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明治二年(1869年)五月十八日。
この日の昼、函館政府の本営、五稜郭は開城した。榎本の夢、そしてそれに乗っかったトシの夢はここに潰えた。
「んで、渋沢さんはどうすんのさ?」
「……困っちゃうな。」
湯の川に到着した俺はそこで渋沢さんと再会した。
「そりゃ困っちゃうだろうけどさ、あんたは政府の閣僚に名を連ねてる。それに彰義隊でも頭取だったんだろ? 官軍はきっと草の根分けてでもあんたを探すさ。」
「ですよねー。」
「それにさ、あんたは元々評判が悪い上に千代ヶ岱陣屋からもずらかってる。函館政府の連中だってあんたを探すのには協力するさ。なんせ、中島親子は最後まで戦って見事な死にざまを見せたんだし。」
「だって、あの人おかしいんですよ! 官軍からは降伏、本営からも撤退命令が出てるのに幕臣の名誉を背負って死ぬんだって。そんなの付き合いきれないですよ! それがしはね、ああいう死ぬことがカッコいいとか思ってる人大嫌いなの!」
「まあ、それはわかるけどさ。官軍の捜索にあって、とばっちり食らったら嫌だし、とっとと出頭したら?」
「あーっ! あーっ! そういうこと言うんですか? 松坂さん!」
「だってそうじゃん! あんた、完全に詰んでるからね! お前はもう、死んでいる、って状況だから! それにさ、」
「それに?」
「あんたの従弟だかなんだかもいるんでしょ? 官軍に。きっと口添えしてくれるって。」
「それがですね、栄一は潔く討ち死にしろって。」
「あちゃー、あんたねえ、それじゃ望みないじゃん! ここで腹斬るか捕まって斬首になるか決めた方がいいね。俺のおすすめは斬首。痛いって思う前に死ねそうじゃん?」
「ちょっと待ってくださいよ! そんな究極の選択、できるわけないでしょ! あ、あれだ、松坂さんはそれがしが死ねば、三千両払わなくていいと思ってるんでしょ?」
「あ、それもあったね。それに為替も持ってるんでしょ? うん、ここで腹斬ろうか。介錯は俺が。後のことは心配ないよ。」
「もう、そんなの嫌なんです! もっとこう、明るい未来が欲しいの!」
「そういわれても。けどさ、そもそもなんで渋沢さんはここにいるのさ。彰義隊って、あれでしょ? 上野で派手に散ったって聞いたけど? 頭取のあんたが逃げ延びるって、おかしいよね?」
「それは、その、聞いてくださいよ! 天野のやつが!」
「あ、そういえばあいつが副頭取なんだっけ? あのカエル顔の。」
「そう、あのカエル野郎と喧嘩して、それで、上野戦争には出てなくて。」
元々渋沢さんは前に聞いたように深谷の豪農の出。その名を喜作と言ったらしい。幼いころはまさに神童。独学で大人顔負けの学問を修めたと言う。二歳下の栄一と共に、親に連れられあちこち藍玉を売り歩いたりして見聞を広めていた。
そんなある日、水戸まで商用に出た折に、当時の水戸藩主、徳川斉昭の鷹狩を兼ねた模擬戦を目にする。その様子に心を打たれた渋沢さんは栄一と共に水戸学を学び、尊攘の志士となる。
江戸に上がり、様々な塾に学ぶ。文久の頃は千葉周作先生の後を継いだ栄次郎の門下として、玄武館にも出入りしていたようだ。当時は尊攘イコール一橋派でもある。一時は上州の高崎城乗っ取りの計画まで立て、手勢を集めていたらしい。ところが八・一八の政変があり、尊攘派は没落、役人にも目をつけられて郷里を離れ、江戸に。一橋の家臣にかくまわれ京に上り、その家臣の仲介で一橋家に仕官する。
「え、尊攘の志士なのに一橋の家来になったの? ダメじゃん。」
「仕方なかったんですよ! 仲間が人を斬っちゃって、それがしたちにも捜索の手が。」
その、一橋に仕官したときに成一郎と名を改めたそうだ。その時、慶喜公に拝謁して、こう言ったという。「幕府は無理が祟っています。ならばいったん幕府をつぶす事こそ、却って幕府の中興となりましょう。」と。
その大胆な意見が気に入られたのか、渋沢さんたちは目をかけられ、次々と出世。なにせ元が神童だ。きっかけさえ掴めば結果を出す事など容易だった。そして前将軍であった家茂公が身まかられると、渋沢さんは強硬に慶喜公が将軍になることに反対した。
しかし慶喜公は十五代将軍となり、渋沢さんもそれに伴い幕臣となった。従弟の栄一はその慶喜公の弟、昭武さまが、将軍名代としてパリの万博に赴くと、その随員として洋行。
人と言うのは立場が変われば考えも変わるものだが、この二人はそうではなかったらしい。あくまでも幕府はつぶすべき。かといって慶喜公にも恩がある。二人は亡国の臣となる覚悟を決め、場所こそ異なるが互いに見苦しい最後を遂げぬようにしよう、と誓い合った。
「今、かんっぜんに見苦しいよね? そりゃ、その栄一って人も死ねばいいじゃんって書き送ってくるよ!」
「ちがうんですって! ここから、ここからがカッコいいところ! 栄一はそれを知らないからあんなこと言っただけですから。」
そう言って渋沢さんは続きを語りだす。俺はシガーに火をつけ、渋沢さんと共に脱走した小彰義隊のメンバーが出してくれたお茶を啜った。
渋沢さんたちは幕臣となったものの、その地位は御家人。栄一は納得がいかないと憤慨していたが、渋沢さんは与えられた役目を着々とこなし、あっという間に出世し、奥右筆格、つまり慶喜公の側仕えとなった。
そして大政奉還、これにも強く反対し、主戦論を展開した。だが、その意見は聞き入れられず、京を退き、大阪城へ。俺たちと一緒だったって訳だ。そして鳥羽伏見、これには軍目付として渋沢さんも参戦。負傷し、大阪城に戻るとすでに慶喜公は江戸に。つまり、渋沢さんも俺たちと同じく将軍、慶喜公に捨てられた身、と言う事だ。
しかし、渋沢さんは幕臣となれども尊攘の志士。慶喜公の恭順を見て、その尊王の志の厚さに感服したという。そしてそんな慶喜公を「朝敵」とした薩長、新政府に憤りを覚えた。
そして慶喜公は寛永寺に入り、自主的に謹慎。これに憤慨した一橋の家臣たちや幕臣の一部が薩長を討って、主君の冤罪を晴らさん、と檄文を放った。
渋沢さんは様子見をしていたが、参加者が百を超えたころ、満を持して登場する。集まった幕臣たちの議論が紛糾する中、ここぞとばかりに言い放つ。「集まった以上はみな、生死を共に、そして進むべき方向を一つに定めるべし、その方向はみなの衆議をもって決めるべし。」と。
「生死、共にしてないよね? それどころか方向も違うからね。」
そう、今の彰義隊は音楽性の違いとかで解散しちゃったバンドみたい。ヴォーカルの渋沢さんだけギャラがいいから許せない、とかそんな感じだもん。
「まあ、結果としてはそうですけど。あの頃はこう、熱いものがあったんですよ。」
ともかくそうした形で彰義隊は結成され、渋沢さんは頭取、天野が副頭取となる。
「で、なんで喧嘩したのさ? 寛永寺であった時には仲良さそうだったじゃん?」
「それは天野があまりにも愚かで。」
渋沢さんは主君である慶喜公を守るため、天野は徳川家そのものを守るために彰義隊に参加した。この違いは最初こそ些細なものだったが徐々に大きな亀裂となっていく。
江戸城が明け渡され、慶喜公が水戸に引くと、渋沢さんにとって上野にとどまる理由は何一つなくなった。それで、俺たちに合流するため日光に、そう宣言して、江戸の商人から軍資金を募った。それが天野には許せないことに感じたのだという。
「それがしはね、上野にいれば官軍の目を引くし、いざ戦う、となれば江戸の民にも戦火が及ぶ。それに此度の事はあくまでも武士の争い、そう天野にも言ったんですけどね。」
ところが天野は上野を動きたがらない。なにせ天野自身をはじめ、集めた幕臣、それに江戸の民は自宅から毎日通ってきているのだ。日光なんかに行けば家に帰れない。どうせ戦うならここで、という訳だ。
「ね? 意味が分からないでしょ? 戦争しようって連中が家を離れるのは嫌だ、とか。これ以上は話にならない、そう思って私は彰義隊を離れたんです。」
「まあ、ね。よくわかんないけど武士の意地、江戸っ子の意地を、戦う姿を江戸の人に見てもらいたかったんじゃない? でもそこで普通はあきらめるよね? なんでわざわざ函館まで?」
渋沢さんは懐から薄汚れた包みを取り出し、それを開くと中にあった短冊に記された句を読み上げる。
「負けて退く、人を弱しと思ふなよ。智慧のちからの強きゆへなり。」
「なにそれ。」
「慶喜公に賜った句です。この句には慶喜公の再起を望む心が、そして小栗さまからも、この国は割れて割拠することになるだろうとのお言葉が。」
小栗とは海舟のライバルとも言っていい幕府の高官で、主戦論を展開し、慶喜公に罷免された有能な幕臣だ。海舟がアメリカに渡った時も使節の一人を務めていた。
「それがしの尊攘の志は今も。しかし、主君慶喜公を今一度世に。この句と小栗さまのお言葉がそれがしを奮い立たせました。まだあきらめるのは早いと。」
渋沢さんはその後、世田谷で新たに同志を募り、振武軍を結成。彰義隊が戦うその時は官軍に横やりを入れるつもりで田無に移動した。しかし彰義隊はその前日の昼に敗走、との報を聞き、敗残兵を吸収して北上、飯能と言うところで陣を敷く。そこで官軍に敗れ、上州の伊香保まで落ち延び、その後江戸に出て、榎本の艦隊に乗り込んだ、という訳だ。そこには彰義隊の残党もいて、再び彰義隊を結成。その頭に返り咲く。しかし天野は上野で討ち死にしたものの、残党たちは天野派。最初からごたごた含み。渋沢さんが連れていた振武軍の生き残りもいたが、数が少ないのだ。その連中は今も小彰義隊として渋沢さんと行動を共にしている。
「で、松前の金を奪ったときに決裂、現在に至る、と。」
「そういう事ですよ。」
「けどさ、おっかしいよね。尊攘の志士だったはずの渋沢さんがこうして幕府残党最後の生き残り、函館政府の一員で、その中でも最後までこうして生きてる。」
「ですね。生き恥、そう思わなくもありません。人は私を良くは言わないでしょう。けれど私は主君のために戦ってきた。」
「うん、そうだね。俺は嫌いじゃないよ、あんたの事。金がなきゃ何もできないのは道理だし、武士の意地だのなんだの言う前にまず主君の事、俺にとっても慶喜公は主君であるけれど、あの人はどうも好きじゃない。けど、あんたは立派なもんさ。そこらの頭でっかちと違ってちゃんとその手に刀を、そして銃を持って戦い抜いた。トシもあんたも武士の生まれじゃないけれど、そこらの武士よりはるかに武士として生きてる。」
「松坂さん、私は武士と言うものが嫌いでした。物の道理よりも武士の意地、武士の理屈を優先させてこの国を誤る連中だと。」
「そうかもね。けどね、武士ってのは戦うことが本分だ。その為に三百年も禄をもらってきた。そして戦うとなればただそれだけでいい。あんたの言うつまんない意地と矜持。それだけを抱えて刀を抜くんだ。余計なことは考える必要すらない。そういうことは勝った後でいい。難しいことを考え、決めて、責任を取るのは幕閣や大名方の務めさ。」
「確かに、確かにそうかもしれませんね。所詮それがしは農家の生まれ、本物の武士にはなれなかったのかもしれません。」
「いいや、あんたは立派な武士だ。誰が認めなくても俺が認める。」
「松坂さん。」
そう言って渋沢さんは泣き崩れた。
「でもさ、渋沢さん。俺は江戸を出る前に慶喜公に謁見したんだけど。」
「ええ、勝さんと一緒に。存じてますよ。」
「誰にも言うな、と言われたけど、慶喜公は武士と言うものがなくなるって。朝廷が、帝が武家政権たる幕府を認めない、そういわれた。だから武士はきれいに身を引くべきだって。朝廷に抗っては、武士と言うものが謀反人の代わり言葉になる。だから恭順を。自分はすべての武士の名誉を守った。あの人はそう言ってた。」
「なるほど。」
「あのときはさ、何言ってんの? って全然理解できなかった。けどね、今は少しだけわかる気がする。武士と言うものはいなくなり、戦うものを指す言葉は軍人となる。そして軍人は職業さ。商人や農家と同じ。あんたも見てきたように官軍の兵は民。剣も使えなきゃ矜持も名誉も関係ない。それでも銃が、大砲がありゃ人は殺せるし、戦争もできるんだ。」
「そう、ですね。それがしは、いや、私はかつてそんな世を。過去の手柄に縋り特権を享受する武士はいらぬと。」
「あはは、だとしたら望みがかなったってわけだ。慶喜公は将軍、武士の代表だった。あの人が世に出ちゃ新しい世は進まない。武士が最後に戦った、それがあの五稜郭。意固地な武士はそこで潰えましたとさ、めでたしめでたし、ってわけだね。」
「……かも、しれませんね。わかりました。私も出頭します。そしてもし、再び世に出れたなら、武士、渋沢成一郎ではなく、民として、渋沢喜作として新たな人生を。松坂さん、これを。」
そう言って渋沢さんは為替証書を俺に差し出した。
「私はね、もし世に戻れたならば商いをして生きていきたいんです。その証書はその種銭。官軍に召し上げられては元も子もありませんからね。あなたに預けておきます。」
「ま、次に会うことがあればちゃんと返すさ。俺は武士だからね。約束を違えない。」
「ええ、信じておりますとも。」
「うん、任せといて。」
そう言って証書を受け取ろうとしたが渋沢さんは手を離さない。
「信じて、信じております。」
「うん、大丈夫だよ。」
「本当に、信じてますから。使ったら許しませんからね!」
「もういいから手を離せよ! これは、俺が預かるの!」
「ほんと、ほんとですよ?」
ようやく手を離した渋沢さん。その証書を素早く着ているコートにしまい込む。渋沢さんはああっ、と手を伸ばした。
そのあともなんやかんやごねていた渋沢さんは六月に入った十八日、官軍に投降した。五稜郭開城から一か月が経っていた。