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明治二年(1869年)五月三十日。
俺は船に設けられた畳敷きの部屋でごろごろしていた。トシは一郎たちと一緒に「タダで乗せてもらうんだから」と船員たちの手伝いに勤しんでいる。身を起こしてシガーに火をつけると西郷さんがフウフウと息を切らせながらやってきた。
「オイさん船って苦手。揺れるし通路は狭いし、階段は多いし。」
基本、この人も暇なのである。なんせすべての職務は村田さん任せなのだ。だが時折呼ばれてそのたびに村田さんのいる執務室まで行き来する。それがどうにもきついらしい。西郷さんはヘビースモーカー。暇さえあればキセルを吹かす。今も汗の浮いた額を袖で拭いながらキセルに火を入れた。
「っていうかさ、西郷さん太りすぎ。京にいた頃より全然太ってるもん。」
「あ、やっぱり? オイさんもね、心労がきつくて。それをごまかすために甘いものばっかり食べちゃうのよ。みんなにも止められてるんだけど。」
「そんなにうまくいってないの? 新政府は。」
「もうね、大変。こんなこと言ったらなんだけどね、オイさんって島流しにあってからずっと禄が没収されたまんまだったの。」
「えっ?」
「ほら、貧乏だっていったでしょ? ずっと禄もなしのタダ働きだったの。もっとも捨扶持だけはもらってたけど、知行は没収されたまま。」
「マジで?」
「でさ、この三月に功ありって事で、藩の参政に任じられて格も一代寄り合いって事になって知行も返してもらったんだけど。」
「ならよかったじゃん。」
「まあ、オイさんに関してはね。けどさ、薩摩にはオイこそが維新回天の立役者だって言うのがいっぱいいて。働きを見せたのになんで恩賞がないんだ! チェストー! ってなもんよ。そういうのを宥めんのもオイさんの役目って訳。薩摩の中ですらそうなのに、そのうえ政府の仕事でしょ? まあ
治政に関しちゃ一蔵どんや伊藤さんたちが頑張ってるけど、その閣僚は薩長ばっかり。これじゃね、維新をした意味がないの。幕府の代わりに薩長が座っただけだもの。
オイさんはね、このことに関しちゃ一蔵どんにも文句言ってやろうかと思ってんの。確かに薩長主導で維新はなった。だったらこれからは出自に関係なく広く人材を。そうでしょ? 幕臣や諸藩の人も一緒に新しい国づくりをしなきゃならないのに。」
「まあ、いろいろ考えがあるんじゃないの? 一蔵さん、頭良いし。」
「うん、そうだけど、誰かがそう言わないと収まらないでしょ? そもそも久光さまなんてもっとおかしいからね。オイはいつ将軍になれっとか? だって。もうほんとバカ。何にもわかってないんだよ、あの人も。」
「あらら、そりゃ困るね。さすがに将軍ってのはないわー。」
「でしょ? でしょ? そこに来てですよ、あーた。勝さんはいっくら誘っても政府に出仕してくれないの。何かっていえば慶喜を赦免しろってそればっかりでさ。そりゃね、いつかはそうしますとも。けど、政府はできたばっかり、いま赦免なんかできるはずないよ。勝さんはね、そういうのぜーんぶわかったうえで言ってんの。ほんっと意地悪だよね、あの人も。」
「ま、海舟は昔から腹黒いからね。」
「それでね、いつの間にかオイさんが政府に対する苦言役。もうみんなから嫌われちゃうし。嫌になっちゃう。」
「文句言うやつはみんな殴っちゃえばいいじゃん。」
「そうもいかないんだよね、これが。これからは言論の時代。武力を用いるのはできるだけ避けないと。」
「だってさ、話したって無理な奴は無理じゃん。」
「その無理な奴ってのが薩摩にいっぱい。これがオイさんの悩みどころなのよ。」
そう言って西郷さんは人を呼び、お茶とお菓子を用意させた。お菓子は函館で俺が買い付け、西郷さんに渡した洋菓子。クッキーとチョコレートだった。
「ま、それは西郷さんが悩めばいいことだけど、そういえばさ、容保さま、どうなったの?」
「ああ、会津候ね。今は江戸、いや東京って変わったんだけど、そこで池田邸にお預け処分。もうすぐ実子が生まれる見たいだし、男の子ならその子に家名を継がせて陸奥当たりで三万石、そんな話になってる。今の世継ぎは慶喜公の弟だし、それはまずいって話でね。もう、木戸さんなんかは会津に厳罰をって騒いじゃって大変だったんだから。」
「そっか、斬首とかになってなければそれでいいさ。ってことは板倉様も?」
「うん、上野の安中藩に預けて蟄居。」
「そっか、ってことは二人とも、もう世には出れないってことだね。」
「まあね、さすがに大名ってなるとそう簡単には許しを出せないよ。誰かが責を負わないと。」
「そうだよね。で、西郷さんには貸し二つ、村田さんに一つに一蔵さんにも一つだっけ?」
「ちょっと! オイさんは江戸開城で一つ返したでしょ!」
「あ、そっか。んじゃ西郷さんの分と村田さんの分を使おうかな。」
「えっ? 何。」
「容保さまと板倉さま。二人はずっと謹慎ってことだよね?」
「たぶんそうなると思うよ。」
「ならさ、謹慎してるってことにしてトシみたいに別人として生きる分には問題ない。そういうことだよね?」
「えっ? なにが? 問題ありすぎだと思いますけど?」
「とにかく貸しは貸しだし。ね? うまくやってよ。」
「もう嫌! オイさん本気で泣くからね! おーい! 新どーん!」
西郷さんはそう言って泣きながら走っていった。
「……そいで、新さん? オイも努力して何とかするつもりじゃけんど、万一、その万が一無理だったらどうなっとかなぁって?」
「えー、村田さん、約束破っちゃうの?」
「そんなことなかです! 絶対! 不退転の決意で臨むつもりじゃっど、世には無理っちゅうことも。」
「まあ、その時は俺も約束破っちゃうかも。龍馬殺しの黒幕は薩摩だーって瓦版でも刷って土佐藩邸の周りに撒いちゃう。」
「ちょっとやめて! そんなことされたら、本気で困っちゃうから!」
「だったらうまくやってよ。大丈夫、二人ならきっとやれるさ。」
村田さんは、ははっ、ははっ、と首を傾げ、乾いた笑いを漏らしながら去っていき、西郷さんはふてくされてその場に寝転んだ。
「ねえ、西郷さん。」
「もう、オイさんの事はほっといてよ! 好きなだけ虐めればいいじゃない! そうやってさ!」
「違うって、別の話。」
「何? まだ何かあるの? もう、オイさん海に身を投げちゃうかも!」
「そういう話じゃないって。気にかかってることがあってね。西郷さんの弟の話。」
「何? 信吾が何かやらかしたの?」
「そっちじゃなくて吉二郎さん。越後でね、出会ったんだよ。五十嵐川のところで。すっごく強くて、やさしくてさ。もう、俺なんかじゃ敵わない。容保さまも再び会うときは手を携えてこの国のために、なんてべた褒めでさ。今どうしてんのかなって。」
そんな話をすると、西郷さんは身を起こし、俺をまじまじと見て、突然、ぶわっと泣き出した。
「そう、そう、吉二郎は新さんに会ってたんだ。」
「どうしたのさ、急に。」
「あいつね、その五十嵐川のあと、死んじゃった。」
「は? まさか戦傷が元で、とか?」
「ううん。違うの。官軍はね、見た目こそ派手にしてるけど、内情はそりゃ苦しいなんてもんじゃなくて。だって、あてにしてた大阪城も江戸城も金蔵は空。官軍に味方した諸藩だってなんだかんだ理由をつけちゃ金を出さない。兵糧も少なくてね。」
「そうだったんだ。」
「それで、吉二郎は自分の分の飯も周りに分けちゃって、自分は山に入って魚やらなんやらを取ってきちゃ食べてたんだって。ほら、オイさんちって貧乏だから。そういうのも得意でさ。それでね、吉二郎が珍しいキノコ採ってきて、それを焼いて食うんだって。みんなは止めたんだよ? それは毒だからって。どうもね、薩摩には生えてないキノコだったみたいでさ。吉二郎は食べてみらにゃわからんって。」
「それで?」
「全部食って泡吹いて倒れちゃって結局そのまま。」
「――そっか、惜しい人を亡くしたね。俺、本気で勝てないって思ったの、あの人と容保さまだけだもの。」
俺は席をたって一郎たちを呼び集めた。
「えっ? なに? みんなして。」
「いいから、西郷さん、さっきの話みんなにも聞かせてやって。みんなあの場で吉二郎さんの雄姿、見届けてるから。」
西郷さんが吉二郎さんの最後を語るとみんな拳をぎゅっと握りしめ、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「あんまりや、あれだけのお人がそんな死に方を!」
「うむ、われらの知る限りにおいて、容保さまと並ぶ最高の武人。世に我らが隊長殿を上回るとすればそのお二方のみ!」
一郎、そして安次郎がそういうと、みんなぐぉぉ、っと声を漏らして泣き始めた。吉二郎さんをしらないトシだけが不思議そうな顔をしていた。
「いや、そのな、容保さまが天下最強ってのはわからねえでもないが。その西郷さんの弟ってのはそんなに?」
「土方、いや、内藤さん。あんたはあの容保さまのゴールドフィンガー、数十発、耐えきれるか?」
「え、無理に決まってんだろ? 下手すりゃ頭に穴が開いちまう。」
「それをなしたのだ、あの御仁は。」
「ってマジか!」
「ほんまの事どすえ。」
「ねえねえ、オイさん、みんなが吉二郎を悼んでくれてすっごく感動してる。けど、その感動に濁ったものが混じってるんだよね。」
「ん? どういうことだ、西郷さん。」
「容保さまって会津候のことだよね? あの人が新さんよりも?」
「ああ、悪いが旦那じゃ相手にならねえ。だろ? 旦那。」
「うん、俺もさ、蝦夷で十尺くらいの熊とも戦った。あれも強かったけど、容保さまの強さはそれ以上だね。多分手も足も出ないよ。」
「十尺の熊? バカじゃないの? もしかしてその頬の傷って。」
「そうそう、あの時は死ぬかと思ったよ。」
「隊長はんはそれでも討ち取ったんどすえ。」
「あ、っそう。もうわかんない世界だもんね。けど、会津候ってそんなにすごいんだ。」
「一蔵さんに聞いてみるといいよ。あの人は良く知ってる。」
「あはは、そうなんだ。」
それから数日かけて横浜に到着した。船を下り、まずは懇意のアメリカ商人を訪ね、抱擁する。奥で通訳の子供が預かっている金を証書にするか? と言ったが、信頼しているので必要ないと伝えてもらう。
「新さん、それじゃオイさんたちはここで。いろいろ忙しいからね。」
「ダメ。村田さんはいいけど、西郷さんには付き合ってもらうよ? 鐘屋の無事を確認しないと。約束したことだしね。」
「えっ?」
「そいは仕方ごわはんな。んじゃ吉之助サァ、オイは先に。いろいろやることがあっで。」
「まって! まって新どん! オイさんを一人にしないで!」
「そいじゃ新さん、また。内藤さんの人別帳、しっかりやっとくから。」
「うん。悪いけどお願いね。」
横浜には馬車が用意されていて、西郷さんと俺はそれに乗る。トシや一郎たちはその後ろを歩いて行った。
「へえ、便利なもんだね。」
「まだ数が少ないし、馬を用意しなきゃいけないからね。今は皇族の方々や、高位の役目にある人たちだけしか使ってない。オイさんはこの体でしょ? 歩くと膝が悪くなっちゃって。前は駕籠に乗ってたんだけど。それにね、近頃じゃ人力車、なんてのもできた見たい。東京って名前も変わったし、中身も大きく変わっていかなきゃね。」
「そっか。なんかすっごく贅沢してる気がするね。」
「そうよ、贅沢なんだから。オイさんは相変わらず貧乏だけど、公用で使えるお金はたくさんあるもの。なんたって総督よ?」
「なるほどね、でも楽しみだな、久しぶりの我が家だし。ま、西郷さんは約束を破ることなんてないだろうけど。」
「……」
「そうだなぁ、もし、建物が壊れてたらその公用金で立派なのを建ててもらうことになるし、万一。」
「あはは、そう、オイさんもそう思ってた。で、万一?」
「律に何かあったら西郷さんにも何かあるね。絶対。」
「あは、あはは。そんなことあるはずないじゃない! オイさんもね、新さんの奥方とは顔見知り。そりゃちょっとは困ったことになったけど奥方ともしっかり話し合って解決してるから。全然問題なんかないよ?」
そういう西郷さんの声は裏返っていた。
横浜から丸一日かけて上野へ。物見高い江戸、いや東京の人々はみんな珍しい馬車と、軍服を脱ぎ捨て、臙脂羽織の姿に装束を改めたうちの連中の姿を眺めに出てきた。
そして日暮れ頃、不忍池の、元鐘屋の前に到着する。なぜ元かと言うとそこは瓦礫に変わっていたからだ。
「新九郎さま!」
隣の真新しい洋館から飛び出てきたのは律。誰よりも会いたかった愛しい妻だ。そう、この匂い、この感触、そして声。夢にまでみた律の姿だ。律が俺に抱き着くと、次々と洋館から隊士たちの妻が現れそれぞれの夫に抱き着いていく。トシの許嫁、お琴もなぜかここにいて、トシに身を寄せる。トシは恥ずかし気に頭を掻くと、お琴を優しく抱き寄せた。そして律の侍女、佐紀も敏郎に親の目もはばからずに飛び込んでいく。
その様子を西郷さんは目に涙をためてみていたし、一郎は一人拳を握りしめ、天を仰いだ。すでに季節は夏。六月に入っていた。