アレシアと不思議な本屋
霧の深い日だった。
アレシアは普段道に迷う事なんてないが、この日は深い霧のせいか、道に迷ってしまった。町外れの森に“キラ”という薬草を取りに行った帰りだった。キラは一角獣特有の伝染病“イラハタ”によく効く。
「おかしいなぁ、道に迷ったことなんて一度もないんだけど」
アレシアは深い霧の中、よく目を凝らして周囲の景色を眺めていたが、見覚えのある景色ではなかった。森から出てすぐの場所で辺りは木や草しかない。しかし、木々の中にぼんやりと建物らしきものが目に入ってきた。
「ん?家?」
町外れのこんなところに家なんてあったかしら?そう思ったアレシアは家があるということは誰かいるかもしれない。誰かいたら道を聞ける。そう思い、霧の中にぼんやりと見えるその家に近づいて行った。
近くで見るとそれは家ではなかった。入り口ドアは家のドアの様に木製で、古びているが、ドアの横に小さなショーウィンドウの様なものがある。そして、なにより小さな看板が出ていた。
「お店だ」
ショーウィンドウを覗き込むとそこには美しい装丁の本が並んでいた。
「本屋さんだ!」
アレシアは本を読むのがとても好きな少女なのだ。
町に本屋は一軒だと思っていたのに、こんなところにも本屋があったなんて!
看板を見ると、そこには見たこともない文字が並んでいる。
「なんて読むのかしら?」
アレシアは本屋があることが嬉しくなり、道に迷っていた事など忘れてその本屋に足を踏み入れた。
ドアを開けるとキィーと音が鳴り、いかにも年季の入ったドアだと思わせる。
店内には所狭しと本が並んである。そこにある本はいつもアレシアが通っている本屋にある本とは少し違っていた。不思議な装丁の本が多い。しかも、本に書かれている文字はやはりアレシアが見たこともない文字だった。
アレシアは適当に1冊手に取り、表紙のタイトルをジッと見つめた。すると不思議なことに文字の意味がわかった様な気がした。
「“アルジャーノンに花束を”って書いてあるわ」
本を開き本に書かれた文章に目を通してみる。最初は全く意味がわからなかったが、徐々に文章の意味がわかってきた。それは、本の中に眠っていた文字たちが目を覚まし、起き上がってくるような不思議な感覚だった。
「不思議、知らない文字なのに読める」
アレシアが独り言を呟いていると、
「お嬢さんは本がお好きですか?」
と声をかけられた。
本に夢中になっていたアレシアは突然話しかけられて驚いたが、すぐに笑顔になり話しかけてきた男の方を見た。
笑顔でアレシアを見ているその男は不思議なことに年齢が全くわからない。20代と言われれば、そうかと思うし、40代と言われても納得してしまいそうな見た目をしている。そして、その男は髪が真っ黒だった。アレシアは美しい金色の髪で、町に住んでいる人たちも同じような金色だったから、黒い髪をした人をアレシアは初めて見た。
「はい、好きです」
笑顔でそう答えると、男は嬉しそうに頷いた。
「そうですか、それはなによりです。ところで、お嬢さんはその本が読めるのですか?」
男はアレシアが手にしている本を指差しながらそう言った。
「んー、知らない文字のはずなんですけど、なぜか意味が理解できるんです。不思議ですけど…」
アレシアは言いながら自分がとてもバカなことを言っているのではないか、と思い小声になってしまった。
「そうですか、不思議ですね。この町の人でうちの本が読めた方はあなたが初めてです」
男はニコっと笑いアレシアに右手を差し出した。
「僕の名前はユーキです。この店の店主です。よろしく」
アレシアは差し出された右手の意味がわからずに、戸惑っていると
「あぁ、この国には握手の習慣がないのか…」
ユーキと名乗った男はそう呟くと少し困った顔をして右手を引っ込めた。
「握手、ってなんですか?」
アレシアは握手が一体なんなのか、差し出された右手をどうしたら良かったのか、とても気になったのでユーキに聞いてみた。
「握手というのは僕が住んでいた国の習慣です。手と手を握り合って挨拶をするんですよ」
そう言うと再び右手を差し出す。
アレシアも同じ様に右手を差し出し、ユーキの右手を握った。
「そう、これが握手です。よろしくね、お嬢さん」
これが、握手。右手にユーキの手の感触と温もりを感じながらアレシアは何となく懐かしい様な気がしていた。
「あ、あたしはアレシアです。よろしくお願いします」
「アレシア、とても素敵なお名前ですね」
そう言うと、ユーキは右手を離し引っ込めた。
「ええ、祖母に付けてもらったんです。自分でも気に入ってます」
「そうですか、素敵なお祖母様ですね」
「あの、ユーキさんは外国の人なんですか?その握手という習慣がある国なら来たのですか?」
アレシアは外国の人間に会うのは初めてだった。そもそも、アレシアは生まれて17年間この町から出た事がない。アレシアが知っている人間はみんなこの町の人間だった。
「そうです。僕はここからずっと遠くにある国から来ました。その本に書いてある文字も僕の国の文字なんだよ」
そう言われたアレシアは手に持っている“アルジャーノンに花束を”という本を眺めた。
「この、“アルジャーノンに花束を”という本はどんな本なんですか?」
「その本は、小説といって架空の物語が書かれている本なんだ。僕の国、いや僕の世界で書かれた小説でね。とても面白い物語が描かれているよ」
「世界?」
「ところで、アレシアさんはこんな霧に日に町外れのこんな場所で何をしたんです?」
アレシアは、そう言われて自分が道に迷っていた事を思い出した。
「薬草を取りに森に行ってたんですけど、道に迷ってしまって…」
アレシアは町で唯一の獣医の娘だ。獣医である母の手伝いをしている。薬草を取りに行くのはいつもアレシアの仕事で、町外れの森にもよく行くのだけれど、この日はなぜか迷ってしまったのだ。
「なるほど、それは大変でしたね。道案内をしてあげたいのだけれど、僕はこの辺りの土地勘が全く無くてね。案内してあげられそうにないんだ」
そういうとユーキは申し訳なさそうに頭をかいている。
「いえ、大丈夫です。霧が晴れたら何とかなると思います。なので、霧が晴れるまでしばらくこのお店の中を見ていてもいいですか?」
「もちろんいいですとも。ここにある本は僕の好きな本ばかりなので気になった本があれば手に取って読んでくれてもいいですよ。内容が知りたければ何でも遠慮なく聞いてください」
ユーキはとても嬉しそうだ。
「ありがとうございます」
そう言うとアレシアは“アルジャーノンに花束を”を元の棚に戻し、早速店の中を見て回った。
大人が10人も入ればいっぱいになる様な狭い店だったが本はたくさんある。本棚には所々置物が置いていたり飾り付けがしてあったりして見ていてとてもワクワクした。
木彫りの動物の置物を手に取りしげしげと眺める。
「この動物はなんていう動物ですか?」
アレシアは初めて見る動物だった。全身を白いモクモクとした毛で覆われている。頭には丸まったツノが2本生えていた。
「これはね、羊という動物なんだ。僕の住んでいた国にはたくさんいたんだよ」
「ヒツジ、かわいい」
「気に入ったのならあげるよ。そのヒツジも僕みたいなオジさんが持っているよりも君の様な美しい女の子に持ってもらった方が喜ぶだろうし」
美しい?あたしが?
アレシアは美しいなんて言われたのは初めてだったので急に照れ臭くなり、俯いてしまった。
「あ、ありがとうございます。でも、頂くなんてできません。この子もきっとこの素敵なお店が好きだと思うので、ここに戻しておきますね」
そう言うとアレシアは羊の置物を元の場所に戻した。
羊の置物が置いてあった場所にある本を手に取ってタイトルを読んでみる。先程と同じく最初は意味がわからないのに、だんだん文字の意味がわかってくる。
「“羊をめぐる冒険”という本ね」
「その通り、その本はタイトル通り羊をめぐる冒険小説なんだ。他にも色々な意味に読み取れるような小説で、とても面白いよ」
「面白そうですね。羊がどんな動物なのかこの小説を読めばよく解りそう」
アレシアは本のページをパラパラとめくる。とても薄い紙で出来た本だ。なによりも、紙がとても滑らかで柔らかい。アレシアはこんな柔らかい紙を触ったのは初めてだった。
アレシアは手にした本を再び棚に戻した。
「あの、ユーキさんが住んでいた国というのは、なんという国で、どんな国なんですか?あたしはこの町から出たことがないので、他の国のことをよく知らないんです」
アレシアは町の外にどんな世界が広がっているのか常々考えていた。本の中に描かれている神話やおとぎ話によると砂ばかりの広大な大地があったり、海と呼ばれる大きな湖があったり、天にも届きそうな巨大な山がそびえているという。アレシアはそんな場所に一度でもいいから行ってみたいと思っていた。
「僕が住んでいた国は日本といって、ここからはとてもとても遠いところにあるんだ」
「ニホン、不思議な響きの国ですね。そこはどんな国なんですか?」
「日本はとっても人が多い国でね。その人たちはみんな働くのが好きみたいだったなぁ。僕は昔、大阪という大きな街にある本屋で働いていたのだけれど、あまりにも人が多くて、仕事が忙しかったもんだから、引っ越して小さなこの本屋を作ったんだ」
「オオサカという街はそんなに人が多いんですか?」
「そうだよ、とても高い建物がたくさんあったなぁ」
「高い建物、時計塔よりも高い?」
時計塔というのはこの町の中心にある塔で、この町で最も高い建物だ。
「時計塔よりはるかに高いはずだよ」
「凄い。でも、ユーキさんにとっては住み心地のいい場所じゃなかったんだね」
「そういう事になるね。この町はとてもいいところだと思うよ。この場所で安定して本屋を続けられたらいいんだけどなぁ」
「安定してないの?」
「そうだね。この本屋はとっても不安定なんだ」
「そうなんだ。本屋さんも大変なんだね。あ、すみません。大変なんですね」
いつのまにか敬語ではなくなっていたアレシアは慌てて敬語に戻した。ユーキはケラケラ笑いながら
「敬語なんて使わなくてもいいよ。その方が僕も気兼ねなく喋れるし」
と言ってヒラヒラと手を振っていた。
「そう?じゃあ遠慮なく」
そう言うと、アレシアは再び本が並んだ棚を見て回った。
「お、そろそろ霧が晴れてきたんじゃないかな?」
そう言うと、ユーキは窓から外を覗いた。アレシアも窓の外を見ると確かに霧が随分晴れてきている。
「じゃあ、そろそろ帰らなきゃ。ユーキさんまたこのお店に来てもいい?」
「もちろん大歓迎だよ。そうだ、アレシアさんに読んでもらいたい本があるんだ。ちょっと待ってて」
そう言うと、ユーキは本棚をじっくりと見ている。
「確かにこのへんにあったはず。。。あったあった」
棚から一冊の本を取り出したユーキはアレシアに本を渡した。
「この本をアレシアさんに貸してあげる」
「借りてもいいんですか?」
受け取った本を眺めると、表紙に可愛い女の子の絵が描かれていた。アレシアよりは少し子供の女の子だ。
「とても可愛い女の子」
「そうだろ?その子はアリスっていうんだ。僕の住んでた世界では誰でも知ってる有名な女の子で、その女の子の冒険を描いたのがその本さ」
「とっても面白そう!ありがとう!次に会う時まで読んでおくわ」
「暇なときにでも読んでみて」
ユーキはそう言ってニコリと笑った。
アレシアは本を薬草が入ったカバンにしまった。
「じゃあ、そろそろ行くね。今日は楽しかった。ありがとう」
「僕も凄く楽しかったよ。ありがとう」
ユーキは右手を差し出した。
「握手ね!」
アレシアも右手を差し出し、握手をした。
ギィーと音を立てるドアを開け、外に出る。入る時は読めなかったお店の看板の文字が読めるようになっていた。
“最果て書店”
看板にはそう書かれていた。
「最果て書店、素敵な名前」
そう呟いたアレシアを見て、ユーキは嬉しそうに笑った。
自分の家を目指して歩いていくアレシアは手を振りながら何度も本屋の方を振り返った。
「さよならー!またねー!」
ユーキは店の前で笑顔のまま手を振っている。
アレシアはなんだかとても楽しい気分になり、小走りで家路を急いだ。お母さんが心配しているはずだ。
さっきあんなに迷っていたのが嘘みたいにすんなり家に帰ることができた。
あの霧がなにか変だったのかもしれない、そんな事を考えながら家のドアを開き、自分の部屋に入った。
「アレシア?帰ってるの?」
アレシアの母が声をかける。
「ただいまー、霧のせいで道に迷っちゃったみたい」
そう言いながらアレシアは鞄から本を取り出す。すぐに読みたかったが、母から食事の準備を手伝う様に言われ渋々手伝いに向かった。
食事が済むと、アレシアは部屋にこもって借りてきた本を読んだ。とても、面白い本だったのだけれど、霧の中を彷徨って疲れていたせいか最初の数ページ読んだだけで眠ってしまった。
朝になり、朝食を済ませると居ても立っても居られなくなり、出かける支度をした。
またあの最果て書店に行きたかったのだ。
「お母さん、薬草取りに行ってくる!」
そう言うと、駆け足で家を出た。
昨日、最果て書店から家に帰った道を反対に行けばまたあの本屋に行けるはずだ。
そう、思い昨日帰ってきた道を逆に逆に進んでいく。
「おかしいなぁ、この辺りのはずなんだけど」
昨日、最果て書店があった場所の近くまで来ているはずなのに、本屋はどこにも見当たらない。しばらくその辺りをウロウロをしていたが、やはり影も形もなかった。
アレシアは昨日の出来事が夢だったんじゃないかと思い、鞄の中に手を入れた。
すると、そこにはちゃんと本の感触がある。
やっぱり夢じゃない。だって本があるもの。
本を鞄から取り出したアレシアは表紙を見つめる。そこには
“不思議の国のアリス”
と書かれていた。