7
ここは地獄だ。なぜならばこの小千葉道場の真ん中では今、精一郎さんと千葉先生がにらみ合っている。健吉を連れてやってきた精一郎さんは定吉先生からあらましを聞くと、そのまま千葉先生が進めるままに道場の中央に座る。その前には千葉先生が座り、俺と定吉先生、そして健吉がその横に並んで座る。
それからすでに一刻は過ぎているというのに二人は一言も口を利かずに睨みあったまま。
「ねえ、先生。どうなってんのさ。」
「さあ。なんだろうね。」
「先生方は今、気を競い合っておられるのですよ。お静かに。」
そう健吉に窘められ、俺たちは口を閉じた。なにそれ、超能力バトルっぽいの?
とにかく無言の時間に耐えられなくなった俺はどうやってこの場を逃れようかと考えていた。隣の定吉先生も同じらしく、そわそわとしていた。
「あ、俺、ちょっと厠の用に。」
「わしも。」
そう言って俺たちが腰を浮かしかけると健吉がギロリと睨み付け、俺たちは、ひっ、と縮こまった。
「そもそもお二人の諍いがもとでこうなっているのですよ? 席を外すとは何事です! 」
「「はーい。」」
日暮れまで睨みあいは続き、健吉は何が楽しいのかそれをじっと見ていた。定吉先生は俺の肩にもたれかかり、うつらうつらとしていた。
その定吉先生がじゅるっとよだれを啜り、姿勢を正した時、千葉先生がわずかに腰を折った。何がどうなったかは全く分からないが超能力バトルは精一郎さんの勝利に終わる。
「新九郎、健吉、帰るぞ。」
「「はい。」」
精一郎さんは満足げにそう言うと俺たちを連れて小千葉道場、さらには玄武館の門を出る。
「新九郎、いきさつは褒められたものではないが、此度はよくやった。小千葉とはいえ完膚なきまでに叩きのめしたのだ。手柄である。」
「あの、精一郎さん? 千葉先生とのアレはいったい? 」
「あれはな、気組みの勝負だ。純粋に剣の勝負となれば勝ち負けの結果は道場の評判に関わる。ああした勝負であれば体面には傷がはいらず、本人同士では勝ち負けが付く。そう言う事だ。」
「実にお見事な勝負でありました。先生もですが、千葉先生もまた、剣聖と言われるだけの事はありましたな。」
「うむ。剣の勝負は良くて互角。下手をすればわしが敗れていたかもしれぬ。」
「そんなに? まあ、強そうなのは俺にもわかりましたけど。」
「剣ではな。だが人の強さの元は気合い、気組みだ。千葉先生も大したものではあったがわしには及ばぬ。」
「そうなんですか? 」
「千葉先生は優れた剣術家。それこそ当代一と言っていいかもしれん。だが背負いしものは道場と水戸の馬廻りとしての10石のみ。男谷の家、千石の家禄、それに徒士頭として公儀をも背負うわしとは違う。背負いしものが重ければ人は強くならざるおえぬのだ。
新九郎、お前がこの健吉に勝てぬのはそれもある。健吉は榊原の家、それに弟妹を背負っている。何を成すにしても重みが違うのだ。」
「先生、私からすればなんの重みもないのに、ここまでできる新さんの方がよほどすごいと思います。」
「うむ、それが新九郎の才だ。重みと言えば幼き頃よりわしと小吉に叩かれ続けた事くらい。いささか荒れた時期はあったが、今はこうして心根もまっすぐだ。健吉、お前も苦労はしても心が曲がっておらぬ。」
「それは先生のお助けがあればこそ。」
「だがな、誰もがそうとはいかぬ。麟太郎を見ろ。苦労をつづけたばかりにああも浅ましく。新九郎にはな、いらぬ苦労はさせずとも良いのだ。」
「まあ、確かに麟太郎さんは。あれで免許皆伝はちょっと。」
「小吉と虎之助にせがまれたのだ、仕方あるまい。わしは剣であの二人に勝てても、喧嘩では勝てぬからな。」
「まあ、小吉さんも島田の先生も普通じゃないですから。と言うか小吉さんに喧嘩で勝てる人いなかったじゃないですか。」
「そうよな。アレに比べれば剣聖と言われたわしも、千葉先生も話にならん。今思い出してもぞっとする。」
うーん、実に恐ろしい会話だ。剣聖が勝てないとかどんな話? まあ、判らないでもないけど。実際精一郎さんも伯父上には顎で使われてたしね。その反動でみんなが麟太郎を見る目は厳しい。ま、当然だよね。
道場に戻ると精一郎さんは俺と健吉を相手に機嫌よく酒を飲んだ。
「うむ、今日は気分がいい。二人に面白き技を見せてやろう。」
そう言って俺たちを庭に誘うと、そこに転がっていた試し切り用の竹の切れ端を手に取って、空中に投げた。
そしてそれを抜き打ちで斬り、さらに落ちるまでにもう一振り。ものすごい速さで刀の刃がようやく見えるかどうかだった。それだけでも俺と健吉は目を丸くしていたのに本当の驚きはそれからだった。斬られた竹筒は何の変化もなく地面に転がり、一拍おいてパカリと四つに割れた。
「ははっ、このように斬れば斬られた方は痛みも感じぬという。最もわしは斬られたことがないからわからぬがな。」
はっはっはと笑いながら精一郎さんは中に帰っていった。なにこれ、魔法?
「ねえ、健吉。」
「あはは、新さん、道は遠いですね。すっごく、すっごく、見えないほどに。」
「だよねー。」
俺が思うに剣聖ってのはきっと異世界とかから来たに違いない。だってあんなことできないもの。
さて、翌日平然と塾に顔を出した龍馬を、俺は叔父上譲りのアイアンクローで締め上げた。
「ちっくと! 痛いきに! やめてー! 」
「ほう、昨日あれだけの事しでかして、その態度とはねぇ。」
「悪かったきに! わしが悪かったで! 」
謝るので仕方なく放してやった。
「って事は当然、奢ってくれるよね。吉原。」
「そ、それがじゃ。」
「なに? 」
「持ち金ぜーんぶ、さなに没収されたぜよ。」
「はぁ? なんで。」
「なんぞ、ようわからんうちに、わしはさなの婚約者っちゅうことにされちょったが。実家にも姉上にも手紙がいっとって。」
「ねえ、バカなの? 」
「それで、金の管理は妻の私がち、全部取り上げられたんぜよ! まっこと堪らんぜよ。」
「ま、大変だね。」
「でな? そんなこちなっちゅうきに、新九郎さん、一緒に来てくれんかいの? おんしが一緒じゃったら、さなも少しは。」
「どうせまた俺を悪者にするんじゃないの? 」
「もう、一人で帰りゆうのは怖いんじゃ! なんぞ蛇に飲み込まれゆうカエルになった気がして。」
「もうあきらめたら? 完全に包囲されてるからね。それ。」
「なんちゅう事を言うがか! わしはあんな嫁はいらんち! もっとこうゆるやかなんがいいぜよ。ああいうガイなんは姉上だけで十分やき。」
「でも、さなさん美人じゃん。」
「それやったら、おんしが娶ったらいいきに。何ならわしが! 」
「はは、俺はね、嫁とか娶れる身分じゃないの。」
「とにかく最悪じゃ。わしはどうしたらええんじゃ! 」
「まあまあ、とりあえず飲んで嫌な事は忘れるしかないさ。」
「その飲む金がないきに困りゆうんじゃ! 」
「仕方ないから奢ってやるよ。ほら、行こうぜ。」
とはいっても俺もそれほど金があるわけではない。居酒屋で飲むぐらいが関の山。飲み放題とかあればいいのに。
龍馬は土佐の男らしく、酒が強い。しかも人の金だと思ってぐいぐい飲んでいく。俺が適当に愚痴を聞き流し、財布の中身を気にしながら、ちびちび飲んでいるとよほど鬱憤が堪っていたのか潰れてしまう。
「うぅぅっぷ! 」
龍馬は千鳥足であちこちの塀にしがみつきながら涙目になるも吐かない。そしてまた「うぇぇぇ! 」と言いながら近くを通りがかった女の胸元を開いて覗き込む。が、そこにも吐かない。女はきゃぁぁぁ! と叫びをあげて逃げて行った。
しばらくすると番所から岡っ引きが提灯を下げて飛んでくる。
「この人変なんです! 」
「なんだおめえは! 」
「なんじゃおまんは!って、」
いや、それは爆笑王の持ちネタだからね。俺は岡っ引きに事情を説明してこれ以上事態がだっふんだしないうちに千葉道場に連れて帰った。
「まあ、龍馬さん、こんなに酔っぱらって! 」
「うーん、さな、明日は早いきに、しっかり起こしとうせ。」
「早いって何刻に? 」
「朝の稽古があるきに寅の刻には。」
「と、寅の刻? な、なんという事を。 」
もうね、それもいいから。はい、しょうゆ、ラー油、アイラブYOU。よくできました。
「わざわざすみませんな、若先生。」
定吉先生が玄関まで出てきてそう言ってくれた。
「いえ、いいんですよ。おんなじ塾生だし、友達ですから。」
「そう言っていただけるとありがたく、どうですかな? 剣は抜きで、剣は抜きで、くれぐれも剣は抜きで、お上がりくださらぬか? 」
「はは、じゃ、遠慮なく。」
とても断れる雰囲気の顔じゃなかったので、俺は定吉先生に連れられその部屋に行く。結構趣味の良い部屋でそこに膳を運び込んでの酒盛りとなった。
「でね、わしももう大変なの! 確かに、兄者のおかげでいい暮らしはさせてもらってるし、先生なんぞと呼ばれてるよ? けどね、ああいうイカレたのが身内にいるともう大変! 何かといえば比べられるし、言ってることはよくわかんないし。」
「あー、それすっごくわかります! 俺もそうなんですよ! 」
「でしょ? でしょ? もうね、そうだと思った! 男谷の先生もうちの兄者ももう、別の世界を生きてるものね! 」
「うんうん、そうですよね。実はですね、昨日、あの後、精一郎さんに妙技を見せてもらったんです。」
「へえ、どんな? 」
「こうね、竹筒を放って、そこをスパスパと。」
「そのくらいならわしも。」
「それがね、その竹筒、何の変化もなしにコロコロって転がって、一拍置いてパカッて四つに。」
「やだ、何それ。」
「そうやって斬ると斬られた方は痛みを感じないって言ってた。」
「やめやめ、そんな話は酒がまずくなる。そういうね、ごくごく一部しか、おそらく男谷の先生しかできないことをわしらに求められても困るのよ、ほんと。」
「ですよねー。」
「そうよ、若先生、あ、新さんって呼んでいい? わしも定さん、でいいから。ああいう人たちがいるのに自分が先生とか、言われるのぞっとするでしょ? 」
「うんうん、よくわかります。」
「兄者のさ、玄武館にはそういうの求めてくる人がいっぱい! でさ、わしも師範だったからそういうおかしいのの相手しなきゃいけなくて。もうね、一日中剣術の事ばっかり考えてる変な人たちの相手が嫌で道場分けてもらったの。こっちはほら、龍馬とか、大した事のない普通の連中集めてのびのびと稽古してる。こういうのが本当の道場なんだよな。」
「あはは、そうですよね。俺は気が付いたときは男谷道場にいましたからよくわかんないけど。」
「そうだよね、じゃなきゃあんなに強くなれないもん。うちの重太郎だってここらじゃいい腕だって言われてんのよ? 」
「ま、男谷にだって紛い物の免許皆伝がいますからね。」
「うんうん、やぱりどこでもいるよね、そういうの。けどね、それって大事。」
「そうなんですか? 」
「だって、あーた、経営だもの。道場はね、門下生が居なきゃ食っていけないの。その為には多少の事はしますとも、ええ。」
「あー、そういう事ね。」
「あんまりね、厳しくしても不満を覚えて他所に言っちゃうし、かといって簡単にやれ目録だ、切り紙だってやっても価値が落ちちゃう。だからね、龍馬みたいに金持ってる奴には甘め、そうでない奴には厳しくってやっとかないと。目録あげれば親だって礼金の一つももってくるし。逆にね、貧乏で道場に金払えない奴もいるのよ。」
「そうでしょうね。」
「でもね、金はないけど口はついてるわけで、追い出したりしたらあちこちで、あそこはひどいの何のと始まるわけ。もうね、いろいろわしも大変なの。」
「そっかあ、人気商売ですもんね。」
「けどね、うちはまだいい方。兄者のところで落ちこぼれたのがこっちに、なんてのが結構あるんですう。そいつらも隣となれば人目が気になるでしょ? だからいずれは引っ越そうかなって。」
「けっこう考えてるんですね。」
「そりゃそうよ、お金が無きゃ剣術できても意味ないもの。それにね、うちは男谷と違って幕臣でもないし。一応水戸の侍って事になってるけど10石よ、10石。だからお金には厳しくならざるおえないの。」
うーん、聞けば聞くほどシビアな世界だ。男谷は元が金持ちだし、禄もある。だから金の事なんか考えたこともないのだろうけど。その日は定吉先生、定さんの強い勧めで泊まることにした。
翌朝目が覚めると道場の方から朝稽古の声が聞こえる。なのに隣の布団で眠る定さんはいびきをかいていた。
「定さん! 定さんって! 起きなきゃまずいんじゃないの? 朝稽古してるよ! 」
「うーん、新さん、こんな朝っぱらからあんなことしちゃ体に悪いでしょ? 睡眠ってすっごく大切なんだから。」
「いや、でもさ、顔出さなきゃまずいんじゃないの? 立場的に。」
「いいの、朝っぱらから竹刀持って何が楽しい、って、今何時? 」
「そろそろ明け六つぐらい? 」
「こうしちゃいられない、新さん! 用意して! うん、天気もいいね。急がなきゃ! 」
ガバッと飛び起きた定さんは急いで支度を整えると、俺を連れて外に行く。そして蔵から釣り道具を取り出すと俺の手を引いて神田川まで連れて行く。
「ここはね、新さん。朝のこの時間がよく釣れるんだよ。悪いけど剣術なんかやってる暇ないから。」
この言いぐさである。その日は二人で結構な数を釣り、それを塩焼きにして頂いて帰った。それから度々定さんに誘われ千葉道場に遊びに行く。その度に定さんは将棋だの、囲碁だの、お茶だのと遊び道具を用意しておいてくれる。
さて、龍馬であるがこれが完全にダメな奴になっていた。身の回りどころか着替えから髪を整えるのまで全部さな任せ。この間は歯を磨いてもらっていた。
年も明けて嘉永7年。西暦1854年を迎え、俺は21歳となる。その年の初め、五月塾では一つの事件が起きた。
「ふむ、目出度き正月であるな。人も増えた事であるし今年から我が塾でも塾頭を置こうと思うが。」
「素晴らしいお考えです! 象山先生の五月塾、その塾頭ともなれば天下に名がしれましょう! 」
「なればここはオイラだろ。なんせ古株だし。」
「何を仰っているのです。ここはやはり、この吉田寅次郎が! 」
「いや、拙者、河井継之助こそがふさわしく! 」
そのあともああだこうだと言い争いが続いた。
「うむ、やはり塾頭ともなれば皆が納得する人物でなければな。吾輩が指名してもよいが、諸君らで決めるのも一興であろう。決め方その他は諸君らに任せる。塾頭となったものには年に5両の給金も与えよう。」
そう言って先生はお順と共に奥に消えた。塾頭には興味がないが5両には興味津々の俺は、自分に有利なルールを設定すべく口を開いた。
「で、どうすんの? 殴り合いで決める? 言っとくけど俺は強いからね。」
「バカか、ここは頭を競う蘭学の塾だぜ? おめえみたいな馬鹿の出る幕じゃねえよ。」
貧乏に悩む麟太郎がそう言って食って掛かる。
「そうですね、新九郎さん。此度ばかりは勝さんの言う通りかと。」
同じく貧し気な吉田さんも必死だ。
「うーん、頭で決めるちか。ならこんなんはどうじゃ? 」
龍馬が提案したのはデコピン。確かに頭だけどそうじゃないよね。
「いいんじゃねえか? 塾頭ってのは頭だけじゃなく我慢強さも必要だ。」
「ですね。耐えがたきを耐える。それすらできぬようでは塾頭などとても。」
「北国生まれの我らを舐めないでいただきたいな。」
そんなこんなで話は決まり、デコピンによる塾頭決定戦が行われる。5両の賞金がかかっていることもあり、全員参加となった。くじ引きで対戦相手が決められ、相互に打ち合い降参したら負け。実にシンプルなルールだ。
早々に脱落者が相次ぎ、残ったのは金が欲しい俺、財産を取り上げられた龍馬、そして貧乏な麟太郎と吉田さん。遊ぶ金がほしい河井さんの五名だ。くじで対戦相手が選ばれる。栄光のシードを勝ち取ったのは俺だ。
まずは吉田さんが壮絶な打ち合いの末に河井さんを下した。おでこはポッコリと腫れ、そこに血が滲んでいた。勝利者の吉田さんはすぐさま水に浸した手拭いでおでこを冷やす。
次いで麟太郎と龍馬が戦う。生活に困窮する麟太郎はダーティな手もいとわない。おでこに見せかけてその下の眉間を打った。龍馬はその場で悶絶、麟太郎の勝利となる。
またしてもくじが引かれ今度は俺と吉田さんの対戦だ。ちなみに俺はこれまですべて一撃でケリをつけている。何しろ俺は指の力も握力も強い。男谷の師範は伊達ではないのだ。
じゃんけんが行われ、先攻は吉田さん。吉田さんはMの気があるのか耐久力は素晴らしいが所詮は文弱。攻撃力に欠けるのだ。ぱちんと俺の額に細い女のような指がヒットする。俺は薄ら笑いを浮かべ、それが何か? とでもいうように顔を傾けた。
「さって、俺の番だね。」
そう言って吉田さんの冷や汗に濡れたおでこに手を置き、中指を思い切り引き絞る。吉田さんはぷるぷると震え、目をぎゅっと閉じた。
「参った! 降参です! 」
俺の指が放たれるその瞬間に吉田さんは降伏した。だが指は止まらずにパカンといい音を立てて吉田さんの額にヒットする。吉田さんはもんどりうって転げまわり、その拍子に柱に頭をぶつけて気絶した。さあ、あとは麟太郎だけだ。5両、何に使おうか、久々に吉原でお辰のところに。いや、蔦吉に新しい三味線でも買ってやるか。
「な、なあ、新九郎? ここは取引と行かねえか? 」
「ダメだね。」
「なあ、頼むよ! 」
麟太郎の言葉を無視してじゃんけんをする。先攻は俺。一撃で決めてやんよ。
バチコーンと渾身の一撃が決まり、麟太郎はその場にうずくまる。だが、ぶるぶると震え、奥歯を噛みしめたすごい形相で起き上がる。
「ハッハー! 耐えきったぜ! 次はオイラの番だ! 」
一瞬くらっとふらついた麟太郎は頭を振って立て直す。こいつのダーティな行為には十分注意が必要だ。
ぐぐっと麟太郎をにらみつけ、奥歯を噛みしめ痛みに耐える準備をする。麟太郎は俺の額に置いた手をインパクトの瞬間にずらし、眉間の少し下、鼻梁に指を打ち付けた。つーんとした痛みが走り、一瞬気が遠くなる。だが俺は耐えきった! 鼻をぬぐうとそこには血がついていた。
「ほう、判ってんだろうな、麟太郎。」
俺はボキリ、ボキリと指を鳴らす。
「あ、いや、わざとじゃねえよ? わざとじゃ! 」
俺は容赦なく麟太郎の額に手を置いて中指を引き絞る。そしてインパクトの瞬間、その中指を曲げてやった。
「あうっ! 」
そう叫びを発して麟太郎はひっくり返った。指の腹でなく、指先を食らったのだ。めきっと変な音がしたが気にしないことにした。
とにかくこうして俺は5両を勝ち取り、ついでに塾頭の座も得ることになった。先生にその報告に行くと、しっぶーい顔をしながらも5両と、俺を塾頭とすることを認めた書付をくれた。
こうして五月塾には最も成績が悪い塾頭が誕生した。