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「って事で旦那、俺たちは明日、甲陽鎮撫隊として出撃する。」
トシがはじめちゃんを連れて、赤坂の勝邸に俺を訪ねて来たのは二月の末日。
「うん、それはいいけどさ、トシ、何その恰好。あはは。」
そのトシは髷を切り、ズボンにチョッキ、それに背広を着た洋装姿。最近、お偉いさんの中にはそういう格好をする人も増えてきたが、身近なトシのその恰好に違和感を禁じえなかった。
「だよね、新さん。僕もおっかしいよって言ったんだけど、土方、いや、内藤さんが聞かなくって。隊士たちにまでズボン穿かせてるんだよ? 」
「おめえらも鳥羽伏見で思い知ったろ? これからは武士のまんまじゃだめだ。兵士にならなきゃならねえんだ。みんなで鉄砲を担いで、穴掘りだろうが何だろうが勝つためには何でもやらなきゃならねえ。まずは何でも形から入らねえとな。」
「けど、そんな恰好じゃ下に鎖帷子も着込めないじゃん。」
「薩長の奴らはそんなもんは着ちゃいなかった。そもそも鉄砲で撃たれりゃ鎖なんぞは役に立たねえさ。」
「けどさあ、最後はやっぱり刀だよねぇ、はじめちゃん。」
「うん、鎖は着込んでおかないと。」
「そりゃあな、旦那や斉藤のように大根を斬るみてえに人を斬れる奴らは鉄砲なんかより、刀を持ったほうが強いのかもしれねえが、俺を含めた大半の奴らはそうじゃねえ。弱えから鉄砲に頼り、頭を使うんだよ。」
「ま、トシは弱いからね。」
「うん、そうだよね。」
「あのなあ、あんたらが特別なの! 俺は普通! 弱くないの! わかる? 」
「けどさ、うちの連中は鍛錬が出来てれば鉄砲に撃たれても死なないって。現に安次郎なんか頭撃たれて平気だったからね。」
「すごいよね、あの人たち。あの激戦でも誰も死んでないし。」
「あー、もういい。そこと比べられちゃなんも言えねえ。ま、とりあえず甲府にいってくらぁ。」
「うん、はじめちゃんは大丈夫だと思うけど、トシは気を付けなきゃね。そんな目立つ格好してるんだから。」
「あっ。」
「そうだね、鉄砲は内藤さん狙ってバンバンくるだろうし。」
「えっと。着替えたほうがいいかな? 」
「ほらほら、そんな暇ないんだろ? 大丈夫、頭を撃たれようが腹を撃たれようが気合が入ってれば死なないらしいし。」
「そうそう、いくよ、内藤さん。んじゃ新さん、またね。」
装備を改めた新選組は甲陽鎮撫隊として三月一日、出撃した。
三月二日、海舟は三人の客を屋敷に招いた。
「新九郎、こいつらはな、御用盗なんぞと称して江戸を荒らしまわった極悪人よ。おめえも聞いただろ? 幕府を煽って薩摩屋敷を襲撃させた張本人って訳だ。」
「あー、そう、なら斬っちゃわないと。」
「馬鹿かおめえは。その斬られる前にわざわざオイラが連れ出してきたんだよ。」
「だって悪いことしたんだろ? 極悪人って言ったじゃねえか! 」
「そうだけどそうじゃねえ! いいか、こいつらにはその悪事の分、役に立ってもらう。」
「何言ってんの? 悪いことしたやつらをきちんと裁けなかったからこうなってんだろ? 」
「おめえは相変わらず融通聞かねえ野郎だな! 」
「あんたがそうやってなんでもあいまいにするからこうなってんだよ! 長州だってそうじゃねえか! 」
「んだと! てめえみてえにすぱすぱ斬っちまったら、話し合いもなんもできねえだろうが! 」
いつも通りのつかみ合い。俺たちはわーわーと言い争った。
「あのぉ、」
「なんだ! 今忙しい! 」
「あれれー。話しあいするんじゃなかったっけ? 余裕のない奴はこれだから。」
「うるせーよ! おめえは! んで、益満、なんだ。」
その益満と言う男はなんとなく西郷さんを小型にした感じの男だった。ほかの二人が身を固くする中、一人平気な顔をしていた。
「いや、そのですね。オイたちの事で喧嘩っていうのは流石に気まずくて。松坂さん、でしたよね? 」
「うん、そうだけど。」
「あはは、聞いてた通りのお人で。オイはね、以前伊牟田と一緒で清河さんのとこに。」
「あー、伊牟田ね、居た居た、異人殺しの。あいつ元気なの? ちゃんと俺が斬るまで生きていてもらわないと。」
そういうと海舟がスパコーンと俺を叩いた。
「まあいい、益満、おめえにはちいとばかし話がある。ほかの二人は適当にくつろいでな。逃げねえ限りは何しててもかまわねえ。」
そう言われてその二人は戸惑った顔になる。
「ほら、勝先生の御恩情だから。」
益満にそう言われて二人は苦笑いを浮かべた。
海舟は海舟書屋の額が掲げられた自室に俺と益満を連れていく。そこに下女のお糸が珈琲を持ってきてくれた。このお糸も海舟の妾。娘を二人産んだが一人は夭折してしまい、逸と言う娘だけが残っている。
「勝先生、それに松坂さん。オイたちは死ぬこと前提に命を受けちょります。どこで斬られても一緒。帰るとこなんか。」
「ははっ、いい覚悟じゃん、流石薩摩隼人。なら後で俺が。西郷さんや一蔵さんにこの先会うことがあれば立派な最後だったって伝えてやるよ。」
「新九郎、おめえもいい加減にしろよ? こいつらはな、藩の命で強盗やらかしてただけだ。私利私欲じゃねえんだよ。」
「どうせ強盗ついでに女犯したり、人殺したりしてんだろ? 奪った金でいいもの食ってたんだろ? 誰の命だろうが一緒じゃねえか。」
「あの、松坂さん? 」
「なに? 」
「その、オイたちは確かに強盗はしもんした。けど、女に手を付けたり、殺しはしてないんです。奪った金にも手を付けてないし、飯はいつも芋ばかりくっちょりました。おかげで屁ばっかり出てたまらんです。ははは。」
「そうらしいぜ。ま、こいつらも武士ってとこだ。」
「ねえねえ、そういうのさ、すっごくよくない。悪人なら悪人らしくさ、ドーンとやらなきゃ。」
「そりゃあ、オイたちがやったこつは悪か事。藩命とは言え民のものを奪って。けど、そいでもオイたちは武士じゃ。薩摩兵児の誇りがあっとです。ま、自己満足っちゅことは判っとですけど。」
「あーもういいや、んで? この益満さんたち引き取ってどうしようっての? 」
「決まってるさ、西郷への使いに立ってもらう。問題は幕府から誰をつけるかって事だな。」
「そうねえ。いくら西郷さんがお人よしだって言っても、周りがねえ。」
「そういうこった。ま、生きて帰れるかは五分と言ったとこだろ。そこでだ、ちょうどいい奴がいる。」
「まさか俺じゃないよね? 」
「はは、おめえの出番は今少し先だ。ほら、山岡だよ、山岡。」
「山岡? ああ、なるほど。益満さんと一緒で清河の仲間だったしちょうどいいって? 」
「ま、それもあるけどな。あいつはあいつで優秀な奴だ。世がどうなろうがこの辺りで表に出しておかなきゃならねえ。使える奴を隠棲さしとく余裕はこの国にはねえからな。ま、無事に生き残れたら、の話だが。」
「山岡ねえ。どうも俺はあいつと相性が悪い。」
「ま、今は好き嫌いを言ってられる状況じゃねえ。益満、そういうことだ、頼めるか? 」
「わかり申した。オイが案内役を務めもんそ。」
益満さんたち三人はそのあとも勝邸にいたが、普通に安次郎達に交じって下男のように働いていた。
そして三月五日、その山岡が剣術の弟子であるという新徴組の村上俊五郎を連れて現れる。山岡は元は講武所の生徒、そしてうちの安次郎以下、臙脂羽織の連中もそう。そして安次郎達が先輩でもある。
「山岡ァ、腹も切らずにのうのうと。やはり貴様は鍛錬が足りん! 」
「そうだ山岡! ここで腹を斬れ! 」
「ちょっといい男だからって偉そうにするな! 」
そんな精神的攻撃をさんざんに受け、ようやく座敷に上がったと思ったらそこにいたのは俺。山岡は心底いやそうな顔をした。当然俺はここぞとばかりに嫌味を言う。
「ねえ山岡。どう? 今の気分は。」
「松坂先生。」
「最高だろ? お前の望んだ尊王の世になりかけてんだ。お前と清河の望んだ。ほら、最高だって言わなきゃ。将軍はクビ、徳川のお家も風前の灯。お前はこういうのを望んでたんだもんな。」
「ちょっとお前! なんだその言い草は! 」
「あっ? こいつ誰? 」
「俺は村上、村上俊五郎だ。あんたに斬られた新徴組だよ! 」
「あ、っそ。ならお前も斬っていいよね。強盗の仲間だもん。だろ? 山岡。まさか強盗まで庇いだてしねえよな? 」
「なめんな! 」
そう言って村上が殴り掛かってきたのでその腕をひねりあげる。
「お前さあ、生意気なんだよ。新徴組の分際で。」
「あんただけは絶対殺す! 」
「はは、大丈夫。お前はここで死んじゃうからね。」
そう言って村上を突き飛ばして刀に手をかける。そこを海舟と山岡に取り押さえられた。
「新九郎! いい加減にしねえか! 」
「なんでだよ。あいつはうちを襲ったろくでなしの仲間だろ? 」
「その件はおめえが十二人も斬り殺して片が付いてんだ! 」
海舟ががたがたいうのでその場は収めることにした。
「んで、山岡? どうなのさ。」
「松坂先生、私の望んだ世はこうではない。」
「ははっ、都合がいいね。けどお前らのやったことでこうなってる。わかる? 」
「新九郎、おめえは少し黙ってろ。山岡、おめえを幕臣と見込んで頼みがある。」
「はっ! 」
「おめえはうちにいる益満と共に、西郷の所に行ってこい。オイラが交渉を望んでるとな。」
海舟の言葉に山岡は黙って頷いた。
「だがこいつは命がけの仕事になる。生きて戻れるかは半々だ。やれるか? 」
「勝先生、私も幕臣です。幕命とあれば死を賭してでも。」
「そうかい、なら任せる。言っとくが失敗すりゃ幕府どころか徳川そのものが無くなっちまう。わかってんな? 」
「必ずや。して、松坂先生。」
「なに? 」
「戻りましたら一手勝負を。」
「へえ、少しは腕を上げたの? 」
「あなたに勝つ。そのためだけにこの数年を費やしました。いつぞやの屈辱を必ず。」
「ま、いいさ。うまい事命を果たせたなら俺もお前を認めてやるよ。少なくともクズじゃないってね。」
「そのお言葉、お忘れなきよう。」
その日、山岡は益満さんと共に西郷さんに会うべく東海道を西に向かう。
「さって、あとは山岡次第。うまく戻ってくりゃあとはオイラの仕事だ。新九郎、おめえにも働いてもらうことになる。」
「ま、どうでもいいけど。あんたの算段は付いてるんだろうな? 」
「ああ、少なくとも徳川のお家は守る。オイラも男谷の男だ。それを忘れちゃいねえよ。」
そう言って海舟は残った村上になんやかんやと言い含めてから帰した。
その翌日、海舟は俺を用心棒代わりに連れ歩き、江戸市中の火消や博徒、いわゆるならず者の親分衆を訪ねて回る。そういった連中は義侠心に厚く、金やお上の威光では動かない。だから海舟が直接訪ねて回るのだ。親分、と呼ばれる人たちはみんなひとかどの人物だった。
――だが子分はそうではない。俺は海舟が親分と話し込んでいる間、生意気な目を向けるろくでなしを次から次へと殴り倒していた。新徴組十二人斬りを海舟に聞いた親分衆がすがるようにしてそれを止める。
「ま、ああいうやつらはおめえと一緒だ。わからねえなら殴るしかねえ。おかげで話もすんなりまとまったさ。」
そして三月七日、憔悴した顔のトシがやってくる。
「勝先生、甲府はやべえ。すでに薩長の新政府軍は甲府城に入城してる。鎮撫の為の団体だって文こそ出したが相手がどう受け取るか、判らねえんだ。いくさとなりゃ新選組なんざあっと言う間に踏みつぶされちまう。援軍を、援軍をだしちゃくれねえですか? 」
「土方、いや内藤か。そいつは無理な話だ。オイラとしちゃ今、事を荒立てたくねえ。近藤、いや大久保がどうしてもって言うから行かせたんだぜ? 」
「そいつは判ってる! けれどこのままじゃ。」
「おとなしく引いてくるんだな。慶喜公は恭順だ。臣下のオイラがいくさ種を作るわけには行かねえよ。少なくとも今はな。」
それでもトシは引かず、あれこれ言い合う内に、甲府からの早馬が届いた。
「内藤、これを見ろ。」
トシがその手紙をひったくるように読み漁る。そしてがっくりと手をついた。その手紙を拾って読むと、そこには衝撃的な内容が。
甲陽鎮撫隊わずか一刻の戦闘で敗走。
それを見たトシは海舟に馬を借り、そのまま甲州に向かい駆けていった。
三月十日、山岡が戻ってきた。さすがに憔悴した顔をしていたがその眼光は鋭く、強いものだった。その山岡は総督府名義の書付、それに、今後の方針を箇条書きにしたものを持ち帰った。
「やるじゃねえか、山岡。これまでも幾人か使いを出したがまともに相手にはされなかった。おめえの胆力、正直頭が下がるぜ。」
「私は幕臣としての務めを果たしたのみ。賞賛されることはなにも。」
海舟はその書付をもって城に上がり、山岡は俺を誘って外に出て、昼飯がてらとりあえず近くのそば屋で二階の座敷を借りた。
「松坂先生、お約束通り。」
「ああ、お前の事は認めてやる。大したもんだ。」
そう言いながら天ぷらそばをすすると山岡はぼろぼろっと涙を流した。
「松坂先生、私は、己の間違いを認められず、ずっと意地を。この数年はあなたへの恨みを糧に、座禅と剣術に明け暮れて。」
「そっか。」
「私はね、幕臣として間違ったことをした。清河先生の仰ったことは確かに真理。ですがやったことは謀反です。あなたの言うように罪は罪。わかっていながらどこか、甘く考えていたのです。」
「俺はね、山岡、尊王だとか攘夷だとかそういうの、どうでもよかった。けど、京にでていろんなことがあって、ようやくみんなの言う事も理解したよ。俺は、満たされてたんだ。欲しいものは何もなかった。だから幕府があればそれでよかったし、禄高の分は働かなきゃならない。そう思ってた。」
「今は、ちがうのですか? 」
「うーん。いろんな連中と知り合うとね。海舟もそうだし、薩摩の西郷さんも長州の連中も。今がつらいから世を変えたい。坂本龍馬も高杉晋作もそういう辛い連中をみて、今の世は間違ってる。そう思ったんだろうね。俺もかつてはそうだった。部屋住みで誰にも相手にされなくて。けど、世が乱れたことで幕臣に取り立てられて、講武所が出来て役目ももらえた。そして妻も。
俺はね、山岡、あの頃が自分にとって一番都合のいい世だったんだよ。だからそれを壊そうとするものが許せなかった。」
「私も、私もです。己の才に自信をもち、何かを成し遂げたかった。清河先生のように己の才を世に現した人がうらやましかった。私だってあのくらい! ずっとそう思っていたのです。」
「あはは、でもあいつはちょっと変わってたよね。何がですか、何でですか?って。」
「あれは私も、殴ってやろうかと思いましたもん。」
「只さんに聞いたけど、あいつ、斬られるときまで、何でですか? って言ったらしいよ。」
「ふふ、清河先生らしい。けど、その佐々木先生も。」
「只さんはね、いくさの最中、鉄砲に撃たれた。武人としては最上の死に方さ。」
「そう、ですか。」
「で、西郷さん、どうだった? 鹿児島弁でごわすごわすって言ってた? 」
「ええ、それは大層な迫力で。私も必死に論じたてました。幕府は恭順、ですが、慶喜公の御首は差し出せない、そちらも武士であればわかるはずだって。」
「あの人もさ、根はいい人なんだよ。周りに合わせるため必死で自分を奮い立たせてる。本当はいくさなんかしたくないのに。」
「そうなのですか? 私には徹頭徹尾武人、そう見えましたが。」
「あはは、山岡からそう見えたって事はよっぽどそういう仮面をつけるのが上手くなったんだね。俺の知ってる西郷さんはさ、手ぬぐいでほっかむりして芋焼いてたもの。」
「そうですか。私はまだまだ人を見る目がありませんね。」
「いや、今回の事は立派なもんさ。さて、そろそろ俺とのケリを着けようか。」
「それではどこか道場に。私は剣術家、人斬りではありませんから。」
「そっか、なら健吉の所にでも行こうか。立会人は直心影流十四代、榊原健吉。文句はないだろ? 」
「ええ、望むところです。」
二人で健吉の道場を訪ね、立会人を頼んだ。健吉はふふっと笑ってそれを快く引き受けてくれた。
互いに防具をつけ、竹刀をもって礼をする。そして健吉の「始め! 」の合図と共に打ち合った。
「未だ私は追いつきませんか。」
山岡の剣は気迫鋭く振りも速い。勝ったとは言っても本当にギリギリだ。
「あはは、山岡、十分に強くなってるよ。こりゃあうかうかしてられないね。」
「そうですね、新さん。目指す頂きはまだまだ先、なのに後ろからはこうして追い立てられる。私も日々研鑽をしてますがもう新さんにも勝てる、とは言い切れません。」
「そういう年になったってことかね。俺たちも。」
「ええ、山岡さん。あなたの目指す先、見えましたか? 」
「いえ、己の未熟を思い知らされるばかりで。」
「あなたの目指す新さんの先にはあの、男谷先生がいらっしゃる。剣術家を志すのであれば、先はまだまだ。」
「榊原先生、私は、ずっと松坂先生への復讐を糧に! 」
「あなたであればいずれその先が。山岡さん、新さんは剣術家ではないのです。人斬りの道と剣術家の道はおのずと違うもの。」
「ですが! 」
「剣術は人を殺す術であるとともに、芸でもある。私はね、最近思うのですよ、剣術の最果てはどこにあるのかと。己に描いた男谷先生、その先生を打ち倒せればそれでいいのかとね。」
「芸とは? 」
「剣術家とは、己の腕を見せて門弟を集め、その謝礼によって生きていく。北辰一刀流を見ればわかるように。あれはすでに人殺しの術ではない。わかりますね? 」
「はい。あれは人を斬れぬ技。」
「しかし、千葉先生は剣術家としては誰よりも勝る。門弟の数は日本一を誇ります。山岡さん、あなたは人を斬るため剣を? 」
「いいえ、私にはそれが出来ぬと。ですが、武門に生まれしものとして、その覚悟だけは。」
「そうですね、人を斬る覚悟で竹刀を握る。すでに世は鉄砲、大砲の時代。おのずと剣の立場は低くなりましょう。そうした世で剣術家として生き残る。それには芸としての剣。それが重要。ひとつお見せいたしましょう。」
そう言って健吉は庭先に降り、竹筒をぽんと宙に投げた。そして抜き打ちにそれを斬りつける。
落ちた竹筒はころころと転がり、一拍あって二つに割れた。
「あはは、新さん、どうです? まだ先生のように二閃を放ち四つに、とはいきませんが。」
「やるじゃん。」
「山岡さん、こうしたことが芸。できたところで余計に人を斬れるわけでも何でもない。ただ、人の肝を抜き、門弟を集める力となる。小難しい剣理を百説くよりも、こうした芸一つ。そのほうが説得力があると思いませんか? 」
「榊原先生、誠に、誠にその通り。この山岡、まさに目から鱗が。」
俺と山岡は健吉の道場を後にする。山岡の顔はつきものが落ちたかのようにさっぱりとしていた。
「松坂先生、私は今日、生涯を賭して為すべき事を見つけられた気がします。尊王、攘夷、そうしたことは私でなくともできる人が。ですが己で練り上げた剣、それは私にしか出来ぬこと。榊原先生を見てそれが。」
「そっか。果てのない世界だけどお前の才ならきっと。」
「ええ、いずれ必ず。松坂先生、その時にはまた手合わせを。」
「そうだね。いずれ必ず。」
山岡は白い歯を輝かせて去っていった。ははっ、やっぱイケメンは好きじゃない。