救われたはずの世界と、彼の理論に基づくその後の世界。
「生きやすい世の中だな」
彼はそう言った。
俺にとっての〝生きやすい世の中〟がどういうものなのか、考えたことはなかった。ただ彼の発したその言葉はどうにも軽々しいものだと感じた。俺が言えることではないが。
日差しが強かった。道行く人は皆、気だるげだった。
七月も下旬だというのに、彼の部屋のクーラーはまだ掃除を済ませていないだとかで、使われていなかった。去年よりも平均気温が一度上がったこの惑星に、果たして生きやすさなんてものはあるのだろうか。考えてみたが答えなんて出なかった。多角的な視点から考察をすることでしか〝生きやすい世の中〟の正解を導き出すことができないのだ。さながら欠陥だらけの実証主義であって、自分勝手な人間という生き物である限り、どうしようもない。
「そう思うだろ?」
話を振られた。
曖昧に生きてきた人間に何を求めるというのだろう。
「まぁ、そうなんじゃないか」
曖昧に返す。
「なんだ、つれないな」
彼は実に堅実で、それでいて柔軟だった。人間としての芯というものがしっかりと存在していて、人情という言葉を連れて歩いていた。だがしかし、欠点もある。いや、この場合欠点というよりも悪癖という方が正しいだろう。
「こんなにも面白い話はないじゃないか」
そう、こういうところだ。
堅実であるが故のものだろうか、思考し過ぎるのだ。
たとえば、いま目の前に見えている川について話を振ってみよう。俺にとっては単なる川であって、水と小石の風景でしかない。しかし彼にとっては、宇宙の神秘に映るだろう。乾ききったスポンジ並みの思考力と想像力が、まさに水を吸い込むのだった。止まるところを知らず、さらに外側へと膨張していく。
「何がそんなに面白いんだ?」
彼に問う。
嬉々として、輝かんばかりの笑顔で彼は言う。
「反証だよ。『生きやすい』という言葉があるからには『生きづらい』という言葉も、同じように存在していなきゃいけないんだ」
両手を広げる。
「世界には人間が溢れていて、国があって、言語があって、営みがある。……まあ国とか言語とか、そんなものはどうでもいいんだ。人間には脳があって、感情がある。感情があれば、人間同士がぶつかり合う。そうして争いが生まれる。どの時代でも必ず争いが存在する。それは戦争だったり、紛争だったり、冷戦だったり、口喧嘩だったりね」
はは、と小さく笑う。
「今より百年前の世界で、誰かが『生きやすい世の中だな』って言ったとする。確かにその頃は、さらに百年前の世界よりも生きやすいのかもしれない。けど、僕がさっき口にした『生きやすい世の中だな』って言葉は、百年前の当時に誰かが言った同じ言葉と意味が違ってくるんだよ。生活が変わって、尺度が変わって、指数関数的な幸福度も変わったから」
「——要するに何が言いたいんだ?」
彼は遠くを見ていた。
どうも霞んでいてよく見えない、霧の中にいるような表情だった。
「無意味なんだよな、何もかも」
あぁ。
そういうことか。
片耳だけ付けていたイヤホンから、歌が流れなくなった。次の曲へと移行するまでの、十秒にも満たない空白の時間がやってくる。
「明日には全部、無くなってるんだ。文字通り全く違う世界に生きることになるんだよ。いや、下手をしたら一秒ごとに、それよりももっと短い時間で、世界は改変されているんだ。目に見える光景の殆どが変化していない、別世界。——そう考えると、面白くないか?」
なるほどそれは、単なるくだらない話だった。
結局のところ、現実に生きている俺たちには無意味なことだった。
耳元で歌が流れ始める。キング・オブ・ポップが、世界を癒すために届けた歌。
彼の理論が正しければ。
キング・オブ・ポップが救った世界も、人々も、とうの昔に消滅したということになるのだろうか。
あぁ、でもそうなると。
生きづらい世の中だと、少し思った。