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明治二年(1862年)四月十四日
二股口で、ともかくも官軍を追い払ったトシは後を今井さんと大川さんに任せ、俺を連れて五稜郭へと帰還する。荷を運ばせた馬に跨り山道を進んでいった。とはいえ俺もトシも馬乗りの身分ではなかったので馬術なんかはろくにできない。せいぜい並足で歩かせるのが関の山。それでも歩いて行くよりはるかに速いし、何より楽だ。
「んで、何しに戻るの?」
「ああ、戦勝の報告だ。よそがどうなってるのかも知りたいし、援軍だって出してもらわなきゃじり貧だろ?」
「なるほど、で、なんで俺まで?」
「旦那をほっぽらかしちゃなにすっかわかんねえからな。官軍に奇襲でもされて大攻勢を招いちゃあそこは終いさ。」
ひどい言われようだ。ま、確かに暇つぶしにそれくらいはするかもだけど。
「今回の相手は長州だった。あそこに薩摩が加わりゃいくさだってきつくなる。それに大鳥さんたちが負けでもすりゃあ、あそこを守ったところで意味はねえ。だろ?」
「まあね。けど大鳥さんはなんだかんだで頼りになるさ。」
「だな、さすがは洋式調練を受けただけの事はある。それに副総裁、松平の太郎さんもいるからな。榎本さんが陸戦の素人でも問題ねえさ。」
トシはそういうが、問題は大有りだ。いっくらトシが、そして大鳥さんが強かろうが数にはかなわない。俺はそれを五十嵐川で身をもって知っている。五稜郭にこもったところで食い物がなくなりゃそこまでだ。どこからも援軍なんぞはくるはずもない。逃げるにしてもここは蝦夷。奥に逃げたところでそこは人が住んでいるかもわからない未開の地。将棋でいえば詰み。素人の俺でもわかる。いや、江戸を出た時点で詰んでいたのだ。
なんたって西郷さんたちはともかく、人を負けさせることに関しては天下一の、あの海舟が手を打っているのだから。絶対優位の長州征伐の幕府をを負けに追い込んだ海舟の手腕は伊達ではないのだ。
五稜郭についたのはその日の夜。トシはさっそく政庁に報告に行き、俺が自分の宿舎に帰った。
「松坂! 助けてくれ!」
帰るなりこれである。そこには髷を結った羽織袴姿の武士に連れられた板倉さまがいた。
「大殿! わがままもいい加減になされよ!」
「いーやーじゃっ! わしを捨てた藩などの言うことなんか聞かないんだからっ!」
「えっと、何? とりあえずそいつを斬ればいいの?」
「えっ?」
「えっと、もうちょっと穏便なのがええの。」
「んじゃデコピン?」
「それもちょっと。」
「……その、松坂殿であられますか?」
「うん。」
「それがしは備中松山藩のもので、その、大殿を。」
「あのね、ひどいんだよ! わしを捨てたくせにここにいると藩の存続が危ういから帰れって! 勝手な言い分だの!」
「仕方なかったんですよ! ようやく岡山藩の支配を脱し、存続が許されたのに、官軍の連中がまた、なんやかんやと言いがかりを! 討伐、なんてことになればせっかく戦火から守った領民だって! 鳥羽伏見で戦った熊田殿もその為にお腹を召されたのですぞ!」
「そ、それは!」
「それに、大殿が取り立てられた山田方谷先生も、しばし異国で外遊を。そう仰っておりますし、ほとぼりの冷めるまでの辛抱にござります。」
「……わかった。わしはお主と共に参ろう。じゃが、しばしの間、松坂と話がしたい。お主は席をはずしてはくれぬか?」
「ええ、松坂殿、大殿の身をお守りいただき深い感謝を。いずれこの礼はしかと!」
藩士が去ると、板倉さまはふぅ、と息をつき、コーヒーを立ててくれた。砂糖をたっぷり入れてそれをすすると板倉さまが口を開いた。
「なーにが外遊じゃ! そんな金があるはずもあるまいて。方谷の奴め、わしを官軍に出頭させる腹積もりだろうて!」
「そうなの? その方谷って人、板倉さまが取り立ててやったんでしょ?」
「まあの、藩政に関しては奴に一任しておった。あ奴にはそれだけの才も器量もあったからの。」
「だったらそんなひどいことしないんじゃない? 官軍に突き出すなんて。」
「あ奴もな、所詮はお主の言うところの頭でっかち。すべて藩政のため、それ以外の事に配慮を欠く。道理、合理、世はそれだけでは回らんというに。」
「どういうこと?」
「わしはな、白河の出。寛政の改革をなした松平定信の孫にあたり、その定信さまは八代将軍吉宗公の孫じゃ。幕府に尽くすは当然、幕府とて成りての少ない幕閣には将軍家に縁の深いわしを、となるわけじゃ。」
「ま、板倉さまは最後の老中首座ですもんね。」
「じゃが、幕閣ともなれば物入り。じゃがわしの藩はわずかに五万石、しかも碌な産物もなく、困窮していた。だからこそ治政に優れた方谷を召しだした訳じゃな。ところが方谷はわしの幕閣入りに強硬に反対。それができる状況ではない、とな。そんなことは言われんでもわかっとる。
しかし、わしが幕閣入りせねば定信さまの威厳を損なおう? お主が男谷の男として譲れぬものがあるように、わしにも松平の意地があるのじゃ。」
「なるほど、そうですよね。」
「しかし、わしは板倉家の婿として迎えられた身。板倉の家にはわしの松平としての矜持は関係ない、ただ、わしの出自の良さが欲しかった。そういうことじゃな。」
「そして邪魔になったら強制的に隠居、ま、ひどい話だね。」
「そういうこと。方谷の目的は藩政の立て直し。そのためにはわしが、わしの抱える松平の矜持が邪魔、というわけじゃ。まして松山藩は王政復古で二万石に厳封された。わしを異国で遊ばせる余裕などなかろうよ。あ奴はそういう予定だったけど財政的に無理だった。そんな理屈でわしを突き出すに決まってる。」
「でもさ、板倉さまだって結構稼いだでしょ? それを使えば財政だって。」
「あ・れ・は、わしの金じゃ! わしを捨てた藩のためなんぞに一文たりとも使ってやらん! そこでじゃ、松坂。お主に頼みがある。」
「なんです?」
「このわしの為替証書、これをお主に預ける。わしはどうなろうと絶対に生き残って見せるつもりじゃ。自由の身になるまでこれを預け置く。」
「へえ、って二万五千両? すっごいじゃん!」
「お主も同じだけもっとるはずじゃ。」
「俺の分は横浜のアメリカ商人に全部送ってるから。金額なんて知らなかった。」
「為替にせずに?」
「うん、仕組みがよくわからないし、あそことは長い付き合いだから。ま、騙されたら斬ればいいしね。」
「ははっ、なるほどの。ともかくこれはお主に預ける。それとの、ここからが大事なところじゃ。」
そう言って板倉さまはコーヒーをずずっと啜った。
「――ほどなくここは降伏、そういう運びとなろう。榎本は腹を切る真似くらいはするかもしれんの。」
「まあ、そうだろうね。」
「そこでじゃ、わしは先日世話になった亜米利加商人といろいろ策を講じた。あそこには通訳もおるからの。」
「へえ、で、どんな?」
「最終決戦、ともなれば函館政府は金に糸目をつけずに物資の調達を行う。」
「まあ、そうでしょうね。」
「武器、弾薬、それに食料、そうしたものの値を、通常の三倍で売れ、と。カズヌーヴも巻き込んであ奴に仏蘭西商人に同じことを言わせた。エゲレス商人は前回のあれで、いいなりじゃったし、阿蘭陀や露西亜の商人は締め出した。そしてその儲けの半分はわしらに、という訳じゃな。
これはわしとお主、それにカズヌーヴの三者で分けねば。お主の名がなければ商人どもは言うことを聞かんし、カズヌーヴとてこんな異国で負けいくさに付き合わされたのじゃ。多少のうまみがなければわしらに、この国に対して否定的にもなろう? これも国際親善、そういう訳じゃ。」
「ははっ、さすがに元ご老中は違うね。」
「もはや函館政府はすっからかん。儲けは減るが、渋沢のように悪名をこうむる必要もない。減ったとはいえ一人頭二万やそこらはあろうよ。ここが落ちて、どさくさに紛れて金を奪った、などと言われては生きづらくなろうからの。」
「そうだね、事においては正面から堂々と。こそこそするのは性に合わない。」
「そうじゃな、わしらはなくなったとはいえ幕臣。将軍家直参じゃからの。武士の矜持は捨てられん。うひょひょひょひょ。」
「ですよねー。」
「そういうことで、その分の分け前もしかとな。ま、お主は死ぬことはなかろうが。」
「板倉さまも頑張らないと。」
「うむ、任せておけ。」
最後に俺と板倉さまは固く抱き合い、再会を誓う。その板倉さまは藩士と共に、プロイセンの船で函館を去っていった。
「あれっ? 板倉さまはどこいった?」
夕方、疲れの色が濃く顔に浮き出たトシがやってくる。
「ああ、藩士の人が迎えに来て連れて行かれたよ。今頃は海の上さ。」
「そっか、ま、藩の立場からすりゃ当然だな。元藩主が朝敵の俺たちの中にいちゃうまくねえだろうよ。桑名の定敬さまも上海に逃れた。旦那にはくれぐれもよろしく、とのことだ。それに、唐津の小笠原さま。これもここを出ちまった。なんでもここらの女と良い仲になっちまったんだとさ。」
「ま、それでいいさ。定敬さまもその小笠原さまもとっ捕まっちゃ残った藩の連中が困るんだ。立見さんたちだってそれを聞けばほっとするはず。下手に斬首、なんてことになりゃ、あの人たちは生きられない。」
「だろうな。そこまで思ってくれる家臣を得た定敬さまも、そこまで思える主君に恵まれた立見さんたちも幸せもんだ。」
「そうだね、そして俺たちは幕臣ではあれど、主君はあの慶喜なんかじゃない。俺たちにとっては容保さまさ。そうだろ?」
「まあな、俺は慶喜公にお目見えしたこともねえし、容保さまには返しきれねえ恩もある。もっともあのデコピンはもう勘弁だがな。ははっ。」
「そうだ。だから俺たちが誰かのために死ぬ、とすればそれは容保さまの為。決して榎本じゃない。それまでは死ぬことなんか許されないさ。」
「ははっ、旦那は相変わらず厳しいや。この状況で死ぬことは許さねえってか?」
「当然さ、そういう主従を別としても俺には律が、お前にはおたまじゃくしがいる。妻の元に戻る。これは絶対だ。それができなきゃ俺たちはあの龍馬と同じ、天下国家に血道をあげて自分の女との約束も守れなかったあいつとね。」
「――そうかもな。って、おたまじゃくしっていうんじゃねえよ! あいつはもう俺の妻、お琴って名前があんだからよ!」
「よく言うぜ、散々逃げ回ってたくせによ。」
「とにかくだ、あいつを悪く言うやつは旦那であろうが許さねえからな! 夫としちゃ当然だろ?」
そう言ってトシは、はははっと笑った。
そのトシからの報告では松前も木古内も今のところ健在。木古内に至っては大鳥さんの伝習隊、それに額兵隊、彰義隊が迫りくる官軍を景気よく蹴散らしたらしい。
だが、松前にしろ、木古内にしろ、海沿いだ。陸の敵だけでなく船からの艦砲射撃にも対せねばならない。勝てるか、ではなく、どこまで粘れるか、そんな話だ。それが抜かれりゃ函館湾の対岸、矢不来で陣を敷く。そこも落ちればいよいよ五稜郭ってわけだ。だがそれも俺たちが二股口を抑えていればの話。 こっちが抜かれりゃ矢不来で頑張っても意味はない。そしてその矢不来が抜かれりゃ俺たちは退路を失う。そうなりゃ俺たちも撤退だ。あとはいつ降伏するかって話になる訳だ。
その翌日、俺たちは五稜郭を出て、二股口に帰還した。