ひだまりの世界へ
「ねえ、知ってた? わたしたちが生活してるこの場所は、本当は地面の中なのよ」
学校からの帰り道、幼なじみのアイネが小声で耳打ちする言葉を聞いて、ぼくは思わず返す言葉を失った。アイネが突拍子なことを思いついては、様々な遊びやイタズラにぼくを巻き込むのは昔から変わらない。だけど、到底信じられない言葉を聞いたぼくは、アイネに思わず問い返す。
「それ、本当?」
「うん、本当。わたしたちの先祖は、昔はこんな地下に住んでなかったんだって。ここからさらに高い場所に、本当の……地上の世界があるの」
自信満々に頷くアイネを前に、ぼくは未だ信じられない思いでアイネを見返す。
「でもまさか、地上の世界なんて。絵本で見たおとぎ話で、本当は存在しないんだって、先生も言ってたし」
「何回も言わせないの。いい、アオ? あの空を見て」
ぼくの名前を口にすると同時に、アイネは空に浮かぶ白く四角い太陽を指さした。彼女の指の動きにつられて、ぼくの視線も雲一つない青空を向く。
「あそこに太陽、あるじゃない? あれは疑似太陽。本当の太陽じゃないの。空の色だって、巨大なCGで……つまり、すべてニセモノってことよ」
同じ十一歳ながら、どこか大人びた雰囲気を醸し出すアイネの声を聞いてもなお、ぼくは信じられない思いでいっぱいだった。
「聞いてる? アオ」
空を向いていたアイネの金色の瞳が、ぼくの顔に向けられる。それと同時に、腰まで伸びた彼女の金色の髪がにわかに揺れた。
「う、うん。だけど、どこで知ったの? そんなこと」
「先月、パパが家で仕事の電話をしてた時。興味本位でこっそり話を聞いてたら、地上の世界があるって言ってた。それでわたしも、古代にあったテレビの動画や、ネットの情報を学校のパソコンで調べてみたわけ。そしたら、今から五百年も前に、わたしたち人類は地上の世界から地下へと移り住んだって記事が見つかったの。何でかは分からなかったけど、それで確信した。ここは、わたしたちが暮らす本当の世界じゃないんだ――って」
どことなく説得力を感じさせるアイネの言葉を聞いたぼくは、しばし呆気に取られていた。返す言葉も思いつかないでいると、彼女は見慣れた笑みを浮かべて、ぼくの手を握った。
「だからさ、これから行ってみない? わたしたち二人で、地上の世界へ!」
―――――
ぼくたちは、互いにランドセルを背負ったまま、広い街の中を突き進んでいった。その途中で目に入った視界には、二階建てのありふれた一軒家もあれば、百階建ての高層ビルや高さ一キロメートルに及ぶ電波塔もある。
やっぱり地上の世界があるなんて信じられない――そう思っていると、アイネの足がつと止まった。ぼくもつられて足を止める。顔を上げて見ると、そこはぼくが生まれるよりずっと昔から建っている時計台だった。白を基調とした石造りの塔は、壁一面に繊細な模様が描かれており、天辺には金メッキで縁取られた円形の大時計が四つ、東西南北の配置で外を向いている。
「実はここに、地上へと通じるエレベーターがあるんだって。ネットの訳分かんないサイトの情報だから、ちょっと怪しい所はあるけど、上ってみる価値はあると思う」
そう口走るや否や、アイネは時計台へ向け再び歩を進めた。ぼくもまた、彼女の後を追いかける形で時計台の入口から、一面大理石の床で覆われた大部屋に入る。大部屋の中には、壁の脇に置かれた偉人の彫像や観葉植物、中心に二本並んだ木造のエレベーターを除けば、何もない閑散とした世界が広がっていた。頭上を見上げると、吹き抜けの空間が数百メートルにわたって続いており、エレベーターが行き着くであろうフロアの床が遠くに小さく見て取れる。
アイネは、迷うことなく真っ直ぐに、エレベーターの方へと駆けて行く。途中でぼくを振り返っては、早く来なさい、と大きく手招きをしてみせた。ぼくはやや駆け足でアイネの背を追う。既にエレベーターの出入口の前に居た彼女は、白く華奢な指をエレベーターのボタンに乗せていた。程なくしてドアがゆっくりと左右に開く。誰も乗客を乗せていないエレベーターに、アイネ、続いてぼくが乗る。
「アオ、ドア閉めて。早くっ」
アイネが急かすように早口で捲し立てる。ぼくは静かに息を整えながら、すぐに回れ右をして、エレベーター内部にある「閉まる」ボタンを押した。キャンディのような形をしたそのボタンを長く押し、エレベーターのドアが閉じるのを確認したアイネは、ぼくの肩に手を置いたかと思うと、そのまま片足を乗せてきた。
「アイタッ。お、重いっ。ど、どうしたの」
「いいから、そのまま肩車するの! あと、次『重い』って言ったら怒るよっ」
どこか不機嫌そうな様子で、アイネはぼくの両肩に腰を乗せた。そのまま、エレベーターの壁の隅にある小さなプラスチックのケースに手を掛けた。透明なケースを静かに取り外し、ぼくへ手渡した後、アイネは0から9まで並んだダイヤルボタンを数回押していく。やがて、もう下ろして、と彼女の声が聞こえてきた。ぼくは、肩に乗った幼なじみに従って、ゆっくりと腰を下ろす。それと同時に、肩が軽くなった感覚を実感する。
「これで良いはず。ネットに乗ってたボタンをちゃんと押したから……このまま、このエレベーターは地上まで行くわ」
アイネが言い終わると同時に、ぼくたちを乗せたエレベーターは、音もなく動き出した。
―――――
四方を木の壁で覆われたエレベーターが、わずかな振動と共に上昇を続ける。外の様子が見えないから、どこまで上ったのか見当もつかない。結局上のフロアに出るのか、それとも本当に地上へと向かってるのか――長いようで短いこの時間が、どこかもどかしい。
ぼくが何も言わずに立ちすくんでいると、アイネが隣に立って、ぼくの顔を覗き込んだ。
「ねえ、地上には何があると思う?」
彼女の質問に、ぼくはしばし考えてみた。有りもしないとされてきた地上の世界を想像する。ゲームに出てきた巨大な怪獣が暴れているかもしれないし、未知の化け物がぼくたちを捕まえて怖い目に遭わせるかもしれない。いろいろな思いを巡らせるが、どれも地上に良いイメージを与えるものではなかった。
「よく分からない……けど、怖いところだと思う」
「へえ。でも、わたしはそうは思わないけどな」
「アイネは、どう思うの?」
「わたしは……そうね、とても広くて、空気も美味しくて、きれいな場所だと思う。昔の本に載ってたことだから、本当かは分かんないけどね」
アイネがくすりと微笑んでみせる。その瞬間、エレベーター内に甲高い警報音が鳴り響く。ぼくたちは思わず両耳を塞ぎ、身体を寄せあった。
『おいガキども、何してるんだ! 戻ってこい!』
耳に当てた指の隙間から、聞いたことのない男の人の声が聞こえてきた。ぼくは何だか悪いことをしている気持ちになって、身を震わせる。そんなぼくの手を、アイネの手がぎゅっと握りしめた。小さく震える彼女の手の温かさを感じながら、ぼくはアイネの顔を見つめる。
「このまま行こう。ここまで来て、引き返すのはしゃくだから」
自信に満ちた金色に輝く瞳を前に、ぼくは言葉を返すよりも先にこくん、と大きく頷いた。気付けば、身体の震えはとっくに収まって、言い知れぬ安心感と自信が心の芯から次々に沸いてくる。アイネのおかげかな――そう思ったぼくは、彼女に向けて笑顔を向けた。すると、目の前の幼なじみもまた、満面の笑顔を返してみせた。
警報音が喧しく鳴り響く中、エレベーターはどんどん上り続けた。やがて、短い電子音が狭い室内に響き渡ると同時に、エレベーターが静止する。
とうとう来たんだ、地上の世界に。
そう実感する間もなく、ドアが左右にゆっくりと開き始める。ドアの隙間から漏れ出る光を前に、ぼくたちは思わず瞼を細めた。
―――――
冷たい風が、ぼくの顔を静かに撫でていく。恐る恐る瞼を開いてみると、エレベーターの先には一面緑色の草原と山、青い空が広がっていた。
「ここは……」
眼前の光景に息を呑みながら、ぼくたちはエレベーターの外へと、一歩を踏み出した。背丈の低い草を、無造作に押しつぶす。靴底を通して伝わって来る柔らかい地面の感触に、どこか懐かしい気持ちが呼び起こされた。
「ここが、地上の世界……なの?」
隣に立っていたアイネが、息を深く吸い込み、吐き出す。時折吹く風に長い金髪を揺らしながら、ぼくたちの眼前に広がる草原や高い山、晴れ渡る空と丸い太陽を眺めた。
「きれい……わたしが思っていたよりも、ずっと。こんなに美しいところがあるなんて。何だかほっとするような、こんな気持ち、生まれて初めて……」
そう口にするアイネの目には、うっすらと涙がにじんでいた。ぼくは、つられて泣いてしまいそうになる気持ちをぐっと抑えて、自分の思いを口にする。
「ぼくも同じ気持ちだよ。アイネと一緒に地上に来られて、本当に良かった」
ぼくたちがやり取りを交わしているすぐ足元で、山吹色のチョウが二匹、小さな白い一輪の花の周りでくるくると舞っていた。名前も分からないチョウと花の美しい姿に、ぼくたちは思わず見惚れる。
すると、ぼくたちのすぐ後ろから、静かな草原に似つかわしくない重低音が鳴り響いた。ぼくとアイネは、同時に背後を振り返る。ぼくたちが乗って来た木造のエレベーターのドア。そのすぐ隣に、また別のエレベーターのドアがあり、その扉が左右に開いている音だった。ドアの奥から、二十代ぐらいの若い男性が溜息交じりに現れる。
「いたいた……ったく、エレベーターの緊急停止システムが故障してなければ、おれがこうして足を運ぶ手間もなかったってのに。おいガキども、ここはおれたち人間が足を踏み入れていい場所じゃない。分かったら早くこっちに来い」
先ほどの警報音に混じって聞こえてきた男の人の声だ。ぼくがそう直感するより先に、アイネが男の人の顔をじっと見据えて尋ねる。男の人は、目元を覆い隠しつつある茶色い髪を乱暴に掻きながら、ぼくたちを見つめていた。
「お兄さん、誰?」
「誰って、この下の時計台の管理人だ。どうやって地上の行き方なんか知ったんだ」
「ネットで知った」
「ネット、かよ。まったく、最近のガキは油断も隙もねえ」
管理人――そう名乗った男の人は、今度は左手でこめかみをぼりぼりと掻いた。ぼくは、管理人が今しがた口にしていたことについて、おそるおそる訊いてみる。
「あの、教えてください。ぼくたちは、人間はどうしてこの地上に居たらいけないんですか」
「どうしてかって? 決まってんだろ。見ろよ、この美しい自然の姿を」
管理人に促されるまま、ぼくたちは再び広大な地上の姿に目線を移す。遠くに広がる森や、青い湖。さまざまな『自然』が溢れる世界を眺めていると、管理人が淡々とした口調で言った。
「この地上はかつて、おれたちの先祖が住んでいた。けど、自分たちの暮らしを優先するあまり、自然――環境を壊してしまった。そこで、この美しい自然の姿を取り戻すため、おれたちの先祖は地下で暮らす選択をした。地上の自然を再び壊さないため、同じ過ちを繰り返さないために、地上の存在を長い年月かけて忘れていきながら、な。地上はもう、おれたち人間のものじゃない。この自然の中で暮らす植物や動物たちのものなんだ。おれたち人間は、今もこれからも、それを守っていく義務がある。だから、ここのことは誰にも言うなよ。お前たちの秘密にしておくんだ、いいな?」
管理人の言葉に、ぼくとアイネは小さく頷く。その様子を見た管理人は、小さく笑んで見せた。
「今の約束と、この地上の姿を、絶対に忘れるなよ……んじゃ、ささやかな地上の旅はこれで終わりだ。そろそろ日が暮れる」
管理人に促されるまま、ぼくたちは再びエレベーターへと戻って行く。その途中、ぼくはふと立ち止まって、頭上にある白い太陽を見上げた。暖かいひだまりの輝きを肌に感じながら、ぼくは今日のことを決して忘れないと、心に強く誓った。
ひだまりの世界へ/おしまい




