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熊打ちの翌日、俺は函館病院で頬に負った傷の手当てを受けていた。
「あんたねえ、熊と戦うとか馬鹿じゃないの?」
ここの院長はフランス留学から戻った医者の高松凌雲。今井さんの上官に当たる衝鋒隊の古屋佐久左衛門の弟でもある。そして慶喜公により、奥詰めの医師に抜擢された英才でもあった。
「あー、ちょっと痛いんだけど?」
「痛くしてんのよ。この忙しいのに余計な手間増やして! 一郎ちゃん! このバカにちゃんと薬を塗らせといて!」
「僕がちゃんと養生させときます。」
「ほんっとバカってのはどうしようもないわね! みんな戦争してんのに熊と戦ってどうすんのよ?」
一郎はそこで席を外し、看護婦に連れられて薬を取りに行った。治療が済むと凌雲先生は女ものの割烹着の袖をまくって手を洗った。
「えっと、一郎とは知り合い?」
「えっ? ああ、一郎ちゃんは悩みがあって、よく相談にきてたの。」
「悩み?」
そう問い返すと手慣れた感じで紅茶を淹れ、俺に可愛らしいカップを差し出す。
「ほら、あの子って童貞じゃない? みんなにバカにされるし、こう、カリカリするんでどうにかならないかって。そういうのを何とかしてあげるのも医師の務め。そう思って手伝おうか? って言ってあげたのよ。」
手伝うって何を? もちろん目の前にいる凌雲先生は男である。年も俺といくつも変わらないだろう。
「ふふっ、そしたらあの子、遠慮しときますぅって。やーねぇ、照れなくてもいいのに。ま、そこが可愛いんだけどね。で、それ以来暇なときはちょくちょく遊びに来るのよ。うちの看護の女の子には思いっきり振られてたけど。」
「ははっ、そうなんだ。」
この場に長居してはいけない、そう思った俺は紅茶を素早く飲み干して函館病院を後にする。「ちゃんと薬塗るのよー!」っと叫ぶ凌雲先生には適当に手を振って答えておいた。
フランス帰りの凄腕の医師で敵味方問わず怪我人や病人ならば治療を施す。そして榎本にも病院の方針には口を挟ませない。そんな医師の鏡ともいえる人物だがホモだった。
さて、それはそうと数日たった二十六日、トシたちが函館に帰港。甲鉄強奪は失敗。回天の艦長、甲賀源吾をはじめとした二十名を失った。
「あーあ、また負けたの?」
トシに向かってそう言ってやると、平然と「まあな。」と答える。
「どしたの? 負けすぎてどこかおかしくなった?」
いつもなら何のかんのと喚くところだが今日のトシは反応が悪い。
「旦那、さすがにここもお終いだな。じきに官軍がここに来る。海戦じゃ勝ちを拾えねえ。かといって陸戦するにも数が違うさ。」
「んなことはじめっからわかってたじゃん。何をいまさら。俺たちは意地を通すためここまで来た。下手に勝っちゃこの国が困る。そうだろ?」
「まあな、けどな、旦那。俺は榎本さんの夢、蝦夷共和国、そんなもんができりゃいい、そう思っちまった。意地だけじゃなくてやってきたことに結果がほしくなっちまったんだ。」
「夢? なにそれ。」
「あんた、聞いてなかったの? 榎本さんは何回も演説ぶったじゃねえか! この蝦夷を行き場のなくなった幕臣、武士の国にって!」
「へえ、そうなんだ。ま、何でもいいけどさ、トシ、それは望みすぎ、贅沢だろ?」
「はぁ? なんで? 幕臣連中はこの先食いっぱぐれることは間違いねえ。下手すりゃ各藩の藩士たちもだ。そういう連中を集めてここで、おかしな話じゃねえだろ?」
「理屈はね。けど榎本はしょせん頭でっかちの海軍野郎さ。いいか、トシ、俺たちはここにきてもう半年以上になる。江戸も開城、幕臣なんてのはすでに食いっぱぐれてるはずさ。なのに誰もここには渡ってこない。」
「そ、そりゃあ、連中がまだここを知らねえだけだ。けど俺たちが頑張ってる! 官軍相手に勝ちを重ねりゃ江戸にだって伝わるはずだろ?」
「あのさ、俺たちは宇都宮でも松前でも勝ってきた。そんな話を噂好きの江戸の連中が知らないとでも?」
「けど、そう、そうだ、連中はまだ日和見してる。俺たちを水物だと。だから官軍相手にでけえ勝ちでも拾えりゃ奴らだって!」
「そうじゃねえんだよ、トシ。お前は大事な事を忘れてる。」
「なんだそりゃ?」
「鳥羽伏見、あの時淀城は俺たちを受け入れなかった。なんでだ?」
「そりゃあ、錦の御旗がって、あっ!」
「そう、俺たちはね朝敵なんだよ。この国の開闢以来一番偉いってされてる帝の敵。食えなかろうが何だろうがそんなものになりてえって奴はいないの。」
「け、けどそれじゃ、俺たちは何のために!」
「だから言ってんだろ? 意地の為、気に入らねえ連中を叩き斬る為さ。榎本の言いたいことはわかる。けどそれをやるならあくまで日本って国の中でやらなきゃならなかった。帝から離れて新しい国をおっ建てようなんてのがそもそも無理なんだよ。」
「旦那、それじゃあんたは何のために?」
「俺? 俺はね、前にも言った通り大名たる容保さまを斬首する。そう言い放った官軍の驕りが許せなかった。男谷の男として許せないものを許す必要はない。そう親父殿にも言われてる。恩を返すべき幕府はなくなっちまったけど、そっちを折っちゃ俺は男谷の男を名乗れない。だから最後まで戦うし、榎本が降伏しようがどうしようが俺は官軍には頭を下げない。そしてもし、容保さまやはじめちゃんが斬首、なんてことになってれば。」
「そんときはどうすんだ?」
「西郷さんにも一蔵さんにも死んでもらうさ。それができそうになきゃ異人斬り。いずれにしても新政府にはその責を取ってもらう。」
「ははっ、たいしたもんだよ、男谷の先生は。旦那に剣の腕だけじゃなくしっかりとした考えまで仕込んでやがる。そいつが正しいかどうかは別として、男としちゃ眩しいぐらいに羨ましいさ。
旦那、俺はね、この身の血を燃やしてえ、それだけを考えて生きてきた。だがな、それだけじゃ寂しくも感じんだ。だから大義に正義、そんなものが欲しくなる。俺が腹斬らせた山南、それに官軍に突き出した近藤さん。この手で斬った芹沢、そんな連中に顔向けできるだけの何かをしなけりゃってな。」
「ま、お前はいい奴だからね。」
「旦那はそういうこと思ったことねえの?」
「無いね。鐘屋で新徴組の奴を斬って以来、ここまで少なくとも百人は斬ってきた。そのすべてが勝負だと思ってる。こうして生き残るためには奴らを斬らなきゃならなかった。ただそれだけ。俺はね、トシ、こないだ熊と戦った。」
「ああ、一郎さんから聞いた。すげえでけえ熊だったって。その頬の傷、熊にやられたんだろ?」
「そう、すっごく強くて。あの熊だって俺たちと戦いたかったわけじゃない。けど俺たちは熊を狩りたかった。ま、鉄砲撃ちかけられちゃ熊だって戦うしかなかったってことだね。」
「んで、俺たちは今、その熊と一緒。官軍は俺たちをつぶしてえ。だから俺らは戦うしかねえ。」
「そ、問題はあの熊ほど強く在れるかって事さ。」
「ま、旦那は強いから大丈夫だろ。けどよ、その熊だって結局はやられちまったんだろ?」
「……」
「……」
「訂正。そういう話じゃないね。そう、これは畏れ、畏れの問題。」
「畏れ?」
「アイヌでは熊ってのは神の一つ。なんとかカムイって言って、神様が熊の肉と皮を恵んでくれてる。鹿やらウサギやらの他の動物とは違うんだ。だからほかの肉とは一緒に料理しない。つまりだ、敬意をもって熊を食ってる。ま、あれだけ強けりゃ畏れの一つも抱こうってもんさ。」
「だろうな。田んぼだっておんなじさ。稲ってのは手間がかかるし嵐に合えば倒れちまう。病気もあるし夏が寒けりゃたちまち不作さ。だから飯を残しちゃ叱られる。天地の恵み、人の手間、そういうものに感謝、畏れをもって飯を食えってな。」
「そう、そういうことだよ!だから俺たちは熊のように強く、稲のように官軍の手をかけさせてやらなきゃいけない。そうすりゃ新政府の連中だって俺たち幕臣に畏れと敬意を抱こうってもんさ。」
「んで、美味しく食われちまうってか?」
「……」
「……」
「……ちょっとトシ?」
「ん?」
「俺がせっかくいい話でお前を元気づけてやろうってしてんのに、なーんでそういうひっくり返すような事言うかな?」
「え? そうだったんか? 俺はまたてっきり熊打ちの自慢話かと。」
「ほんっとお前は感受性ってのがないね! だから負けて帰ってくんだよ!」
「はぁ? 俺が言った榎本さんの話のがよっぽどいい話じゃねーか!」
「あんな頭でっかちの言うことなんかと一緒にしないでくれる? 俺の話は行動が伴った教訓だからね。榎本のは妄想! そんな事もわからねえからお前は弱っちいんだよ!」
「よ、弱くねーし! 今回だってな、嵐にあってなきゃすんなりいけたんだよ! 何も知らねえくせに偉そうに言うな!」
「ははっ、嵐にあったのもお前っていう疫病神が乗ってたからじゃねえの? 弱いうえにツキまでねえとはね。」
「かっちーんときちまった! おう、表出ろ!」
「いいけど? 泣いたって許してやらないからね。殴られんのがやならデコピンの勝負でもいいぜ?」
その日、トシは俺の雷光の構えからのデコピンをくらい、気絶した。ふふ、会津指弾翔鶴流は無敵だ!
明治二年(1869年)四月九日、ついに官軍が蝦夷に上陸する。それを防ぐため榎本は各地に兵を置いていたが、官軍は江差北方の乙部まで船を回し、そこで上陸。江差の守備隊もどうにもできず、上陸を許すことになる。官軍は三手に別れ、南の松前城攻略を目指し、松前口を進むものと、五稜郭への最短ルートである北方の二股口を目指すもの、そしてその中間にあたる木古内口を進んでいく。そして我らが陸軍奉行、土方歳三は二股口の防衛を任された。
「ってことで俺たちゃ二股口を守る。旦那のとこ、それに衝鋒隊は今井さんの隊。伝習隊は大川さんのとこ。どいつもこいつも腐れ縁だ。それに殺してもくたばりそうにねえ奴ばかり。いいか? 負けるのなんかはいつだってできる。なんせ俺たちゃ負けなれてるからな。
――だが、それまでは勝って官軍の奴らに俺たちの強さってのを知ってもらう。そんで目いっぱい手をかけさせてやるのさ。そうすりゃ奴らも俺たちに畏れと敬意の一つでも抱くってもんだ。数が多けりゃその分余計に討ちとりゃいいだけだ。いいな? 俺たちは勝つ! 」
「「応!」」
トシは俺がしてやったいい話を丸パクリした演説を行った。