忘れ物
飽きるほど目に馴染んだ夕暮れ時の商店街、駅から自宅までの間にあるためよく世話になった場所だ。
肉屋の主人がゴツゴツとした太い腕で小さなコロッケをくれた。
餞別だそうだ。
通い慣れた居酒屋のオヤジが店のシャッターを開け始めた。
もうそんな時間か…。
オヤジは私に気付くとハキハキとしたよく通る声で、
「坊主、今日が最後だったか。またいつでも飲みに来るといいさ。元気にしてろ!次は綺麗な彼女でも連れてこい。」と言った。
「おう、期待してろ。あと、もう坊主という歳ではないだろう。」そう返すと、
「バカやろう、オレにとっちゃお前はいつでもたっても坊主のままだよ。」とオヤジはどこか寂し気に笑った。
自宅に着く、もう部屋には何も残っていない。
初めての一人暮らしがここで良かったと思う。
しかし、何もない初めて来た時と同じ殺風景で広すぎる部屋は、もう私の知る場所でない気がして心苦しさを感じた。
「結局、お前以上の新居を見つけられなかったよ。」そう壁に語りかける。
仕事に家賃、交通と、引っ越しはしょうがないことだとわかっているのに、私はこの家に一秒でも長く居たかった。
ピンポーンとインターフォンが鳴った。
もう二時間も経っていたのかという驚きよりも、このインターフォンの音もこれで聞き納めかという思いの方が、今の私には強かった。
「お客さん忘れものは平気ですか?」引っ越し業者が車から顔を出して言った。
少し考えてから厚みのある木製のドアを撫で、
「あぁ、ないよ。」私はそう返答した。
車内から元は私の家だった建物を眺めて、私は溢れる涙をぐっと堪えていた。
さようなら、ありがとう。
平凡な私には、それ以外の言葉が出て来なかった。
家を越す人は必ず忘れ物をするのかもしれない。
私は何を、置いてきてしまったのだろう…。