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明治二年九月二十九日。
今井さんが健吉と共にやってきた。
「新さん! お久しぶりです。私もこの通り、五体満足で!」
「そ、そう、今井さん、無事でよかった。ほら、そんなところにいないで上がって、健吉も。」
内心、ドキドキしながら二人を座敷に通す。今井さんと仲の悪い板倉さまは素早く姿を消していた。
「それでですね、なんでも私に関しては、西郷殿自らのお声掛かりで赦免要求があったとか。私はね、そんな事できる人は新さんしかいない、そうピンと来たんですよ。あれでしょ、土佐の坂本、あの件が。」
「あ、うん、まあね、そんな感じ。」
「そうですよね、だろうと思ったんですよ。で、いくらになったんです?」
これである。今井さんの中で俺は人の弱みを握ったら金に換えるゲス野郎認定されているのだ。
「あの場にいたのは私たちだけ。半分は私の取り分ですよね? ああ、これからは暮らしに困らない生活が! 榊原先生、少々の借財などはこの今井が。たとえ一万両であってもお任せを。弟子が師の為に、当たり前の事ですから。ねえ、新さん?」
「今井さん、本当に申し訳ない。私も誰を頼ればいいか悩んでました。戦わなかった私が新さんに、という訳にも。かといって海舟さんはちょっと。」
「ええ、そうでしょうとも、師に頭を下げさせぬのもまた弟子の務め。蝦夷では三万両近く稼ぎました。心配いりませんよ。ね、新さん。」
「あ、うん、そうだったっけ。そうだった気もするけど大変なことがあってね、トシ、持ってきて。」
トシに用意させたのは官札一万四千両。それを見て今井さんは、は? と首を傾げた。
「これは、何ですか?」
「今井さんは知らないだろうけど、今はこれがお金。だよね、健吉。」
「そうですね、今井さん、これは太政官札と言って、政府が出している藩札のようなもの。十分にお金として通用しますよ。」
「そうなのですか。これが一枚で十両? こっちは一両。なんか実感わきませんね。」
そう言いながら今井さんは官札を数え始めた。この人も細かいところがあるからね。
「それにしても健吉さんよ、なんだって金に困ってんだ? 前に来たときは居酒屋だか始めたって。」
「それがですね、歳三、店はそこそこ流行っているのですが、客よりも店の門弟たちが酒を飲んでしまって。私も酒は好きでしてね。もう、大赤字。」
「そりゃ店のモンが売り物に手をつけちゃマジいだろ。」
「ですよね、わかっちゃいるけどやめられない。これだから武士の商売は。」
いや、武士とか関係ないから。明らかに違うところに原因があるからね。
「新さん! どういうことですか?」
「あ、えっ、何?」
「この官札とやらは一万四千。私の預け置いた金はこの倍! おかしいじゃないですか!」
「今井さんよ、そりゃ仕方ねえさ。」
「何でですか! 土方、いや、内藤さん!」
「そればっかりは旦那のせいじゃねえ。勝先生だよ。」
「勝さん? 私はあの人嫌いなんですけど。」
「そりゃどうでもいいさ、けど、言ってることは間違ってなかった。あんたも旦那も幕臣だからな、その幕臣を助けるために金を出せ、そういわれちゃ否とはいえねえさ。あの時は板倉さまも、旦那も半分持ってかれた。渋沢なんかは全額だ。榎本さんもな。あんたは半分残っただけでも御の字だぜ?」
「ですけど。もう、だから私は勝さんが嫌いなんですよ! そういう内藤さんだって幕臣じゃないですか!」
「俺はおめえらと違って、金をどこからも奪っちゃいねえ。忘れたわけじゃあんめえな?」
「ぐっ、でも。」
「ま、あきらめるこった。悪銭身に付かず、昔っから言うだろ? それにそんだけあれば健吉さんのとこだって建て直せんだろ?」
「ええ、今井さん、私のところは一万もあれば足りますから。」
そうにこやかに健吉が言うと、今井さんはパタリと倒れこんだ。
今井さんはしばらく、健吉のところで暮らすのだという、なんにせよ、無事で何よりだ。
――その翌日。
「ねえ、律っちゃん、何作ってんのさ。」
「そろそろ涼しくなってまいりましたし、おでんなどをと。」
おでん、この当時はまだ煮込むタイプのおでんではなく、語源の田楽、串にさして温めた豆腐やこんにゃくに甘辛い味噌を垂らした物が主流だ。とはいえ、家で食べる分には煮込んだ物も食べている。具材も厚揚げ豆腐にがんもとぎ、それにこんにゃく、玉子。ちくわなんかもある。油揚げに餅を包んだ巾着なんかもうまそうだ。
「いいね、それを冷たいビールで。あ、熱燗も捨てがたいけど。」
「最近は食べるものも色々と変わってまいりましたからね。帝も獣肉を召しあがられたとか。」
「肉もいいよね。」
「わたくしは慣れぬものはなかなか。」
「蝦夷では熊も食べたし、鹿も。結構おいしいもんさ。横浜当たりじゃそんな店もあるんじゃない? 今度行ってみようか。」
「ええ、是非に。」
そんな幸せな時間を壊す、無粋な奴らがやってくる。渋沢さんだ。官僚っぽい洋装姿の、やや、面差しの似た男と共にやってきた。
「松坂さん! これはどういう事ですか! 私の分が一文も? おかしいですよね、許されないですよ! これは!」
「喜作、来る早々それはないですよ。まったく、すみませんね、松坂さん。私は喜作の従弟、栄一と。松坂さんの事は井上さんからもよく。」
「ああ、あんたが、優秀らしいね、西郷さんもそう言ってた。」
「いや、お恥ずかしい。喜作が蝦夷では大層世話になったようで。私からも礼を。」
「いやいや、渋沢さんはちゃんと戦ってきた人だからね。世話なんてとんでもない。」
この栄一と言う人は人当たりがよく、自分の才を鼻にかけない。誰からも好かれそうなタイプだった。
「それで、その、お金の方は!」
うん、成一郎、いや、喜作さんの方はそういう要素は組み込まれていないようだ。
「海舟がさ、渋沢さんは慶喜公の直臣だから役に立てて泣くほどうれしいはずだって。それで全部。」
「ひ、ひどい! あの獄中生活、私の希望はそれだけだったのに!」
そこにお茶をもって板倉さまが現れる。次いでトシまでが。
「ま、仕方ないの。今更何を言おうが金が戻るでなし。のう、内藤?」
「へへっ、悪銭身に付かず、そういう事だ、渋沢。」
「くそっ! くそっ! 私は何のために蝦夷に!」
「慶喜公の為、そうでしょ? 喜作。まさか違うとか?」
「あ、いや、そのな、栄一。確かに慶喜公の為、ではあったが。」
「ならいいじゃないですか。」
「あっうっ。」
栄一さんに冷たい目で見られ、渋沢さんは言葉をしまい込む。ここも複雑な関係のようだ。
「しかし、それでは私はどうやって身を立てれば。」
「喜作、私が政府に口利きを。官吏として今までの分まで働けばそれで。」
「と、言う事はじゃ、渋沢も大蔵省に?」
「ええ、私が紹介できるのはそこだけですし。」
栄一さんの答えに俺と板倉さまは素早くアイコンタクトをかわす。聞多以外にも話の分かる官僚が大蔵省に、実にいいじゃない。
「ま、だとしてもいくらかは性根を鍛えなおさねえとな。だろ? 栄一さん。」
「ええ、その辺もお任せを。私がどこに出しても恥ずかしくない官僚に。いいですね、喜作。」
「あっ、う。」
渋沢さんは捨てられた子犬みたいな目ですがるように俺をみた。
「いいですねっ?」
「わかった、わかったから。はぁ。」
すべてをあきらめたかのように、渋沢さんは大きくため息をついた。そのあとは再会を祝う席となり、ビール、洋酒、それに清酒とみんなで楽しく飲んだ。そして栄一さんが厠で席を外すと、渋沢さんはここぞとばかりに愚痴を言い立てる。
「あやつは昔っから口うるさくて! 私の方が年上なんですよ!? それなのにああしてこまごまと。」
「渋沢家は果報ものじゃの。お主にあの栄一、世に出るに十分な才をもって生まれたのじゃから。」
「ですけど。」
「あんたが栄一さんの文句を言っちゃ罰が当たるぜ? 少なくともあの人のおかげで身を立てることができるんだからよ。賊軍のあんたがだ。」
「ま、しばらくはおとなしく従っとくといいさ、大蔵には井上聞多って俺たちの友達も勤めてる。いい顔だっていうから仲良くしときゃ間違いない。なんせ長州の元勲の一人だし。」
「そうそう、あいつはあんたと気が合うはずだぜ。だからそんな面すんなって。あんたの才がありゃ、何度だってやり直せるさ。」
栄一さんが戻り、とりとめのない話が続く。何しろ酒はうまいし、飲む相手は顔なじみ。そこに栄一さんの新鮮な話まで。すっかり日も落ちたとき、律が顔をのぞかせた。
「みなさん、お酒もよろしいですが、そろそろお食事などを。」
「こりゃ気が利くのう、さすが奥方じゃ。」
「すみませんね、ごちそうになります。」
「遠慮はいらねえさ、こっちはべたべたしてんの毎日見せつけられてるんだからよ。」
そんな話で飯になる。だが俺は見逃さなかった。律のこめかみがぴくっと動いていたのを。そう、律の本意は早く帰れ。日が落ちたら夫婦の時間。そう言いたいのだ。果たして出てきたのは真っ赤になるまで熱せられた土鍋に入ったおでん。
「ささ、おひとつ。渋沢さま、と?」
「あ、はい。函館では松坂さんに世話に。こっちは私の従弟、栄一と言いまして今は官吏を。」
「そうですか、夫がお世話になりました。ではあなたから。」
「えっ?」
「まずはあなたからお箸をお付けになってくださいな。」
「いや、すっごく熱そうで、地獄の釜みたいになってますけど。」
「喜作、せっかくのごちそう、存分に味合わねば。内藤さん!」
「おうよ!」
渋沢さんは栄一さんとトシに左右を抱え込まれた。
「えっ? 何?」
「さて、まずはこんにゃくか、玉子か。」
「やはりここはだしのしみ込んだ大根じゃの。」
「そうですね、ではわたくしが食べさせて差し上げましょう。」
「えっ、無理、松坂さん!」
俺はこういう時に目を合わせない。
「アッチ! アッツイです! マジで無理!」
「ほら、お口を。」
「あーっ! あっふい! あっふ!」
渋沢さんは涙目で口をハフハフと動かした。
「さて、次は玉子など。」
「無理です! 絶対に無理です! やめてー!」
「では仕方ありませんね。」
そう言って律は次のターゲットを探す。みな目を合わせぬよう下を向いた。
「わしはちょっと厠に。」
そう言って立ち上がりかけた板倉さまがトシに捕まる。
「逃げられるとでも思ったかい? 奥方様、次は板倉さまで。俺は餅の入った巾着なんかがいいんじゃねえかと思うがな。」
「ぎゃぁぁぁ!」っと板倉さまの絶叫が響いた。
「さ、あとはトシさん、任せましたよ? 新九郎さま、わたくしたちはあちらでお食事を。」
「うん、そうだね。」
奥の部屋には適温のおでんが用意してあった。
「さ、あーん。」
「あーん。うん、美味しいね。今度は俺が、律っちゃんは何が好きかなぁ。やっぱりがんも? ほら、あーん。」
「あーん。うふふ、新九郎さまにはお見通しでしたね。律はがんもが大好きなのですよ。」
冷たいビールと適温のおでんがとてもよく合った。料理の温度って大切だよね。




