137・誰かの大切なもの
リンチギハムの街中で、一際高く聳え立つ建物。
ウルマモズ商会の本部だ。
薄暗い室内で、フランツは手を組み、テーブルの上に置かれている一枚の写真を見つめいていた。
「フランツ様」
そんな部屋に一人の少年が入ってくる。
彼の声には気付いたものの、フランツは顔を上げないまま、こう口を動かした。
「戻ったか。どこに行ってたんだ」
「僕にもやることがありますので」
答えをはぐらかす少年。
そしてすぐに話題を逸らすように。
「それで……ナイジェル殿下にぬいぐるみをお渡し出来たのですか?」
「ふんっ、愚問だな。ぼくっちのことを信頼していないのか? ──ヨル」
とフランツは彼の名を呼んだ。
──人形師ヨル。
白い服に袖を通しているというのに、不思議と夜に溶けこむ蝙蝠のような──そんな不思議な印象を他者に抱かせる少年だ。
彼こそが、セシリーとレティシア──そしてエリアーヌのぬいぐるみを作った張本人だった。
「失礼しました」
ヨルはそう謝るものの、その言葉からは一切の謝罪の気持ちが感じられない。
「ナイジェル殿下とは久しぶりに会うんですよね? どうでしたか。学院時代のご友人と会った感想は」
「友人……か」
とフランツは呟き、写真をさらに凝視する。
その写真には、学院時代のナイジェルの姿が写っていた。
同級生に囲まれて、爽やかな笑顔を作っているナイジェル。写真からは幸せそうな空気が漂っており、この部屋の陰湿な雰囲気からとはかけ離れている。
「ナイジェルは相変わらずだったよ。学院時代となにも変わっていなかった。真面目で誰とでもへだたりなく接する。今は美人の奥さんも得て、幸せそうだった。あれこそ、みんなの理想の王子様だろうね──しかし」
そう言って、フランツは近くに置いてある鋏を手に取った。
そしてそれを振り上げ、思い切りナイジェルの顔に──落とす。
「だからぼくっちは、あいつのことが嫌いなんだ。反吐が出る」
鋏が突き刺さっているナイジェルの写真を見て、フランツは悔しそうに顔を歪めた。
「あなたがナイジェル殿下のことを嫌いだということは知っています」
飄々とヨルは続ける。
「しかし、どうしてそこまで嫌われるのですか? 別に殿下はあなたのことを嫌っているというわけではないのでしょう? 喧嘩を売られているわけでもない。なのに──」
「はっ! 何度説明してやったら分かるんだ」
フランツが声に怒気を含ませる。
「気に食わないんだ。いつも涼しい顔をして、美味しいところを持っていくあいつがな」
そう言いながら、フランツはナイジェルと最初に出会った頃のことを思い出していた──。
──ナイジェルはフランツのことを友人と称していた。
しかし実際は違う。
そんなことを思っているのはナイジェルだけで、実際のところ──フランツは彼のことを憎んでいたのだ。
──今まで自分が一番だと思っていた。
幼い頃から、類稀なる商才を持っていた。
なにをやっても上手くいく。自分は神に選ばれた人間だと思っていた。
当初は、フランツが幼くして商会の幹部になったことを、親の七光りだとバカにする者もいたが──結果を出し続けていれば、いつしかそんな声も聞かなくなった。
だが──歯車が噛み合わなくなったのは学院に入ってから。
入学式は数多くの貴族が姿を見せ、華やかな舞台となっていた。
その中に──ナイジェルがいた。
そんな煌びやかな場所だというのに、彼の登場で場の空気が一変した。他の者と格が違ったのだ。
彼は入学してから、勉学や運動全般──ありとあらゆる分野で、学院のトップを突き走っていた。
(あんな屈辱は初めてだった)
いつしかフランツは正攻法でナイジェルに勝つことを諦めた。
代わりに、自分の周りに女を侍らせた。
ナイジェルは女子生徒にとって、憧れの存在だった。しかし当の本人にその気がなかったため、浮いた話など一つも出てこなかった。
ゆえに彼は常に女と一緒にいることによって、ナイジェルに対して独りよがりな優越感を抱いていた。
(しかしそんなことをしても、ぼくっちの気は晴れなかった。それに……どうして、あいつはあんな美人と結婚なんて出来る? この世は不公平だ!)
エリアーヌを見てから、フランツの中で燻っている彼に対するコンプレックスが爆発した。
エリアーヌ──聖女であり、今はこの国の王太子妃。
あらかじめ姿形は知っていたが、近くで見ると思わず見惚れてしまうほどだった。
ありとあらゆる女の子と付き合ってきたフランツではあったが、エリアーヌは今まで見た誰よりも美しかった。
そんな美人と結婚したナイジェルを羨ましく思った。
せめてもの抵抗をと、エリアーヌをデートに誘ってみたが──結果は惨敗。余計にフランツの、ナイジェルに対する劣等感が強くなるだけだった。
「あいつの苦しんでいる顔が一度くらい見たくってね。だからお前に協力を仰いだわけだ」
「……そうですか」
声の調子を一切変えず、ヨルはそう言った。
「それで……これでよかったんだよな? あのぬいぐるみさえ渡しておけば、ヤツは……」
「はい。とはいえ事前に説明していた通り、効果はすぐに現れないでしょう。気長に待つのがよいかと」
「くくく、それでいいんだ。しかしどうして、ベルカイムの王子にまでぬいぐるみを渡す必要があったんだ? あっちの王子も婚約者にデレデレだから、渡すのはそう難しくなかったが……」
フランツがそう問いかけると、ヨルは少し考えてからこう答えた。
「……必要だからですよ。僕──いえ、フランツ様の計画にね」
「そうか……? まあぼくっちは、最終的な目的が果たせればそれでいい」
ニヤリとフランツは口角を吊り上げる。
「ああ! ヤツの苦しむ顔が早く見たい! ぼくっちに逆らうヤツは、みんなみんな堕ちてしまえばいいんだ!」
フランツの目は血走っており、獣のようであった。
「……醜い」
その時。
ヨルのそんな呟き声が耳に入った──気がした。
「ヨル、なにか言ったか?」
「いえいえ、なんでもありませんよ」
フランツはすぐに問いただしたが、ヨルは淡々とそう口にするだけ。
「では……私は動向を聞きにきただけですので。これで今日のところは、失礼させていただきます」
「ふんっ、お前と話してたら辛気臭い気分になる。さっさと出ていけ」
しっしっとフランツは手を払う。
それをヨルは意に介した様子もなく、部屋から出ていった。
◆ ◆
「やはり──人間は醜い」
ヨルはフランツと別れた後、とある場所に来て、水の中で蠢く蛇を眺めていた。
その蛇の全身は真っ白。長さはどこが始まりで、どこが終わりなのか──分からないくらい巨大で、全容を掴めない。
蛇はそんな巨躯を唸らせながら、世界を見守っている。
「特に……あのフランツという人間は極上だ。勝手に被害妄想をこじらせ、他人を陥れようとする。そんなことをしても、なんら得がないというのに……」
蛇を見上げながら、ヨルは独り言を呟く。
「長年、あなたを見守ってきました」
あなた──とはフランツのことではない。目の前の蛇だ。
蛇からの返事はない。
しかし構わず、ヨルは口を動かす。
「愚かな世界に、愚かな人間。僕も人間を信じたかった。しかし──やはり人間は醜かった。これ以上、あなたのお目を汚す必要もないでしょう」
その蛇は今まで、魔王の影に隠れてひっそりと活動していた。
魔王という巨大な邪悪は、周囲を飲み込む。
封印されていたとはいえ──その影響力は絶大で、蛇があまりに目立って動いた場合、魔王や魔族に目を付けられる可能性があった。
(どうして、僕が魔王と魔族ごときに気を遣わなければ──とは思ったが、邪魔が入れば計画が破綻してしまう可能性がある。なにせ、あなた一人ではもう全盛期の力を、引き出せないのだから)
しかし状況が好転した。
聖女が魔王を打ち破ってくれたのである。
(聖女──忌々しい存在だとは思っていたが、今代の聖女は膨大な力を有している。そのおかげで邪魔者を消してくれたし──それに、あれなら蛇の力を引き出すことが出来る)
ヨルは手を上げて、こう告げる。
「さあ──始めましょう。まずはみんなの大切なものを」
蛇の体が白く輝きを放つ。
しかしその光は淡いもので、いつ消えてしまってもおかしくなかった。
だが、この時──リンチギハムのどこかで、誰かの大切なものが消えた。
まだ蛇の力は弱々しい。
しかしそれはまだ序章に過ぎない。
いずれその力は世界全体にまで及ぶだろう。
「そのために──僕はあの世界から聖女を消す」
蛇は終焉に興味がないのか、世界からそっぽを向いた。





