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翌十四日、徳川慶喜恭順と江戸城明け渡しの細目を話し合うため、海舟は田町の薩摩藩蔵屋敷に出向く。そちらの護衛は安次郎に任せ、俺は一郎と共に、見廻組が駐屯する神田見附にある小笠原邸を訪ねた。海舟は新政府との交渉に全力で幕府内の事まで手が回らない。よからぬことを企んでいないか探りを入れてこい、との話だ。実に面倒ではあったが世話になっている身としては受けるほかない。
「おぉ、おぉ、松坂、それに渡辺も! よう来てくれた。」
見廻組頭である岩田織部正がそう言って自ら出迎える。いくらも禄高の変わらないこの男に上役面されるのは気に入らないが、仕方がない。役を外れたとはいえ元上司なのだから。
その岩田はここに来て忠義だなんだに目覚めてしまったらしく、俺と一郎を座敷に引き入れなんだかんだと熱っぽく語る。
「幕府はもはや死に体、とはいえ死してはおらん。我らはこの通り健在だし、武器も弾薬もあるのだ。そして同志たちを集め、彰義隊をも結成した。一戦すれば我ら旗本の底力、存分に世に示すことが叶おう。」
「あー、んで、それが俺たちに何の関係が? 大塚だかなんだかよこして一郎に余計な事言ってんじゃねえよ。」
「まあ、そういうな。松坂、そして渡辺。お前たちを見込んで頼みがある。」
「なに? 」
「今、勝殿と行動を共にしておる大久保一翁。あれはな、幕府を裏切り己だけ朝臣として新政府に取り立ててもらうつもりよ。そのような者を見過ごせば我も我もと新政府に媚びを売ることとなろう。そこでだ、お前たちにはその大久保を斬ってほしい。なあに、登城の隙を狙えば難しい事ではない。」
「ははっ、それならあんたがやれ。」
「ほんまどすなあ。うっかり斬ってしまっていいお人やった、なんてことになれば後悔しますやん? 」
「……松坂はともかく、渡辺、お前はいまだ見廻組。わしの命を軽んじることは許さん! 」
「許さんやったらどないになりますのん? あんた、臙脂羽織のうちら、舐めとったらあかんよ? 」
「ま、そういう事。一郎たちはたった今から見廻組を辞める、それでいいね。岩田。」
「そんな勝手な事許されるはずが! 」
「せやから言うとりますやろ? 許されなかったらどうなるん? って。」
岩田織部正はそれきり黙ってしまったので俺と一郎は小笠原屋敷を後にする。
「松坂先生! お待ちを、松坂先生! 」
「誰? 」
「大塚、大塚霍之丞です! 佐々木先生の伍長の! 」
「あー、あんたねえ、余計なもめごと持ち込まないでくれる? 赤坂からここまで結構歩くんだから。」
「い、いえ、その! 先生! 先生もぜひ、彰義隊に名を! 」
「遠慮する。知らない人ばっかりの所は苦手だし、一橋の家臣なんかに指図される謂れもない。」
「せめて、せめて、頭の渋沢さんの話だけでも! それに副頭取は男谷の門弟、先生と同門の天野八郎! 」
「天野? あー、なんかいたね、そういうの。町火消かなんかだったはずだけど? 」
「えっ? ご自身では旗本と。まあ、それはともかく一度寛永寺まで足を! 拙者が案内仕りますゆえ! 」
「あーもう、面倒だよ。」
「まあまあ、隊長はん。これもお役目、そう思うたらええですやん。」
「ったく海舟の奴、面倒なことやらせやがって。」
仕方なしに大塚についていき、上野寛永寺に向かった。寛永寺と言えば鐘屋に住んでいたころは良く紅葉狩りなんかに来たものだ。律と二人いろんなことして。ま、あの頃は若かったからね。
「新さん! 」
そう言って出てきたのは天野八郎。いくつか年上で俺が小さなころから道場に通ってきていた。まだ俺でない頃の新九郎にカエルを食わされたこともある。そのせいか中年になった天野はカエルっぽい顔をしていた。俺の手を取る天野の後ろから鼻の穴の大きな気難しそうな男がやってくる。
「松坂殿、であらせられますな? 拙者は渋沢成一郎。一橋の家臣であります。鳥羽伏見でのご勇戦、遠目ながらに拝見しておりました。武士とはああでなければと一橋の家臣一同、心より感服申し上げた次第。」
「はは、それほどでも。」
「ま、このようなところではなんですので、ともかくも奥に。」
いくつか年下のこの男は年上の天野を従えるだけあって雰囲気のある男だった。
「松坂殿、わが主君慶喜公は恭順を決められ、今も寺内の大慈院に謹慎されておられます。聞く話によれば勝安房殿が新政府と折衝して江戸を戦火から守るため、お働きあると。」
「ま、そんなとこだね。」
「されど問題はそののち、新政府軍は何しろ薩長の田舎者、江戸に進駐となれば何をされるかと民は不安でたまらないのです。我ら彰義隊には武士のみならず町人たちも馳せ参じております。我らは江戸を、そしてこの寛永寺におられる輪王寺宮さまをお守りする。無論慶喜公、そして徳川累代の御廟所をも。」
「ふーん、なるほど。」
「見廻組頭、岩田様ともよしみを通じ、いざともなれば上野のお山に拠って武威を。松坂殿、貴殿の武勇、臙脂羽織の方々が加わって頂けるのであれば我らにとっても心強く。いかがでありましょう? 」
「ま、あんたたちはあんたたちで頑張ってよ。」
「されば松坂殿はいかがなさるおつもりで? まさかとは思いますが。」
「新政府に降るって? ないない、それができるくらいならとっくにそうしてるさ。な? 一郎。」
「ほんまどすえ、僕らは今更誰かに頭、さげられんのどす。隊長はんの無茶にどこまででも。」
「渋沢さん、あんたたちはあんたたち、俺たちは俺たち。けれども幕臣同士だ。どこかでまた、そういうこともあるかもね。」
「そうですか。残念です。」
「新さん、あんたはいったい何を? 」
「あー、俺はね、京で会津候、容保さまの世話になってる。せめてその恩返しぐらいはしておかないと。」
「なるほど、会津、ですか。わかりました松坂殿、いずれ。」
「そうだね、新さん。俺も男谷先生に恥じない生きざまを。」
寛永寺を出てついでとばかりに鐘屋に顔を出す。そういえば一郎はここに来るのも初めてだ。
「はぁぁ、ごっつええお店やないどすか。」
「まあね、律っちゃんが手塩にかけたところだし。」
感動していた一郎の顔はすぐに渋いものに変わった。何しろ鐘屋は出会い茶屋。現代で言うラブホテルなのだ。童貞である彼には刺激が強すぎるのかもしれない。
「旦那様、奥方様より何通も文が。」
「ああ、そっか律っちゃんはこっちにいると思ってるもんね。」
「私もそう伝えたのですが、こちらにいらしたときに目をとおしていただければと。」
「うん、お千佳、一郎にビールと適当なつまみを。」
「はい。」
お千佳に一郎の相手を任せ奥の部屋で手紙を広げる。そこには簡単な挨拶、それに俺の体調を気遣う言葉が二、三行。残りはぎっちりとエロ小説のような文章が。それは俺が隠し持っている春本なんかよりよほど興奮できる代物だった。
ふぅ。野暮用を済ませた俺は律に返事を認める。軽い現状報告に加え、俺たちの戦いはまだまだこれからだと。そして江戸はもうすぐ落ち着くだろうから、この鐘屋を起点に隊士の妻たちが食うに困らぬ工夫をと。最後にこういう手紙は非常にナイスなので、隊士たちの妻にも夫あてに書かせるように推奨しておいた。
「女将はん、僕はね、この世のすべてが憎いんや! せやからこの世をそっくりひっくり返して新世界の神になるんや! 」
「はいはい、頑張ってくださいな。」
そんな謎のコメントを発する一郎に、お千佳は大人の対応を見せていた。
「さ、一郎、そろそろ帰らないと。」
俺は律の手紙を懐に入れ、お千佳に認めた返書を渡した。
世は動乱の真っただ中、さりとて民にとっては日々の暮らしの方が大事である。黒船騒ぎの時もそうだった。いろいろ騒ぐ割には江戸の町はいつも通りで変わらない。ましてやそろそろ陽気もいいころ。町を歩く若い男女が何組もすれ違い、それは鐘屋に吸い込まれるように消えていく。
「僕が将軍やったら外を女連れであるくんは禁止どす! 」
「大丈夫、お前が将軍になることはないからね。」
「江戸は風紀が乱れてますぅ! 何やっとるんや市中見回りは! あんな男が別嬪連れとるんや! 犯罪に決まってるやろ! ほら、あっちも! あかん! あかんでこれは! 」
あかんのはお前の頭ね。
夕方になって勝邸に帰るとそこにはなぜかトシが居た。
「よう、旦那。」
「あれっ? はじめちゃんは? 」
「斉藤は良順先生が手配してくれた綾瀬の隠れ家に先に向かわせた。近藤さんももう着いた頃かもしれねえな。」
「隠れ家? 」
「まあな、俺たちはなんせ悪名高き新選組だ。新政府軍も俺たちだけは許さねえだろうって。」
「そういうこった、新九郎、おめえにはそのことで話がある。土方もな。」
一郎を離れに帰し、トシと一緒に海舟の私室へ。そこでお糸の出してくれた珈琲をすすった。
「ま、新九郎、昨日の話の通り、西郷は総攻撃を中止した。んで近々江戸城は奴らに明け渡す。」
「よかったじゃん。」
「ま、そうだな。ところがだ、西郷が言うには自分たちは良くても中山道を下ってくる土佐の連中が納得しねえってごねやがる。」
「土佐? 」
「ああ、甲州で近藤達をやったのもこいつらだ。東山道の総督は岩倉具定、公家の岩倉具視のせがれだな。んで実質軍を率いる参謀が土佐の板垣、それに薩摩の伊地知だ。この板垣ってのが中々に強情でな。三条制札の件で土佐を侮辱し、坂本龍馬を斬った新選組だけは許せねえって息巻いてる。」
「勝先生よ、制札の件は近藤さん一人のふるまいだし、坂本に関しちゃそもそもが旦那の流したガセじゃねえか。なんで俺たちが? 」
「とにかくな、奴らはいくさに勝った目印が欲しいんだよ。慶喜公の首はもう望めねえ、だったら次のってな。」
「それが俺たち新選組ってわけ? 」
「まあ、そうあわてんな、土方。おめえはこの新九郎の友達だ。その首を差し出しちゃオイラが新九郎に斬られちまう。」
「ま、そうだね。トシもはじめちゃんも斬らせないよ。」
「そこでだな、ここは若年寄の大久保殿。あれの首で我慢してもらおうじゃねえかと。」
「近藤さんを? どうやって。」
「まあ聞け、土方。綾瀬で隊士を集めんだろ? んで膨れた新選組は会津に向かう。その途中で官軍に囲まれて大久保大和は出頭する。若年寄として幕府の責を背負って切腹。おめえらはその間に会津でもどこでも行けばいい。」
「けどよぉ、勝先生、そりゃああんまりじゃねえか? 」
「そのあとおめえはオイラのとこに来て助命嘆願すりゃいいんだ。オイラもそれっぽいところに連れまわしてやるさ。副長の土方は最後まで近藤を救うため、奔走した。けどそいつは通らなかった。そういうカラクリにすりゃおめえの名誉も傷が入らねえ。」
「なるほど、流石は勝先生だ。」
「こういうのはおめえとだからできるんだぜ? 新九郎とじゃできやしねえよ。」
基本的に二人とも腹黒いもんね。ま、近藤さんは嫌いだからどうでもいいけど。そのあと二人はしっかりと手筈を打ち合わせていた。
「んで新九郎、おめえの方はどんな塩梅だ? 彰義隊だっけ? あれと岩田の野郎がくっついてんだろ? 」
「うん、彰義隊の頭は渋沢って言って一橋の家臣だけど、中々できた人だと思うよ。その補佐は天野八郎。海舟も知ってんだろ? 男谷道場に昔からいたやつだ。」
「ああ、おめえにカエル食わされたあいつか。」
「そそ、そのせいかすっかりカエル顔になっちゃって。新政府の暴虐から民を守って、いざともなれば上野のお山で挙兵するって話だ。」
「かぁ、よりによって上野かよ。西郷も頭のいてえとこだろうな。」
「なんでだ? 勝先生。」
「西郷の野郎は上野の新九郎の店を守らなきゃならねえ、そうこいつに約束しちまった。火がついても奉公人になんかあっても横浜の異人を斬るって脅されてな。」
「ははっ、流石は旦那だ。この世であの西郷を脅かす奴なんかあんたぐれえなもんだ。」
「ああ、オイラがぎっちり練り上げた策にも微動だにしなかった西郷が、新九郎にかかっちゃガキのようだったぜ? 何しろこいつは嫌がらせにかけちゃ天下一だからな。」
「ふふっ、五月塾の塾頭は伊達ではないのだよ。君たち。」
「ま、そういう事にしとくか。土方、例の件はぬかるなよ? 」
「ああ、任しといてくれ。金の方は頼ってもいいんだろ? 」
「できる限りはしてやるさ。江戸城に置いておいても無駄になる。」
昔、まだ新九郎になる前のおぼろげな記憶では徳川埋蔵金と言うものがあるんだと、それを必死で探す人もいた。だけどこうバカバカ使っちゃあるはずもないよねー、埋蔵金。
翌日、トシは綾瀬に行き、俺は再び海舟の護衛に着く。新政府軍の諸隊長と談義をするためだ。海舟は「初めての江戸進駐」と表された冊子を各隊長に配り、江戸での生活の仕方を指南する。その内容はまさに修学旅行のしおり。
「いいか、おめえらの行動一つに新政府の、いや、帝の評判がかかってんだ。跳ねっ返りをどうこうするのは構わねえ。だがやり方には十分注意しろ。もちろん強盗や女を手籠めになんかすんのは禁止だ。わかってんな? 」
「「応! 」」
え、先生なの? すっかり場を制した海舟はもう一つ冊子を渡す。
「そっちにはうまいもんを食わせる店や女を買えるところが書いてある。俺たちには勝利者である官軍でも、江戸の民にしちゃおめえらはお上りさんの田舎もんだ。無粋だなんだと言われねえように気を付けろ。」
その後も酒は控えめにだとか、生水飲んで腹を壊すなとかこまごまとした注意を与えていく。官軍の諸隊長はそれを神妙な顔で聞いていた。
その後は英国人、アーネスト・サトウが来訪したり、横浜に英国人を訪ねたり。
三月十八日、岩田織部正は見廻組頭改め、狙撃隊頭となった。すでに見廻組としての役を辞した俺の所にもその触れが届いた。こうして京都見廻組と言うものはこの世から消えた。
そして月が替わり四月四日。勅使の岩倉ら、七名が江戸城を訪れ徳川処分の最終的な案を提示する。そして同じころ、先日三日の夕刻、大久保大和こと、近藤勇、官軍に出頭したとの報せを聞いた。
「ま、これで徳川のお家も慶喜もとりあえずは安泰だ。近藤に関しちゃ土方の奴が上手くやったんだろうぜ。あいつも今や若年寄、幕府の責を負って当然。なんせ幕閣なんだからな。今少し自重しとけばこんなことにもならなかっただろうによ。」
「まあね、それなりに付き合いのあった俺にも偉そうにしたからね。」
「いいか、新九郎、おめえがこの先どうするのかは知らねえが、余計な役は受けるもんじゃねえ。そもそもおめえは人様を指図できる器量がねえんだ。近藤のようになりたくなきゃ身を慎むこったな。」
「まあね。器量じゃないのは判ってるさ。」
「名を売りてえのは男の性。けどおめえはそれをしちゃならねえ。役に付かなくてもおめえなら周りの連中を拳で黙らせられるだろ? 単なる一兵卒、二十五人の頭ぐらいなら最後のどん詰まりになろうが官軍はおめえの罪を問えねえさ。調子こいて祭り上げられちゃここぞとばかりに処断される。いいか、こいつは兄貴分としての最後の教えだ。決して偉くなるな。」
「ま、あんたの言うことは心に留めとくよ。どのみち俺はうちの臙脂羽織の連中以外率いるつもりもないし。それ以外には責任持てない。」
「そうだ、それでいい。おめえが処断でもされちゃ、オイラは静斎殿にあの世で顔向けできねえ。だからな、決して死んでくれるな、新九郎。」
「大丈夫だよ、俺はあんたと違って強いからな。」
「ばっか、いっくら強かろうが鉄砲玉食らえば人は死ぬんだよ! 」
「大丈夫だって、うちの連中は鉄砲食らっても誰も死ななかった。頭に食らおうが腹に食らおうがだ。」
「えっ? 」
「鍛錬が出来てりゃ鉄砲なんかで死なないんだってさ。ははっ。」
「はははっ、オイラにゃわからねえ世界だな。そりゃ。」
その翌日、俺は海舟に連れられて江戸城の蔵に行く。そこでフランス式の肋骨のようなモールのついた軍服と、小銃を人数分、それに軍資金として千両箱の五つももらった。
「いつの世も、どんな時も金がねえ奴は舐められる。これで江戸城の金蔵もすっからかんだ。榎本たちの船にも大概積み込んでやったからな。」
「はは、官軍も目玉が飛び出るほど驚くんじゃねえの? 」
「そんくれえの意趣返しはしてやらなきゃな。これで官軍が江戸の民に税を課すようじゃ帝の権威も地に落ちる。奴らは貧乏しながら会津やなんかと戦わなきゃならねえって訳よ。ま、西郷は泣くだろうな。」
まったくもってたいしたもんだ、とこの、年の離れた従兄を見て思った。幕府は負けはしたけれど、それは慶喜とか言うろくでなしのせい。その後始末を海舟は一人で請負い、完璧に官軍にこちらの要求をのませた挙句、この嫌がらせだ。そりゃあ歴史に名も残ろうってもんだ。
「ま、あとはどれだけごねられるかだな。」
ははっ、本当に西郷さんは泣くかもね。
そして四月五日。トシが何人かの隊士を連れて晴れ晴れとした顔で現れる。
「よう、土方、ずいぶんとうめえことやったみたいじゃねえか。」
「まあ、これも勝先生の教えあっての事さ。近藤さんはその場で腹を斬るとかぬかしやがったがそいつはどうにもうまくねえからな。説得すんのも大変だったぜ。」
「んで? ほかの連中は。」
「一人たりとも欠けちゃいねえさ。隊士たちは斉藤に任せて会津に向かわせた。俺は市川の幕軍に参加するつもりだ。」
「そっか、ま、オイラが残りはうまくやっとく。おめえはそっちで頑張んな。土方、悪いがこのバカの事
よろしく頼むぜ? 」
「ああ、任せてくれ。旦那、市川で待ってる。」
そう言ってトシは江戸を出た。
海舟はその後も嘆願書なるものを手にして池上本門寺に本陣を置いた官軍に顔を出す。そして話がまとまったところで、俺を連れて上野寛永寺に謹慎中の徳川慶喜を訪ねた。
「ま、おめえも幕府をぶっ潰しちまった張本人の顔ぐらい拝んどくべきだろ? 」
そう言って俺を連れて大慈院に上がり込む。この間に海舟は慶喜を謹慎で済ませただけでなく、生まれ故郷の水戸に移動させることまで官軍に飲ませていた。
「勝安房。それに松坂と言ったか。大儀であった。」
俺は海舟に倣い、一応頭を下げておく。本心を言えばぶん殴ってやりたかったが。
「幕臣であるその方らには腹に据えかねるものもあろう。だが、予は謝らない。幕府、いわゆる封建制では無理な時が来ていたのだ。予の正しさはいずれ歴史が、と言いたいが、官軍は予を悪し様に言うであろうな。
ふふっ、勝よ。予はお前にもらった命、存分に楽しんで生きてやる。誰しも生まれは選べぬものよ。だがすべてをなくした今からは違う。天命、そう言われるものを予は果たした。ならばあとは楽しむのみ。その代償が歴史に残る悪名、と言うわけだな。」
「慶喜公、この安房のなした事を手柄としてくれるなら褒美代わりに聞かせて頂きたい。なんで大阪城を。」
「ふむ、よかろう。だが他言は無用だ。松坂とやらもよいな? 」
「はっ。」
「予はな、様々な事を学んだ。異国の事情、そして本邦の歴史。アメリカには議会と言うものがある。そしてエゲレスにも。アメリカの議会は入れ札で大統領と言うものを決める。そうだな? 勝。」
「はい。」
「そしてエゲレスには王がいる。その下に議会があるのだ。」
「そう聞きます。」
「この国が将来郡県制を敷き、議会を開けばおのずとエゲレスの形をなぞったものとなろう。その時王の役目は誰が? 」
「そりゃあ、帝ですが。」
「そうだ。そうなったときに幕府、いや将軍と言うものはどこに座ればいい? 」
「ですから議長として。」
「勝、お前の言わんとすることは判る。だが、帝が居て、さらに議長までもが大きな力を。それでは議会の意味がない。薩長はもとより異国とて何も変わらぬこの国を下に見るであろうよ。幕府、将軍、そしてお前たち幕臣。
――いや、武士と言うものが世にそぐわなくなっている。予にはそれがわかった。だからこそ大阪を引き、恭順を示す。幕府の都合、幕臣たちの都合を聞いていては何年たっても世は変わらん。それこそ攘夷論者の言うように、異国に付け込まれ国を誤ることになる。予は将軍として、すべての武士の代表として武士の世の終わりを世に示さねばならなかった。」
「武士の世の終わり、ですか。」
「そうよ、帝は、朝廷は、武家政権である幕府を認めぬ、と。鎌倉以来の武士の世はあの時に終わりを告げた。そして予が抗えば武士は帝に背く謀反人、その代わり言葉にもなろう。武士と言うもの、その名誉を予の悪名と引き換えに守った。だから予は謝らない。」
なんかすっげえ超理論を聞いた感じ。言ってることは正しいかもしれないがすっごく気に入らないのだ。この細面の将軍だった男、理屈っぽさが顔に出た幕府をつぶした張本人。その顔はどこまでもカンに触った。
結局海舟はお褒めの言葉と銘刀一振りを褒美として授かり、大慈院を後にする。
「まあ、なんだ。あれはちっとばかし頭が良すぎたって事だな。一歩先をすっとばして二歩先に備える。だからオイラ達にはわからねえ。
種をまいたら肥しをくれて、雑草を取って、初めて収穫。それをあの方は種をまきゃ次の日には実がなるとでも思ってんだろうよ。ま、殿様育ちなんてのはあんなもんだ。いっくら出来がよくてもおめえの言う頭でっかち。実ってもんが欠けてやがる。」
「そうだね。いくさで誰が死のうが他人事、そんな感じなんだろうさ。」
「そういうやつらが政治をして、この国の未来を決める。あの方が言うように武士の世ってのは終わるべきなのかもな。」
「ま、そういう難しいことはあんたの領分だ。俺は気に入らない連中と戦うだけさ。」
「そうだな、それが男谷の流儀だ。恩を返す幕府は無くなっちまったがその志を引き継いだ連中が会津にいる。おめえの納得いくまで戦って江戸に帰ってくるといいさ。オイラはあのいけすかねえ慶喜公を守り切って見せる。」
翌十一日、俺は隊の連中を率い、伝習隊を率いる歩兵奉行、大鳥圭介と共に江戸を出た。
この物語ではけっこうひどい目に合っている岩田織部正。史実でも大差ないようです。見廻役として華麗にデビューしたはいいが与頭、佐々木只三郎にないがしろにされ、江戸に戻ってからも大久保一翁暗殺を命じた渡辺篤(一郎)にさらっと断られてます。その理由も本文中にある通り。(渡辺家履歴書より)