたはずだが、そこまで考えが及ばなかった。
……闇魔法でだいたいのことは対処してきた。魔法に頼りすぎている弊害だな
狼人が言う。
「匂いだけじゃない……食事や水をくれた鼠人たちの顔を見れば分かる。あんたたちは信用して大丈夫だ。言う通りにするからどうかよろしく頼む」
その言葉に俺は首を縦に振った。
「ああ、必ず救出する……それじゃあ、俺たちは近くで隠れているよ。もしお前たちに危害が加わるようならその時は何よりも救出することを最優先する」
狼人たちは皆深く頷いた。
そうして俺とエリシアは壁際で姿を隠し、ツレンを待つことにした。
その後も伝令が来たが、ツレンはずっと一人。
しかし闘技場側には動きがあったようで、男が十人ほど酒樽や食事を地下闘技場へと運び込んでいるとネイトから報告があった。
恐らくは観客に供する食事と酒だろう。
それから間もなく、大勢の者たちが地下水道から闘技場へと向かっているという報告もきた。
ネイトによればほとんどは騎士階級や下級貴族の者たちとのことだ。
観客と見て間違いない。
そして闘技場の執務室へと入る者たちも確認された。
皆、一見すると貴族のような者たち。
その中のリーダーらしき壮年の男は伯爵と呼ばれているというが、どこの伯爵か本物の伯爵かは不明のようだ。
至聖教団派の貴族、あるいは金儲けがしたい貴族だろうか。
報告を受けたエリシアが呆れるように呟く。
「結局、人間の企みでしたか」
「そう、だな……現時点ではそうとしか考えられない」
「そうでない可能性も考えておられるのですね?」
エリシアの問いに頷く。
「狼人を混血と呼んだり、一人でやってきたりとやっぱりどこかおかしい……相手が人間でない可能性も考えておいた方がいい。危険と思ったら、すぐに狼人も他の眷属も連れてアルスに帰る」
「承知いたしました。私も戦う場合はあらゆる状況を想定して挑みます」
エリシアがそう言うと、やがて檻へと近づく魔力を感じ取れるようになった。
たしかに人間の形をした魔力……檻の前に現れた魔力の正体は、話にも出ていた壮年の神官ツレンだった。
狼人たちは声を上げ、ツレンに罵声を浴びせる。
「おいお前! 衛兵の仲間か!?」
「さっさとここから出せ!」
落ち着いていてはツレンに怪しまれる。
この状況で怒るのは当然の反応だ。
狼人たちもそれが分かっていてこうしているのだろう。
ツレンはそんな狼人たちを見て面倒くさそうな顔をする。
「そう騒がないでよ……兄弟」
「兄弟?」
俺の頭に浮かんだ言葉を、狼人が発した。
狼人たちの誰もが困惑するような顔を見せる。
兄弟という言葉の印象が強く気付くのに遅れたが、ツレンの声はあまりにも高かった。
壮年の男とは思えない、子供のような声だ。
すぐに姿を隠したティカが俺と合流し耳打ちする。
「声が……私が今まで耳にしたツレンの声はもっと低いものでした」
「そう、か」
声を自在に操れるとして、ここでいつもと違う声を発する必要はない。
おそらくは、今のが今目の前にいるツレンの本当の声なのだろう。
つまり、目の前のツレンは本物のツレンではない……
本物というのは、至聖教団に入る前の、家族が行方不明になる前のツレンだ。
そして目の前にいるツレンは偽物。本物のツレンに成り代わり、この半年ツレンの振りをして生活していたのだ。
声だけでなく姿まで似せることができる……そんなことができる人間はまずいない。
──何者だ?
俺が警戒する中、狼人たちが再び騒ぎ出す。
「兄弟だと!? バカにしているのか!?」
「おいおい。仮にもコボルトたちの血を引いているんだろう? 僕の匂いで分からないかい?」
ツレンは呆れるように言う。
「匂い? ……っ!?」
狼人たちは驚くような顔を見せた。
「人間じゃ、ない?」
ツレンはニヤリと笑う。
「まあ僕も人間の街にいるのが長かったからね。すぐに気が付けないのは仕方ないよ」
「ま、魔族なのか?」
「この僕が混血ぅ? ──ああっ、いや。僕は魔族ではなく、いわゆる魔物だよ」
一瞬眉間に皺を寄せたツレンだが、すぐに笑顔に戻った。
「姿を見せたほうが早いね……ほら」
突如ツレンの体が光に包まれる。
光が収まると、そこには狼の頭を持つ青黒い肌の人間がそこにいた。ツレンの司祭服のままだが体が華奢なためかダボダボだ。
ツレンの振りをしたその狼頭が口を開く。
「……自己紹介が遅れたね。僕はセスター。種族を人間の言葉で表すなら、ストゥムになるかな」
ティカが小声で言う。
「ストゥム?」
「帝国ではめったに目にすることのない魔物だな。帝国軍が魔王軍の大軍と戦った際に、ごく少数が目撃されている程度だ。同じ狼頭の魔物のコボルトと違って魔法に長けているようだ」
「そんな奴が帝都に……しかも人間の言葉を流暢に喋っている……なるほど、私とネイトみたいなものですね」
俺は小さく頷く。
「魔王軍の工作員、だろうな」
狼人の一人がセスターに怒声を浴びせる。
「なんで魔物がこんな場所で俺たちを捕らえる!?」
「だから落ち着こうって。訳を話すから。僕はさ、君たちを──」
セスターは不敵な笑みを浮かべると、こう続けた。
「君たちを──助けたいんだ」