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 翌日は朝から雨だった。西郷さんからも使いが来て、忙しいからいけない、と連絡が。律は昨日のうちにトシの実家や車坂の健吉の道場、それに桶町の定さん、あとは聞多と春輔なんかにも俺が戻ったと連絡を入れていた。そして今宵、無事帰還の祝いをやるのだという。


 トシの許嫁、お琴は近くの貸家を借りて三味線や長唄の教室をひらき、結構な数のお弟子さんを取っているらしい。そして安次郎の妻たちは半分がここで女中を。残りは近所のお店に働きに出ている。この上野はどこに行ってもうちの連中の妻たちがいるのだ。


「しかし、よそに働きに、と言うのはあまり。瓦礫が片付けばそこに鐘屋を増築しようかと。そうすればうちの皆は外に出ずとも。」


「なるほどねえ。みんな生活には困ってないの?」


「はい、それだけのお給金は出してもらっておりますし、それに、足りねば預かり置いたお金もありますから。鐘屋のもうけも等分に分けておりますし、暮らしには事欠かないかと。」


「そっか。」


「出会い茶屋だけでなく、何か目新しい商いでもあればいいのですが。」


「そうだよね、金はあるんだし。そうだ! ねね、律っちゃん。俺は函館にいたころ、毎日コーヒーを飲んでたんだよ。洋風茶屋、ってのはどうかな。」


「まあ、私はまだコーヒーを口にしたことはありませんが、紅茶、それにそのコーヒーであれば横浜から仕入れることもできますから、いいかもしれませんね。」


「うん、板倉さまにも相談してみようか、あの人、そういうの長けてるし。」


「ええ、でもその前に。」


 ベッドの上でのそんな話。あとは哲学を語れと律は言う。



「それでさ、板倉さま、どう思う?」


 番台、いや、フロントで帳簿付けに勤しむ板倉さまにそんな話をする。


「ふむ、いいかもしれんの。ここは洋酒、コーヒーや紅茶はそちらの店で、と言う事にすればいい。ほかの店ともかち合わんしの。」


「だよね。」


「敏郎夫婦に任せてみてはどうじゃ? まだ若いし、気も利くからの。」


「なるほどね。」


「それがうまくいったら今度は別のところでやったほうがいいの。ここをあまり固めては目立つし、政府も何のかんのと言うじゃろう?」


「なるほど、それは頭になかった。」


「そうであればそれを任せるものも選ばねば。女手を前に出し、男手は押し出しの利くものがよかろう。いざと言うときに店を守れぬではつまらぬからの。」


「ほうほう、そういう事もあるもんね。なら安次郎かな。奥さんも別嬪だし。」


「だろうの。わしも名は出せんが金は出せるからの。二人でうまくやれば大儲けじゃ。うっしっし。」


「だよねー。」


 そう、この時俺たちは夢いっぱい。何しろ二人合わせりゃ金は十万両以上。下手な藩よりよほど持っているのだ。


 昼を過ぎたころ、多摩からトシの親族を代表して、佐藤彦五郎夫妻がやってくる。二人は先に蝦夷から返した市村鉄之助を連れていた。


「新さん、今回の事じゃえらい骨折りをさせちまったみたいで。」


「そんなことないさ、彦さんや為さんたちには世話をかけてた。それに鉄とも約束してたしね。それにトシは友達だ。そう簡単に死なせはしないさ。」


「松坂さま。」


「ま、何とかこうして生きて帰れた。旦那にゃ感謝してもしきれねえよ。土方歳三は死んじまったがこうして内藤歳三として生きてることを官軍の連中に認めさせちまったんだからな。」


「そうだぜ歳三、おいらも為さんも、新さんがついてたのにおめえが死ぬわけねえ、どっかでそう思いながら葬式上げたんだ。土方歳三は石田村の、いや、多摩の誇りになった。けど内藤歳三は相変わらず出来の悪いおいらたちの弟さ。だろ? のぶ。」


「ええ、ええ、本当に。こうして再び顔を合わせられただけでも。」


「だがおめえは多摩には帰れねえ。なんせ盛大に葬式上げちまったからな。為さんもこっちで立派に生きろって言ってた。なんかありゃ文でってな。

 で、できることはとりあえずしちまおうってことでおいらとのぶが来た。それにしてもこの鐘屋立派なもんだねぇ。話にゃ聞いてたが。」


「ええ、本当に、田舎者の私たちには眩しいほど。さ、歳三、お琴を連れていらっしゃい。祝言をあげますよ。」


「彦五郎さん、のぶさん、支度はしかと。」


 律がそういってみんなを広間に案内する。この洋館にはそうしたことに用いれるような広間まであるのだ。そのあと内々ではあるが、心のこもった祝言が執り行われ、トシは安次郎たちに茶化されながらお琴と夫婦になった。


 そして夕方になると健吉が来て、俺の無事を祝ってくれる。そのあとは定さんとさな、そして馬車で洋服姿の聞多と春輔が。みんな広間に集まって豪華な料理、それにビールを楽しんだ。


「いやあ、それにしても新さん? もうね、政府じゃ大騒ぎだったんだから。これじゃどっちが降伏したのかわかんないって。あはは。」


「そうッスよ。特に木戸がうるさくってね。」


「そうそう、あいつ、逃げてばっかりのくせに偉そうに。」


 聞多と春輔は立派に出世。総裁局顧問として庶政の最終決定を任された木戸孝允、桂の引きたてもあり、聞多は大蔵省に入り、春輔は参与、それに外国事務判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事を務めているという。郡県制はまだだがそれに先立ちいくつかの天領であったところを再編、県を置いているのだという。


「しっかし、二人ともたいしたもんだ。俺らと薬売りしてた頃が懐かしいぜ。なあ、定吉先生?」


「本当だよね。いまじゃ政府のお偉方だもの。」


「いやいや、私たちなんか大したもんじゃないですって。それより新さんは流石ですよねー。普通に旅行者だから保護しろって、蝦夷から堂々と官軍の船に乗って帰ってきちゃうんだから。」


「そうっすよ。それにトシさんの事だって、新選組の土方とは別人だって言い張って、新しい戸籍まで拵えちゃうんだから。」


「なるほどねぇ、政府も新さんにかかっちゃどうにもならないってか。お父さんもね、よくトシさんは無事に帰れたねって、だって新選組でしょ? 近藤さんはあんなことになってたし。」


「ま、みんな旦那のおかげよ、健吉さん、今井さんも今は囚われの身だがすぐ出てくるさ。なんせ黒田参謀が旦那とそう約束した。旦那との約束破っちゃこの国にはいられねえよ。なんせあの西郷さんですらああだったんだ。」


「ええ、わかっていますよ。新さんが友を見捨てるはずもないって。なんせ男谷の男ですからね。」


「そういうこった。ま、心配なのはわかるが暗い顔してねえでぱああっとやろうや。」


「私はね、歳三、あの時新さんと共に戦えなかった。その決断ができなかった自分が悔しくて。」


「あはは、榊原先生まで敵に回られちゃ官軍は勝てなかったかもしれないッス。なんせうちの狂介は越後でひどい目に合ってるッスよ。」


「ほんとだよね、長州奇兵隊、なんて言ってみてもさ、所詮は民兵。強いといっても知れてるよ。ところでさ、新さん、函館から帰るまでに何人くらい斬ったのさ? その頬の傷も気になるし。ほら、私も長州で襲われてね、この通り傷面になっちゃったから。」


 確かに聞多の顔には刀傷がいくつも走っていた。


「そうっすね、聞多さん。俺もそれ、気になってたッス。新さんに傷を負わせる人がいるなんて。」


「ですね、私も。男谷先生亡き今、新さんに手傷を負わせる人がいるなんて。」


「うんうん、お父さんも気になるなぁ。」


「うーん、細かくは数えてないけど百人くらい? それとこの傷は熊と戦ってね。」


 そういうとみんなドン引き、他はまだしも健吉までもが固まってしまう。


「あ、うん、聞かなかったことにしようか。飲もう。ね、みんな?」


「……そうっすね。」


「ですよねー。」


「あは、あははは、百人、ですか。それに熊まで。」


「健吉さん、旦那だけじゃねえ、一郎さんや安次郎さんたちだって相当斬ってる。なんせ、鳥羽伏見以来誰も欠けちゃいねえんだ。鉄砲相手に刀でだせ? それに熊だって十尺はあったって話だ。聞多も春輔も政府の都合ってのはいろいろあんだろうが、旦那を敵に回さねえほうがいいな。薩摩は西郷さんをはじめ、みんなそれをわかってる。蝦夷でも長州の山田なんてのはひでえ目にあってんだ。」


「あはは、だよね、そうですよね。大丈夫、私らは政府でも大久保さん寄りですから。ね、春輔?」


「そうっすよ。薩摩だ長州だで物事決めてちゃ維新の甲斐がねえッス。木戸以外はみんなわかってるッスよ。」


 そんな話で盛り上がりつつ、楽しい時間を過ごした。聞多と春輔は明日も早いとのことで早々に引き取り、残った面子で酒を飲む。安次郎たち夫婦ものもそそくさと席を立って行った。


「そうなのよ、榊原先生のとこも? うちも門弟が減っちゃって。ご一新なんていうけどうちらにとっちゃいい迷惑。」


「本当ですね。剣術なんてものはもう見向きもされない、そんな時代に。私も余力のあるうちに、と居酒屋を始めてみたりしたのですが、どうにも。」


「なにせ今や武士と言えば食いっぱぐれですもんね。玄武館だって今じゃ閑古鳥が鳴いてますもん。」


 新しい世になれば、そのあおりを受ける者たちが出てくる。そういう訳だ。俺たち武士、それに定さんや健吉のような道場主、刀を商う者だって武士がいなくなりゃ困るはずだ。


「ふう、ほんと困ったもんだよね。」


「まあまあ、先生方、捨てる神ありゃ拾う神ありっていうじゃないですか。そのうちにゃ何とかなりますって。おいらたちだって年貢は重くなるし大変で。政府の人らも懸命なのは判ってるんですがね。」


「ですよねー。」


 大人たちがそんな話をしている中、若者たちは別の話で盛り上がる。


「そうやろ? 鉄、女なんかにかまけ取ったら真の男にはなれんのや。」


「はいっ! 一郎さん、僕は一生ついていきます!」


「そうや、僕らはこの身に鬼を宿した鬼子なんや。悪を退治するために世に使わされた選ばれしものなんや!」


 どうやら二人は新たな童貞による紳士同盟を締結したようだ。ま、悪でもなんでも好きなだけ退治してほしい。



「ねえ、お父さん?」


「ん、どしたのさな?」


「トシさんは一回死んで今は別人、そうなんですよね?」


「あ、うん、そうみたいね。」


「なら私も一回死んで別人に! 龍馬さんの妻だった千葉さなは死にました!」


「へえ、そうなんだ。お父さんはちょっとよくわからないけど。」


「それで、まっさらな佐奈として嫁ぐことにします!」


「そりゃありがたい、いや、めでたい事だけど、相手は?」


「この人です!」


 そう言ってさな、いや、佐奈は一郎に抱き着き、口づけた。一郎は突然の事にフリーズ。そしてパタリと倒れこむ。


「あら、いいじゃない。うんうん、お父さんうれしい! 一郎さんなら剣も達つしね。あのポンコツとは大違いだよ。」


「ええ、あんな男は知りません、私はこの人と生涯を共に。ね、あんた?」


 佐奈はそう言うが一郎は機能停止したまま。そこに律が助言をする。


「佐奈さん、おなごはここぞというときに勝負をしなければ。上の部屋を。やはり既成事実は大切ですからね。」


「そうですね、律さん。お言葉に甘えて。ほら、あんた、いくよ。」


 佐奈はずるずると一郎を引きずっていく。その一郎はにへらっと言う顔をしていた。


「あ、あんたは最低ですよ! 裏切者!」


 鉄の声がむなしく響き渡った。紳士同盟、結成後わずか四半刻で崩壊。


「じゃ、新さん、そういう事だから。佐奈は一郎さんの妻ね。祝言は明日かな。」


「実にめでたいことですね、定吉先生。」


「ほーんと、行き遅れの娘を持つ親は大変なんだから。そうそう、榊原先生、今日はうちで泊まりません? 早起きして釣りなんてどう?」


「いいですね。ぜひ。」


 定さんと健吉も席を立ち帰っていった。


「んじゃおいらたちも。新さん、トシの事よろしく頼みます。」


「もう遅いし泊っていけばいいのに。」


「遅くなっちゃ為さんがうるせえんですよ。また、顔を出させてもらいますから。」


 彦五郎夫妻も帰っていった。トシもお琴と自分の家に。残された鉄はお千佳に捕まり新たな下働きに加えられた。


「結果として佐奈さんも片付いておめでたいことですね。」


 律はベッドに入り、俺を抱きながらそう言った。


「まあね、でも、まだやることは山積みさ。容保さま、それにはじめちゃん、今井さんの事もある。それに駿河に行ったっていう海舟のとこにも顔を出さなきゃね。」


「ええ、みなさん無事、とは聞いておりますが。」


「はじめちゃんはね、会津で好きな子ができたって。その子を守るため会津に残ったんだよ。それができなきゃ律っちゃんに怒られるって。」


「はじめさんは立派な男谷の男。わたくしの弟です。愛するものを守る。それができて殿方は一人前。何ができようがそれができぬとあれば、意味はないのですから。」


「そうだね。俺は律っちゃんがいるからこそ戦ってこれた。律っちゃんの夫として恥じぬよう、強くあれた。昔ね、象山先生が言ってたんだ。」


「なにをです?」


「講談の宮本武蔵、武蔵は天下無双の強さになったけど、認めてくれるものを欠いていた。お通を遠ざけた武蔵はだから寂しく一人で死ぬことになったって。

 愛するものに認められ、守りたい。それが人にとっての根幹。その為に腕を磨き、知を養う。愛するもの、そしてその周囲の人々、そうした人を守るためどうすればいいか、そう考えていくうちに天下国家につながるんだって。あの頃はへえ、くらいしか思わなかったけど、今はよくわかるよ。

 俺が男谷の男の矜持を守るため戦ってきたのもそうさ、律っちゃん、それに親父殿にカッコいいところを見てほしい。すべてはそれさ。」


「うふふ、わたくしは昔から存じておりましたよ。そして新九郎さまがみなに褒められるたび、心の底からうれしく、もっともっとつながりたいと。さ、新九郎さま、もっとおそばに。もっともっと強く抱いてくださいませ。」


 律はすべての話を哲学に結び付ける力があるのだ。もちろんこの後もいっぱい哲学した。



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