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 明治二年(1869年)六月一日。


 俺は一年ぶりに我が家である不忍池の鐘屋に帰った。だが、元の鐘屋は瓦礫となっており、その隣に建てられた洋館、ここに親父殿の揮毫きごうした鐘屋の看板が掲げられていた。

 トシや安次郎たちはそれぞれの連れ合いと近くに借りているという家に帰り、早速哲学に励んでいる。独り者の一郎は呆然としていた所を女将のお千佳に捕まり、そのまま下働きに組み込まれた。そう、この洋館は以前と変わらずラヴホテール。珍しい洋館、部屋も洋室であることからさらなる人気を博しているのだという。

 そして俺も再会した律と、すぐにでも哲学を、そう思ったが、その前にやることがある。


「で、どういう事かな? 西郷さん。」


 ここでの俺たちの居住区は一階のはずれの部屋。寝室の他、畳敷きの座敷があった。そこで縮こまる西郷さんと対峙する。


「えっと、そのね、オイさんはしっかりここを、そのつもりだったんだよ? けどね、いろいろあってこうなっちゃった。もちろん奥方もここの人も安全なところに逃げてもらったし、補償だって、ほら、こーんな立派な洋館を。土地だってちゃんと新さんの名義だよ?」


「ふーん。」


「参議の一蔵どんにお願いしてそのお金だって出してもらったんだよ? もうね、オイさん大変だったんだから。」


「西郷さま? 住むところにはお金で購えない思い出、と言うものもあるのです。あなたはわが夫と鐘屋を守る、そうお約束されたのですよね? わたくしは、その結果がどうなったか、それを夫に見てもらうため鐘屋を瓦礫のままに。」


「もう、奥方まで、そんなこと言っちゃ嫌! 仕方なかったの!」


「んじゃ、薩摩に行って西郷さんちに大砲撃ちこんでみよっか? 律っちゃんも行くでしょ?」


「ええ、もうわたくしは新九郎さまと離れて暮らすなど耐えがたく。」


「やーめーてー! そりゃね、オイさんの家はぼろだけど、みんな住んでんの! 壊されたら住むとこなくなっちゃうでしょ!」


「それで、どうしてこうなっちゃったのさ?」


「それがね。」


 西郷さんの話によれば、長州の大村益次郎、これが今、東京府の知事を務めていて、上野戦争の実質的な司令官だったという。その大村との軍議の席で薩摩の海江田信義と対立。そこに西郷さんが仲裁に入ったのだという。


「この海江田ってのが、前に話したでしょ? 有村俊斎。生麦で異人斬っちゃった奴ね。もう、ほんとあったまおかしいから。けどね、あの場は俊斎の言う事にも一理あって。なにせオイさんたちは鐘屋を守らなきゃいけないからね。当然前に出るのは長州、そんな腹積もりでいたの。

 ところがさ、大村さんの作戦案だと、薩摩が敵の真ん前! もう、死ねと言わんばかりの配置だったわけよ。オイさんも思わず、『こりゃあ、薩摩を皆殺しにする策ですかな?』って嫌味いったもん。そしたらあの人、普通に『そうですな。』って。そこで俊斎がキレちゃって。」


「で、どうなったの?」


「もう、チェストーってなもんよ。そしたら大村さん、『君はいくさを知らぬ。』なーんて、もう、斬る斬らないの大騒ぎ。けど大将はあっちでしょ? 仕方なく従ったわけよ。銃弾ばんばん飛んできてオイさんもあわやってとこだったもの。そーれーで、こんなことになっちゃった訳。」


「なるほどねえ。んじゃけじめはその大村って奴にって事か。」


「うん、そう、そうなのよ。オイさんも約束守れなかったことは悪いと思ってるし、こうしてできることはぜーんぶやったからね。それ以上の文句は大村さんに言ってもらわないと。」


 話がひと段落ついたところでするするとふすまがあいて初老の男が茶を持ってきてくれた。


「ま、ゆっくりするといいの。」


 どう見ても板倉さまだった。


「……」


「……」


「ほら、板倉さま、忙しいんだからはやくしな! 帳簿もたまってんじゃないか!」


「あーはいはい。」


 お千佳に言われ、板倉さまが腰を浮かそうとしたところ、西郷さんがその腕をがしっと掴んだ。この時点で西郷さんは涙目だった。


「ねえ、板倉さま? どうなってんのかな? 上州で蟄居してるはずですよね?」


「ん? そうじゃが?」


「だーかーらー、なーんでここにいるの? もう、オイさんわけがわからないよ。」


「たいしたことじゃないの、せがれはちゃんと上州におるし、わしがここにいるとも伝えてある。」


「そうですよ。板倉さまはこちらで見事なお働きを。」


「いやいやいや、そういう事じゃなくて!」


 板倉さまの話によれば、上州に赴いたはいいが退屈極まりない。そこで、藩主に毎日ぶつぶつと文句を言い連ねたら散歩だけは許してもらえ、その散歩ついでに江戸まで来てここで働くことにしたのだという。騒ぎにしたくない安中藩主はそれを黙認。くれぐれも目立つことだけはしてくれるな、と血文字で書かれた文が届いたのだという。


「あーやだ、どうなってんの、一体!」


 西郷さんが放心したその時、さらなる悲劇が。


「ちょっと! 忙しいって言ってんだろ! そっちのあんた! 政府のお偉方だかなんだか知らないけど、民の暮らしを邪魔すんのが政府の務めなのかい!?」


「あ、いや、違います。違いますとも!」


「それに店先に馬車だかなんだかしらないけどあんなもんおいて! 商売の邪魔だってわからないかい?」


「あ、すぐ帰りますから。」


「もうあたしが文句言って先に返したよ! それになんだい、あんた、そんなにぶくぶく肥えちまって! 政府のお偉いさんってのはよっぽど楽な仕事なんだろうさ!」


「いや、ちがうの! すっごく大変なの! オイさんの家もすっごく貧乏で!」


「貧乏人ってのはそんな肥えた体をしちゃいないよ! あんたはたるんでんだ! ここで板倉さまと水汲みでもしていきな! そんなきんきらした格好じゃなんもできないからこれに着替えて。」


「えっ? でも。」


「文句あんのかい! 長州の桂はね、そりゃよく働いてくれたさ。薩摩のあんたは水汲みの一つもできない、なんてことはないだろうね?」


「ぐすっ、わかりましたぁ! ちゃんと働きますぅ!」


「そうさ、体を動かさないと病気になっちまう。こりゃ、あんたの為を思って言ってることなんだよ? それに、旦那様との話がついたのなら、隣の瓦礫も何とかしなくちゃね。トシさんたちもこっちで暮らすんだ。人手もあるし丁度いいね。もちろんあんたにもやってもらうよ! ありゃ、あんたがこしらえたようなもんだからね。」


 お千佳の超理論によって西郷さんは下働きに組み込まれる。総督を示す派手な軍服はお千佳が用意した力士用の大きな浴衣に着替えさせられ、仲間が増えてうれしそうな板倉さまに連れていかれた。


「しっかり働きゃうまいもん食わしてやるよ!」


 そんなお千佳の言葉に、西郷さんは嬉しそうに頷いた。


「さて、新九郎さま?」


「そうだね、律っちゃん。」


 そして俺たちは寝室に。しかもそこは洋室。そのフカフカのベッドの上で熱い討論を何度も何度も繰り返した。


「新九郎さま? その、あちらでは。」


「もちろん律ちゃんだけさ。」


「うれしい!」


 そのあと律に俺があちこちで見てきたことをつぶさに話し聞かせた。


「そうですか。新九郎さまは男谷の男として、見事なお働きを。人にこびず、頭を下げず、常に正面から堂々と。」


「そうだね、負けっぱなしだったけどそれだけは。」


「いいえ、それができぬゆえ人は妥協するのでございますよ。人に媚び、頭を下げて利を。商人ならともかく、武士としては。」


「けどその武士って奴ももう終わりさ。武士の矜持が生きる上で邪魔になる。いずれこの国から武士ってのはいなくなるだろうね。」


「ですが新九郎さまは。」


「俺は武士であり続けるさ。その為には暮らしに困らない金が要る。それをしっかりとね。うしし。」


「まあ、ちなみにおいくらほど?」


「へへ、それこそ軽く五万両! どう? すごくない?」


「きゃー! 素敵! それだけあればこの不忍池一帯を全部鐘屋に! もはや上野は松坂家の領地も一緒!」


「えっと、その、律っちゃん?」


「内々の事は律にすべてお任せを! この動乱で江戸を去った方も多く、それに鐘屋が大きくなれば、職にあぶれた幕臣方の働き場も! わたくしたちは食うに困らねばそれでいいのですし。」


 そう、律は基本善良なのである。ただちょっと性欲が強いだけで。


「それに、世も落ち着いたとなれば子作りにも励まねば。さ、新九郎さま? もう一度!」


 世は落ち着いても荒ぶる律の性欲は落ち着くことはなかった。



「でね、久光さまは相変わらずばっかでさぁ。そう、そうなのよ! 板倉さま。やっぱり話の分かる人はちがいますよね!」


 その夜、西郷さんはさっぱりとした顔で板倉さま相手に愚痴を言いながら、佃煮をうまいうまいと食いながら、ビールを浴びるほど飲んだ。



「はい、集合!」


 西郷さんの号令で俺やトシ、それに安次郎をはじめとするうちの連中が集められる。板倉さま、それに、一郎と敏郎はお千佳の要望で鐘屋の下働きだ。


「いい、この瓦礫をきれいに片付けちゃうから。ぱぱっとやってぱぱっと終わらせちゃうよ!」


「「おー!」」

 

 ほっかむりをした西郷さんはこの手の事は得意らしく、自分も働きながらほうぼうに指示を出していく。


「ほら、トシさん、それはあっち! ちゃんと分別しておかないとあとで困るでしょ?」


「あ、そっか。」


「もう、新さん? タバコなんか吸ってないで手を動かしてよ!」


「はーい。」


「安さんはお店に行って板倉さまにお茶の支度を頼んできて、休憩も大切だから!」


「わかりました!」


 少しばかり片付き、みんなで茶を飲みながら休憩する。それにしても西郷さんはたいしたもんだ。みんなが口々にそういうと照れたようにほっかむりしていた手ぬぐいで汗をぬぐった。


「オイさんはね、薩摩では群方書役って言って、田畑の監督や作事なんかをやってきたからね。もうね、牛が田んぼにはまっただとか、嵐で倒れた家の片づけとかそんなんばっかり! けどね、みんなの役に立ってるって気がして。」


「そうだな、うちも農家だが、そういうお役人がいてくれりゃ民は助かるってもんだ。」


「昔ね、けんかの仲裁に入って、腕をばっさり切られちゃって。それから斬った張ったは全然。言うこと聞かないのはぶん殴ったりしたけどね。だからその分違うところで働かないとって。」


「我らはずっと剣一筋。武士の役目にはそのような物もあるのですな。」


「そうだね、俺たちは腕こそ立つが、そういうのは全然だもの。」


「ま、旦那も俺たちも頭の方はいまいちだかんな。だろ? 安さん。」


「そうだな、だからこそ函館くんだりまで行って戦った。そういうことだ。」


「ちげえねえ、あはは。」


 さて続きを、そう思って立ち上がると、あわただしく馬車が走ってきてうちの前で止まった。


「吉之助サァ! こげなとこで何をしよっとか!」


「あら、俊斎、どしたの? あ、新さん、こいつが俊斎ね。昔っからばっかでさぁ!」


「な、何を言うとんじゃ! そがいなこつより大変じゃ!」


「もう、何? 俊斎の話はいっつも大変ばっか。」


「帝から栄典が下されたんじゃ! はよ、御礼言上にいかな! はようっち!」


「あ、そう、まあ、うれしいことだけど。それより俊斎、こっちが新さん、松坂新九郎さんね。」


「あ、ども。」


「ほう、おまはんが松坂サァか! 見廻組のころから話は聞いちょる。すごかお人もおるもんじゃち思うちょった!」


「いえいえ、俊斎さんこそ。生麦でずばーって異人斬っちゃったんでしょ? あれはいいね。スカッとした。」


 俺がそういうと俊斎さんは鋭い目を目いっぱい見開き、そのうちにはじわっと涙ぐんで俺の手を取った。


「オイはうれしかぁ! あんことはみんなにお前はバカじゃち言われて、けど武士はそうするもんじゃ。わかってくれたんはおまはんが初めてじゃ!」


「そりゃそうでしょ、主君の名誉を守るためだもの。なあ、みんな?」


「当然の行いだ。我らとてそうする。」


「ま、騒動にはなっちまったが武士としちゃあ立派な行いだと思うぜ?」


「うれしかぁ! こん吉之助サァなんかオイをひっぱたいたんじゃ! じゃっど、わかっちくれるお人も!」


「あー、俊斎? この人たちは特殊だからね。あの時はオイさんたちも大変だったんだから。」


「ないごて言うかや! 吉之助サァも大久保サァもいっつもそうじゃ! オイが年下じゃっちゅうて馬鹿にして! ともかくはよ戻らんね!」


「あ、うん、そうする。」


「そいじゃみなさん、また。松坂サァ? オイも遊びに来てよかごとか?」


「ああ、ぜひおいでよ。あんたは気が合いそうだし。」


「オイは俊斎とよんでくやんせ! ほいじゃ、また。」


「うん、西郷さん! 明日も来るよね? まだ片付け終わってないし。」


「もう、わかってるって。」


 海江田信義、俊斎と、西郷さんは馬車に乗り込み帰っていった。


「んじゃ今日はここまでだね、西郷さんのせいなのに、俺たちだけ作業すんのも馬鹿らしいし。」


「だな。」


「ですな。」


 こうして俺たちは作業を中断した。



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