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「よう、邪魔してるぜ。」
店から呼ばれたのは俺と西郷さん、それにトシと俊斎。座敷にいたのは海舟だった。
「ま、新九郎、無事で何よりだ。土方、いや、今は内藤か。おめえもうまいことやったじゃねえか。」
「まあね。」
それぞれが座に着くと、板倉さまがみんなにお茶を配って、そのまま自分も俺の隣に腰を下ろした。海舟は徳川に与えられた駿河の八十万石、今は静岡藩となった徳川家の幹事と言う役職についている。山岡もそこにいて銅山の監督を務めているようだ。
「オイラも色々大変でな。ちょうど大久保に呼ばれて江戸に来た。そしたら新九郎、おめえの事で大騒ぎさ。んでちょっくら顔でも出すか、とここに来たってわけだ。」
「そうなんだ。まあ、そっちも無事で何より。板倉さまもトシもここで暮らしてるよ。」
「……それで、一蔵どんはなんで勝さんを?」
西郷さんは渋い顔で海舟にそう尋ねた。
「きまってらぁな、例の版籍奉還、郡県制ってやつの意見を聞きてえとよ。それと外務大丞を務めてくれって内示があったがすっぱり断ってやったさ。」
海舟がそう答えると西郷さんはがっくりと肩を落とした。
「あのね、勝さん、江戸城開城の時、言ったじゃない! これからは一緒にこの国をって。なーんで断るの?」
「あのな、オイラはまだ徳川の家臣やってんだぜ? 慶喜の赦免もなしに政府の為に働けるかってんだ。ただでさえオイラは幕府をおめえらに売った、なんて連中からは思われてる。うちの門にゃ売国奸臣、天誅、なんて張り紙までされてんだ。こんな中、政府に出仕でもしてみやがれ、オイラはわからずやの幕臣どもに斬られちまうよ。」
「うーん、でもさぁ。」
「あのな、オイラがことある度に慶喜の赦免を求めてんのは忠誠心や幕臣としての意地だけじゃねえんだ。食いっぱぐれた幕臣どもを落ち着かせ、天誅だなんだって、バカな真似させねえ為には慶喜の赦免がいるんだよ!」
「そりゃあ、わからないでもないけど、簡単に赦しを出しちゃ、今度はこっちが収まらないのよ。オイさんだってできればぱぱっと赦免して、新しい世にしたいの。」
「ともかくだ、西郷、オイラはしばらくはこのまんまだ。政府をないがしろにしてるわけじゃねえ、むしろオイラがこうしてることが政府のためなんだぜ?」
「うん、でもね、正直な話、今の政府は素人の集まりだから。一蔵どんにしたってオイさんだって国の仕置きなんてしたことないもの。だからね、木戸さんは幕臣を出仕させてそうした部分を埋めようとしてる。渋沢さんとか確かに優秀だもん。けど、一蔵どんはそれじゃ維新の意味がないって反対してんの。」
「で、西郷、おめえはどうなんだ?」
「オイさん? オイさんはね、しばらく身を引こうかって。薩長の藩閥にこだわる一蔵どんにも、焦って洋化を進める木戸さんにも同意できない。幕府はもう、なくなった。それに外国とも話はついた。あとはゆっくりみんな仲良く、これじゃダメなの? って思うんだよね。」
「ま、どいつの言い分も一理あらあな。だがおめえらはそういう厄介ごとを自ら抱えた。愚痴を言うのは十年はええぜ。なあ、板倉さま?」
「そうだの。中を知らずに外から文句をつけるのは簡単じゃからの。朝廷、そして将軍、そういったものを気にせんでいいだけ今の方が楽じゃろうて。」
「……うん、そうだよね、今になってわかる。井伊大老、そして幕閣方の苦労が。でもね、」
「だろ? おめえらには愚痴を言う資格はねえってこった。」
「そうだの。」
「お金ないの! 大阪城も江戸城も、宇都宮も会津も桑名も、そして函館も! どこに行ってもお金が全然ないの! なんで!? おかしいよね!」
西郷さんの魂の叫びに、海舟、板倉さま、それに俺はつつっと目をそらした。
「ははっ、そりゃあれだ、幕府もお手元が厳しかったってこったな。なんせ海軍だ、洋式兵装だで金がかかった。だろ? 板倉さま。」
「そうじゃな、それもこれも薩長に対する備え。自業自得と言うやつじゃ。」
二人がそういうと西郷さんは疑い百パーセントのじとっとした目で俺たちを見まわした。
「俺は知らねえ。何しろ勘定奉行じゃねえからな。」
「わしもだの。」
幕閣として、何事にも動じない訓練を受けた二人は涼しい顔でそう言い返す。しかしそうした訓練を受けてない俺は、思わず目を泳がせてしまった。そこに余計な奴の余計な一言が。
「ま、西郷さんよ、旦那を敵にまわしちまうからそうなる。なんせ、勝先生は江戸城の金を景気よく配って回ってたし、旦那と板倉さまはあちこちで略奪だ。
宇都宮に松前、函館じゃイギリス商人からも。五稜郭に金が残ってねえって事は、なあ、旦那。いくらガメたんだ? 俺に内緒で。」
「えっ、な、なに言ってんのかな? トシ。」
「そうじゃ、言いがかりじゃ!」
「なるほどな、つまりこいつらは銭を山ほど抱えてるって訳だ、そうだな? 内藤。」
「ああ、俺が何を言っても聞きやしねえ。こいつらと今井、それにさっき話に出た渋沢の従兄、いっつもつるんで悪だくみしてやがったからな。」
「へえ、そう、そうなんだ、新さん。オイさんたちが食うにも困っていくさしてたのに、あんたたちは! もう、知らない!」
西郷さんはおいおいと泣き出した。
「何を言うか、西郷。これはいくさの習いであろう? わしも松坂も武士としてその本分を全うした。それだけの事じゃ。そうじゃろ? 海江田。」
「そっじゃな。奪う犯すはいくさの習いでじゃっで。そいを責めっとはおかしか事じゃ!」
「流石話が分かるね、俊斎は。」
「うむうむ、世に名高き薩摩隼人とは海江田のような者を指すのじゃろうな。」
「「ねーっ。」」
「そがいな事、言われたら、その、照れっじゃろって! もう!」
よし、いける! このまますべてをうやむやに! この時はそう思っていた。
「ま、西郷、そういうこった。あとはおめえらがうまくやんだな。それにだ、上野の彰義隊の時はオイラだってひでえ目に合ってる。それもうやむやのまんまで政府に仕えろ? 大久保にゃ文句を雨あられと言ってやったさ。」
「え、何かあったの? 海舟。」
「ああ、ひでえもんさ。大村って言ったか? そいつが戦争のどさくさ紛れにオイラを処分しちまおうってんで長州の兵が屋敷に乗り込んできやがった。オイラはたまたま出かけてて難を逃れたが、屋敷はひでえ有様さ。」
「もう、それも何度も謝ったじゃない! 大村さんにもちゃんと注意しました!」
「吉之助サァは甘か! あがいなもんはチェストーっと斬るべきじゃった! オイはそういっちょったんに、吉之助サァが止めっから!」
「俊斎! お前は黙っとれ!」
「ないごてか! 昔っからそうじゃ! オイがなんかち言えば黙っとれ! そればっかりじゃ!」
「そうだよ、西郷さん、俊斎の言うことも聞いてあげなきゃ。」
「そうだな、内輪の話もまとめられねえで異国と折衝なんぞできるはずもねえ。でな、新九郎、そのあとがひでえ話でな。」
「どうしたのさ?」
「屋敷が襲撃を受けたとき、村上、新徴組のあいつだ、おめえがぶん投げた。」
「ああ、山岡の弟子とかいう?」
「そそ、その野郎が駆けつけて長州の連中と話をつけた。」
「へえ、あいつがねえ。それで?」
俺がそう問い返すと海舟ははぁ、っと額を抱えて俯いた。
「その村上にうちの瑞枝が惚れちまった。んで二人は夫婦ってわけだ。」
「よかったじゃん。瑞枝もいい相手がいて。」
「その村上が筋金入りのろくでなしなんだよ! ばくちですったのなんだのと月のたんびにオイラのとこに金をせびりに来やがる。んで、外に対しちゃオイラの弟、そう触れ回っちゃろくでもねえことばっかりやらかしてる。」
「あらら、瑞枝もそんな奴の何がよかったんだか。」
「瑞枝はな、村上が腕がたつってんでいつか象山先生の仇討をって。」
「腕がたつって、あいつ無茶苦茶弱かったじゃん。トシでも勝てるくらいだよ?」
「あのなあ、旦那、俺を弱え奴の基準にすんのはやめてくれねえか?」
「そうだ、おめえに勝てる、強いと認めさせれる相手なんかこの世に両手の指の数ほどもいねえんだ。ま、ともかくそういう訳でオイラは困ってる。こいつも政府の責任だろ?」
「そんなこと言われたって。オイさんにも出来ることとそうじゃないことがあるからね。それに薩摩、いや、鹿児島に帰るし。」
「ま、海舟、その件も含めてその大村ってのには俺がきちんとけじめをつけにいくさ。」
「オイも同行する。聞けば聞くほど大村は許せん!」
「はは、そうだな。オイラが表に出ちゃ差し障りがある。この件は新九郎、それに海江田に任せるぜ。何しろ大村ってのは大阪の適塾の塾頭だったって話だ。こりゃ五月塾の塾頭だったおめえに適任の話さ。」
「なんでもいいけど大事にならないようにね、くれぐれも。俊斎、だけじゃ不安だけどちゃんと見とかなきゃダメ、いいね?」
「ないを言いよっとか! きちっとけじめをつけるち言うたら斬るしかなか!」
「ぐすっ、オイさん悲しい。もうね、斬るとかそういうのダメだから。俊斎も政府の重鎮なんだからね?」
「そや言うちも。」
「まあまあ、西郷さんも俊斎も、俺がうまいことやって見せるさ。なんせ俺は五月塾の塾頭だからね。斬り合いだけがすべてじゃないさ。」
「ほんと? ほんとだよね? オイさん信じてるから! 新さんの事信じてるから!」
「うん、大丈夫。穏便にケリをつけるからね。」
俺がそういうとみんな顔を歪めた半笑い。それは俺に向けられたものなのか、それとも俺の約束に涙ぐむ西郷さんに向けられたものなのかはわからない。つまりみんな派手な結末を期待している、俺はそう理解した。
「ま、そうなりゃあとはこっちの話だな。新九郎、それに板倉さまよ。オイラはな、幕臣の為の金貸しをやろうと思ってる。連中が暴れるとすりゃ、そりゃ食えねえからだ。だったら食えるようにしてやりゃいい。そうだろ?」
「そうだの。」
「だね。」
「ねえ、勝さん、そういうのはさ、政府の事業としてやらないと。あんたが政府に出仕してくれればするするとできるじゃない。」
「あのな、西郷、政府の施し、そんなもんを気位の高い幕臣どもが受けるはずねえだろ? 武士は食わねど高楊枝ってそんな考えが染みついてんだ。だからそれを徳川の名でやるんだよ。こいつがうまく行きゃ幕臣はとりあえず一息つける。あとはオイラが進めてる静岡の殖産を手伝わせりゃいい。そうなりゃ少なくとも幕臣の中からは天誅だなんたと馬鹿やらかす奴は出てこねえってわけだ。」
「確かにそうだよね。薩摩でも不満を持ってる士族は山ほど。それを鎮めるってのもオイさんが帰る理由だもの。まあ、勝さん、そこはうまく頼むよ。」
「ああ、任せとけ。今更政府を崩しちゃこの国はしめえさ。そうならねえよういろいろやってる。で、だ。新九郎、それに板倉さまよ。金貸しを始めるとなりゃ、どうしたって種銭は必要だ。
――で、いくらもってんだ?」
「「えっ?」」
「おいおい、おめえらは元幕臣、板倉さまは幕閣だった。同類の危機に身銭を切んのは当たり前だろ?」
「えっと、その、ねぇ、板倉さま?」
「気持ちはわかるが我らとて楽ではない。この身に飯を食わさねばならぬでの。」
「そ、そうだよ。うちの連中だって食わしていかなきゃいけないし。いろいろ物入り考えたらぎりぎりかな?」
「そうじゃな。余力があれば率先して金を出すところじゃがわが身が立つかどうか、その瀬戸際ではの。」
そう言いながらも俺と板倉さまは不安を感じ、手を握り合っていた。
「おいおい、オイラをなめてもらっちゃ困る。なんの下調べもせずにこんな話を持ち込んでると思うか?」
「あっ、うっ。」
「ムム無理なもんは無理なんじゃ!」
「横浜に出入りしている大黒屋、こいつの話じゃ函館から横浜に大層な送金があったと噂になってる。それこそ一万、二万、なんてケチな話じゃねえ。大藩でも持ってるかどうか怪しい、十何万両って銭の話だ。」
「じゅ、十何万ってあーた! その金が政府にあればたいていの問題は片付いちゃうからね! オイさんたちがどんな思いで金を工面してるかわからないの!? この鐘屋の再建資金だってやっとなんだから!」
「ま、そういう銭を隠し持ってるやつがいるって事だ。なあ、新九郎。」
「へ、へえ、すごい人がいたもんだね。」
「旦那、悪銭身に付かずとはよく言ったもんだ。観念して吐いちまえよ。」
「ば、バッカ、何言いだすんだよ、トシ!」
「俺は金をくすねんのは反対だった、言ったよな? 函館政府の奉行として。」
「そ、そんな昔の事は覚えておらんの。のう、松坂。」
「だよね、なに? 函館政府って。意味が分からない。だって俺たち旅行に行っただけだしぃ。」
「能書きはどうでもいい、新九郎、こりゃあ、男谷の男の務めじゃねえのか? 静斎殿に胸を張って言えんのか? 困窮する幕臣を見捨てててめえだけ贅沢な暮らしをするってよ。」
くぅっ! 弱いところを。しかし!
「板倉さまもだ。幕閣の務め、まだ終わりにするには早えだろ?」
「わしはもう幕閣ではないの。」
「ふふ、そうかい。だったら身ぐるみ剥ぐまでだ。おめえらは形の上じゃ今も徳川の家臣、こいつは徳川家の幹事、勝安房守としての命だぜ? 内藤、板倉さまを取り押さえな!」
「そういうこった、ついでに函館政府の奉行としての命も足してやるさ。」
「やめ、やめて! アーッ!」
板倉さまはしくしくと泣きながら乱れた着物の肩を上げた。トシの手には板倉さまの為替証書。その額、二万五千両。
「ほう、こいつはいいや。ご苦労だったな、板倉さまよ。あんたの徳川に対する忠誠は徳川を継いだ家達さまにもよっく伝えといてやるさ。」
「ま、まさか全額!?」
「いんや、オイラも鬼じゃねえからな。新九郎の持ち金次第じゃいくらか温情を施してやるさ。」
「ま、松坂! 全部出すんじゃ!」
「嫌だね! 言っとくけど、俺に力技は通用しないからね。いざともなればこの場の全員叩き伏せるけど、いいよね?」
そう言ってやると、トシも板倉さまも、そして西郷さんたちもごくりと唾をのんだ。
「おめえはそう来ると思ってたさ。だがな、甘いんだよ! お律っちゃん!」
襖をぱたりと開いて登場したのは律。その律は板倉さまを尻で押しのけて俺の隣に座った。
「えっと、その。」
「新九郎さま、よいではありませんか。お金など足りねばまたどこからか。それに男谷の者としては幕府に恩を。海舟さんもすべてを取り上げる、そう言ってはいらっしゃいませんし。」
「そうだぜ? オイラは塩梅を心得てる。おめえが素直に協力してくれりゃ悪いようにはしねえさ。」
こうなっては仕方がない、俺はぶるぶる震える手で肌身離さず持っていた為替証書を海舟に差し出した。
「ほう、板倉さまは別に二万か。ならこっちは返してやるさ。それに今井、あとは渋沢。それに榎本の分までありやがる。そうだな、今井は半分、そして渋沢はなんせ元慶喜の側役だ。全額主筋の為に使われるとあっちゃ、泣いて喜ぼうってもんよ。榎本も当然全額だな。あの野郎は俺が止めるのも聞かずに船をだしやがったんだからよ。」
海舟はそう言って今井さんの半分、それに渋沢さんと榎本の全額を没収した。そして、俺にも非情な沙汰が下される。
「おめえはこの二万だけ、ってわけじゃあんめえ? ま、これだけで勘弁してやらぁ。さすが男谷の男は違うってもんよ。だろ? 西郷。」
「っていうかさ、そんなにお金持ってたの? もうね、オイさん涙が止まらないよ!」
「とりあえずは大黒屋名義での献上金って事にしとく。新九郎の名は世に出るとまじいし、板倉さまも憚りある身だからな。時期がくりゃ板倉さまの名は大きく使わせてもらうぜ。んじゃ邪魔したな。」
俺たちから奪うだけ奪った海舟はそそくさと席を立つ。残された俺と板倉さまは呆然として、その場にぽてっと倒れこんだ。
「ねえねえ、新さんも、板倉さまもさ、残った半分だけ、ね? 政府に献上しちゃうってのはどう? 二万両とか普通に使いきれないからね。でしょ?」
「ざっけんな!」
「そうだの! 西郷は鬼じゃ!」
鬼気迫る顔の俺たちに、西郷さんはひぃ! と叫びをあげて外に走っていった。
海舟さんの始めた幕臣への金貸し、これは史実のようです。原資は大黒屋から献上された三万両。この大黒屋さん、尊皇派だったみたいです。それが徳川家に三万両を献上? ちょっとうさん臭く感じたのでこんな話にしてみました。
それが功を奏したのか、幕臣からは明治の要人暗殺の犯人は出ていないみたいです。犯人は大体〇〇県士族、もと藩士ですね。