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 新たな年を迎え、俺が塾頭じゅくとうとなった五月塾では今年から英語を取り入れた。アメリカ、それにイギリスと、英語を話す異国人がこれからは増えるであろう。そう予想しての事だ。


 ちなみに俺は英語は得意ではない。多分。なにせ英語の書物を見せられた時点で強烈な眠気に襲われたのだ。しかし、それでもオランダ語よりははるかにマシ。アルファベットもわかるし、簡単な単語や文法も理解できた。当然洋書は高いので、先生が持つ一冊しかない。先生はそれを何行か人数分書き写し、文法などを説明する。


 そんな事を数日繰り返すうちに、先生は塾頭である俺にハードルの高い難題をやらせた。


「新九郎、お前も塾頭である以上、当然帰ってからも勉学に励みおるのだろう? ここ数日教えた文法を元に、英文を作ってみろ。」


 全然復習とかしてないですし、そもそも帰ってから書見すらしたことがない。俺の離れには本などと言うものは一冊もないし、先生が書き写してくれたものはちり紙代わりに使ってる。周りのみんなは塾頭であれば当然だろ? みたいな顔で俺を見た。


 ふっ、愚かな。彼らは何も知らない。俺の中身は現代人。少なくとも中学高校で6年は英語の授業を受けているはずだ。

 俺はもっともらしく考えた上で、やや格好をつけてネイティブっぽく発音する。


「ディス、イズ、ア、ペン。」


 その瞬間先生をはじめ、そこにいた人全員が目を見開いた。やっべー、チョー気持ちいい! チート主人公にでもなったみたいだ。


「うむ、よろしい。さすがは塾頭であるな。よく学んでいる。次、寅次郎! 」


「はい。では、Black Ships has come a long voyage.」


 えっ、なに? いきなり? 俺はここの塾生たちを甘く見ていた。彼らにとって数日もあれば英語など簡単に覚えてしまう。次の人もその次の人も難解な英文を次々に作り上げた。俺の6年のイニシアチブはわずか数日で無きものとされた。


「ふむ、みなよう学んでおるな。語学とはこのように一つを覚えれば応用が利く。文法、それに単語の違いさえ乗り越えればいいのだ。」


「はい、あちらの言葉は共通点も多く、勉学もはかどります。」


 そんな吉田さんの言葉に俺はがっくりとうなだれた。だが、その中にも希望の光はあった。もちろん我らの龍馬さんだ。


「ジ、ジス、アー、ペイン? 」


 いいよ、龍馬、その調子! お前だけは裏切らない、そう思ってたよ!


「しかし、まさか塾頭が英文を拵えるとは。龍馬さんは予想通りでしたけどね。」


「うむ、新九郎、おめえ、どこで覚えた? 」


 はっ、ははっ、俺にはそれが賞賛ではなく、侮辱に聞こえた。だが今までも、そして多分これからも勉学に勤しむことはないだろう。この評価も当然である。


 悔し涙に濡れながら、俺は両国の蔦吉の家に向かう。誰かに慰めてもらいたいのだ。ところがその蔦吉の家は空き家になっていた。

 隣の人に聞いたら、大層な金持ちの妾になるとかでどこかに引っ越していったそうだ。


 ははっ、そうだよね。そうなるよね。俺はふらふらとその足を吉原に向けた。一月の冷たい風が俺の心にまで吹き抜けた。


 吉原ではちょうど花魁道中の最中、それを見てなんか気分が落ち着いた。三枚歯の下駄を八の字にして歩く花魁。その周りを禿と新造の女たちが固めていた。


 ふとその花魁と目が合った。よくみりゃその花魁はあのお辰。ちらりと目くばせして何事もなかったかのように過ぎていく。

 花魁道中があると言う事は待っている客がいると言う事だ。どちらにしても花魁となったお辰を揚げるには手元の金では心もとない。

 ここでもははっと笑って立ち去るしかなかった。


 麻布狸穴の道場までは遠いので、神田まで戻り、小千葉道場に泊めてもらう。定さんは俺の話を親身に聞いて、慰めてくれた。


「ついてないね、新さんも。馴染んだ芸者は金持ちの妾になって姿を消し、馴染んだ遊女は花魁に成り上がって手が出せない、か。」


「まあね、でもどこかでほっとしてる。あいつらを俺がどうこうしてやれる訳じゃなし。良い旦那に恵まれたならそれが一番さ。」


「うん、飲もう! そういう時は飲んで忘れるのが一番! 龍馬の奴も落ち込んでたらしくて帰る早々さなに甘えてやがったし。」


 定さんとしたたかに飲んで忘れることにした。英語の事も、女の事も。



 その嘉永七年の一月十六日、再び黒船が訪れる。今度は七隻。しかも江戸湾の中まで入ってきた。この当時は何もなかったらしい横浜が交渉の舞台となる。もちろん市中は大騒ぎだし、塾の連中も大騒ぎだ。


 中でも吉田さんは大変な騒ぎっぷりだった。


「先生! これこそ天命と言う物です! 私はすぐにでも黒船に潜り込み、異国に! 」


「まあ待つのだ。現在黒船は公儀と交渉中。そのような中、乗り入って事件を起こせば国を誤まる事にもなりかねん。」


「しかし! 」


「寅次郎、いずれ片はつくのだ。そのあとでも間に合おう? 」


 先生は吉田さんの熱意を抑えるので精いっぱい。吉田さんは日に日に顔つきが鋭くなっていく。


 二月になると黒船の船員が死んだのでその遺骸を横浜の寺に埋葬した。この事に対して越前の松平慶永まつだいらよしながはものすごいキレ方をしたらしい。


「何でも神国の地がけがれたとかなんとか。大人げねえったらありゃしねえよ。そういう事はまつりごとだとか、外交の外だろうに。」


 いろいろと上司から幕閣の様子を聞いてきた麟太郎がそう、感想を述べた。こんな小さなことでもすったもんだする。公儀はそのくらい追い詰められているようだ。

 何しろ鎖国は祖法。徳川幕府の基本方針だ。それをひっくり返すのはいくら老中たちでも容易ではない。それもあって老中首座の阿部正弘は各大名、それに旗本から意見を募った。

 国を開くにしろ、「みんなで決めた事だろ? 」と言う形取りたかったのだ。だが意見の大半は強硬路線。完全に目論見が外れた訳だ。しかもその事で幕政に対していろんな連中が口を挟む前例を作ってしまった。今回の松平慶永がその例だろう。

 公儀の威厳が弱まってしまったのだ。


 塾のみんなはそんな見解を口にしていた。今まで公儀と大名の関係は絶対的で、老中をはじめとした幕閣が気に入らないことをすればたちまち国替えだのおとり潰しだのと大変な目に合う。だが異国の船がこうも寄せてきている今、そんな事ができるはずもなし。

 要するに公儀は舐められてる。そういう事らしい。ここでアメリカに良いようにされるようであればますます舐められる。でもアメリカは強引に開国を迫っている。幕閣たちは異国と大名たちの板挟みにあっているという事だ。


 で、公儀はどうしたかと言うと日本人お得意の前向きに検討、そういう事でお茶を濁したいらしい。けれどアメリカ側はYESかNOかを突きつける。他の国に対しては有効だった引き延ばしもペリーには利かないようだ。


 方向的には条約締結、そんな流れになった二月の終わり、ペリーは幕閣、高官、70人を船上に招き、大いに歓待したという。


 三月に入ると公儀はついにアメリカと神奈川条約、いわゆる日米和親条約に調印する。大まかに聞いたところでは遭難、漂流したアメリカ人の保護、それに蝦夷の函館、伊豆の下田の二つの港を開港、貿易、物資の購入、近隣への上陸を許す。それとアメリカ以外の国と条約を結んだ際、何かを許せばそれはアメリカにも適応される。そんな内容だ。


 で、なんでアメリカはそんな事を言い出したか、その目的だが、これが意外な事に捕鯨。現代ではクジラを食う日本人を厳しく追及していたアメリカ人は、この当時は捕鯨に夢中。それでこんな遠いところまで来ているのだ。


 その条約が締結された三月の二十日過ぎ、吉田さんは決意の籠った目をして俺たちに挨拶をした。


「方々には大変なご迷惑をおかけすることになるやもしれません。ですがこの寅次郎、これ以上、わが身、わが心を抑えるすべを持ち合わせません。かけた迷惑、それに値するだけの事を必ずや成し遂げて参ります。どうか、平に、平にご容赦を。」


「ふむ、寅次郎。吾輩たちの事は気にするでない。お前の行為はいまやこの国の存亡にかかわる事。高々一私塾の行く末と引き換えれることではないのだ。」


「先生! 」


「そうだぜ、吉田さん。とっくりと異国を見て、この国がどうすりゃいいのか、公儀は何をすりゃいいのか、それをオイラたちに教えてくれ。あんたが見て、感じた事ならオイラたちにも指針となるさ。」


「勝さん。」


「そういう事ぜよ。」


「龍馬。」


「せ、拙者は貴殿の行いに猛烈に感動している! 」


「河井さん。」


「あはは、あっちの国にはいろんなおいしいものがあるだろうからその辺もしっかりね。」


「塾頭。」


 俺たちは吉田さんと盃を交わし、彼の旅立ちを見送った。


 だがその吉田さんの行動はひっじょーに残念な結果に終わる。金子と言う長州の人と一緒に小舟で黒船に乗り付けたまではいいが、いろんな船をたらいまわしにされたうえ、同行は拒否。アメリカ人にボートで送り返され、名主の元に出頭させられる。もちろん公儀は大騒ぎだ。


 なんで俺がこんな事を知っているかと言うと、こんな事になってるからだ。


「ちょっと、吉田さん? なにやってんのさ。」


「ごめんなさいごめんなさい! 」


 そう、俺は吉田さんと一緒に牢にいる。吉田さんが捕まるとすぐに公儀は先生と塾頭の俺を逮捕。先生はあれこれ聞かれているようだが俺は連れ帰られた吉田さんと一緒に牢に押し込められていた。


 ひとしきり俺は文句を言うとごろりと横になる。他にすることもないのだ。


「けどさあ、その黒船の人も薄情だよね。」


「まったくですよ! 私たちぐらい連れ帰ってくれてもいいでしょうに。ほんと今回の事で異人は信用のおけぬものだと判りました! 」


「いやいやそんな極端な。」


「和親条約、その意が本当であればこの国の民たる私とも和親を結ぶべきでしょう? それをああも簡単に追い返して! これは罪!罪です! 」


 いや、どっちかって言えばあんたが犯罪者だからね。


「塾頭、見ていてください、きっと奴らはさらなる要求をしてきます。公儀はもっと強く出るべきなのです。そうでなければこの国はいずれ奴らの思うがままに! 」


 吉田さんは変なスイッチが入ってしまったようで、すっかり極端な意見になっていた。



 俺はぼちぼちと取り調べを受け、それに素直に答えていた。


「松坂殿、貴殿は吉田なるものが黒船に乗り込むことを存じておられたか? 」


「ええ、まあ。」


「それが祖法に触れる、知った上で見逃したと? 」


「いや、異国に行っちゃダメ、ってのは知ってましたけど、黒船は異国なんですか? 幕閣の方々は異国の船でもてなしを受けたんでしょ? あの人たちも祖法に触れたって事? 」


「あ、いや、そうでなくて、普通に考えてダメだなあ、やっちゃいけない事じゃないかなあって思いません? 」


「まあ、そういう風に言われちゃえばそうかもだけど。でもさ、何事にも初めてはあるわけだし、以後は禁止、厳罰に処すってお触れを出せばいいんじゃない? 」


「うーん。そうなんだけど、こっちにも体面とかいろいろあるんですよ。私もね、こんなことでグチグチ言いたくないの。けどほっとく訳にもいかないの。」


 取り調べに当たったのは評定所ひょうじょうしょのお役人。なんか気さくな感じでこの件をどう扱っていいかわからない風だった。


「だからさ、俺はともかく、先生と吉田さんは藩の裁きに任せちゃえば? 先生は松代藩士だし、吉田さんは長州脱藩なんだから。評定所だって忙しいんでしょ? 」


「うん、大変なんです。」


「重い罪に問えば異国におもねってる、なんて言われるし、軽くすれば祖法を蔑ろにしたー、なんて言われるに決まってるんだし。あんたたちもご老中もこんなことに関わってる場合じゃないって。」


「そ、そうですよね。ほんとお役目とはいえ難儀なんぎしてます。貴殿についても男谷殿が乗り込んできて一歩も動かないし。ちょっと私、上役に話してきますから待っててもらえます? 」


「ええ、もちろん。俺は男谷の一門として公儀の為に働くものですから。」


 そういうとお役人は疲れた顔に笑みを浮かべた。結局俺は即日釈放となり、お役人の話では先生と吉田さんは国元での蟄居ちっきょ、そんな感じになりそうだとお役人が教えてくれた。


 牢から出ると精一郎さんにしこたま叩かれ、お役人に頭をさげさせられた。お役人はまあまあと精一郎さんをなだめてくれた。


「まったく、どれだけ心配したと思っている! 」


「ごめんなさい。」


「まあ、お前が悪さをしたわけではないが、学問も過ぎれば毒、そういう事だな。」


「かもですね。」


「これよりは剣に精進しろ、いいな? 」


「はーい。」


 逮捕者を三人も出した五月塾は当然閉鎖。塾頭となって三か月。実にはかないものである。あれよあれよといううちに事態は進み、蟄居処分を受けた先生はお順と共に塾を引き払い松代に帰ってしまう。吉田さんも長州に、そして海舟書屋の額を手に入れた麟太郎はかつて氷解した氷解塾を再び興した。

 河井さんは藩政改革の提言書が認められ、出世して越後に帰国。他のみんなもそれぞればらばらに散ってしまった。

 

 俺は男谷道場で剣術に励み、時折小千葉道場の定さんを訪ねた。龍馬は相変わらずへたくそな剣術に打ち込んでいた。その竜馬も今年六月には土佐に戻るのだと言う。それを聞いたさなが、毎日のように龍馬に祝言を迫っているらしい。それをのらりくらりかわす龍馬に腹が立ったさなは、定さんや兄の重太郎に八つ当たりをするそうだ。


「もうさ、龍馬もいっその事さなを土佐に連れ帰ってくれればいいのに。もう、うるさいし、ガミガミ怒鳴るし。」


「ほんとだよね。あいつもあきらめが悪いっていうか。」


「そうそう、置いてかれても困るんだよね。そうなると縁談探さなきゃならないし。あっ。」


「なに? 」


「新さーん、そうよ、あーたがいたじゃない! 」


「なにが? 」


「新さんなら独身だし、嫁ぎ先も剣術道場。うん、安心だね。」


「いいえ、そうは思いませんけど。」


「なんで? なんでだめなの? いいじゃん、わしと親子になっちゃいなよ! 」


「定さん、そうやって何でもかんでも逃げちゃダメだよ。さなは意地でも龍馬にめとらせないと。向こうの親にだって責任とってもらうべきだと思うな。それにさ、向こうにだって利がある話だよ? なんたって天下に名高い千葉道場の娘なんだし。」


「いや、千葉っていってもわしのところは。」


「土佐の人に玄武館と小千葉の違いなんか判らないよ。龍馬の親、いや、本家かな。才谷屋とかいう結構な商売人らしいよ? うまい事縁を結べばさ、」


「いろいろいいよね。お金借りたりできそうだし。」


「そうそう、それにさなは美人だし、向こうだって喜ぶって。まずはさ、文の100通も送ってやればいい、時に強く、娘を傷ものに!とか言って、時には柔らかく、娘が龍馬を想って泣いてるとか。そうなりゃ相手だって責任的にも人情的にも嫁にって話になるさ。」


「うーん、流石は塾頭まで務めた新さんだ。わしじゃそこまでの事は思いつかない。」


「これもさ、娘の幸せの為、本当はそんな図々しい真似したく無いんだけど親としてはね、でしょ? 」


「そうだよね、だよねー。娘の幸せの為だもの。よーし、さっそく書いちゃうから! 」


 定さんが書いた手紙を俺が添削する。ここはもっと強い表現で、とか、ここはもっと相手を追い詰めるようにとか。いろいろ助言して出来上がったのは完全な脅迫状だった。


「うーん、これはどうなの? さすがに心苦しいんだけど。」


「もうさ、面倒だから送っちゃえば? ほら、相撲すもうとかもそうでしょ? 最初は強く当たって、あとは流れで。」


「ほう、そういう考えもあるね。うん、送っちゃおうか、書き直すのも面倒だし。」


 そうして一通の脅迫状きょうはくじょうが土佐に送られた。


評定所……上級裁判所みたいなもの。武士は町奉行(遠山の金さんみたいなの)の権限では裁けないのでここで処分を決められる。


蟄居……自宅謹慎。家から出ちゃダメって刑罰。

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