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 健吉とは再会を約して榊原道場を後にした。そこで今井さんとも別れ、俺は赤坂の海舟の屋敷へと向かう。慌ただしいがこの先どうなるかもわからない。義理はすべて果たしておきたかった。


「あら、新さんじゃないですか! ずいぶんとご無沙汰を! 」


 海舟の奥方、民さんがそう言って出迎えてくれた。


「はは、ようやく江戸に戻れたんでね。海舟は? 」


「あの人はお城に毎日のように上がって。ま、夕方には戻りますよ。とにかく上がって。」


 民さんに招かれて座敷に上がる。そこで横浜から買っているという珈琲を出してもらった。


「これもあの人の趣味でね。ま、まずいもんじゃないけど、こういうことをしてるから異国かぶれだのなんだの言われるんですよ。」


 屋敷には小さな女の子が何人もいて、それがこわごわと俺を覗き見ていた。


「これ、何です! はしたない。」


 ぴしゃりと民さんに言われ、女の子たちは逃げていった。


「あれみんな海舟の? 」


「ええ、うちの女中に手を付けて。まったく困ったものですよ。長崎にも産ませた子が。世間じゃなんやかんやとはやし立てられていますけど、夫としては最低もいいところですよ。」


「あはは。」


「文句を言ったところで屁理屈じゃかないませんから。そこに行くと新さんは若いころはそりゃいろいろあったけど落ち着いたら奥方の律さん一筋。人ってのはわからないもんですよ。まったく。」


 珈琲を飲みながら懐かしいような、切ないような、何とも言えない気分でキセルを吹かした。このキセルも十七の年、目覚めたあの日からずっと愛用している。民さんが座を立ってしばらくすると、懐かしい声がした。


「新さん。」


 そこには俺と同じくいい年になったお順がいた。


「お順、元気だった? 」


 感動で少し涙があふれた。それを隠すように袖で拭く。その時、


 ――強烈な飛び蹴りが飛んできた。


「ふっざけんじゃないわよ! あんた、京都見廻組でしょ! だったらなんでうちの人が白昼堂々殺されてんのよ! あんたは何を見廻ってたわけ? あの人はあんたにとっても先生、守って当たり前でしょうが! 」


 強烈なビンタと共に文句が飛んでくる。パァンパァンと頬に激痛が。これだから口うるさい女ってのは! 


「す、少し落ち着こうか! 」


「あんたの面見て落ち着け? よくもまあ、そんなことが言えたわね! ろくでなしで腕っぷししか能がないのに、うちの人一人守れないだなんて! あんたには脳みそついてんの? 」


「いや、あれはね、俺たちの担当じゃなかったって言うか! 」


「言い訳はいい! あんたはあの人の弟子だった。だったら目を離さず守ってやるのが筋なんじゃない? 」


「当方にも務めと言うものがありましてね! 」


「知るか! このクズ! 」


 そう言ってお順は俺の足にアキレス腱固めを見舞った。


「あがががが! やめ! やめて! 」


「痛い? 痛いわよね。あの人にそういうところいっぱい習ったのよ。ぜーんぶあんたの体で試してあげる! 」


 象山先生も余計なことを! 


「あんたは、あんたは、誰にも負けない腕を持ちながら、あたしの大事な人一人守れないろくでなしよ! 」


 そう言ってしくしくと泣き始めたお順の肩に手を置くと、グーで殴られた。どっちかって言うと泣きたいのは俺! 


「ちょっと! 何とか言いなさいよ! あんたは泣いてる幼馴染すら慰められないの? 」


 うっわ、ハードル高えな。


「あのね、あれはどうしようもない事だったんだよ。象山先生もさ、京に出てきて天下国家に関わればああいうことにもなる。そんな覚悟があったんじゃないかな? 」


「だーかーらー、それを守んのがあんたら見廻組でしょうが! 言い訳すんなこのクズ! 」


 そう言ってまた俺を蹴飛ばした。ねえ、どうすりゃいいのこの状況。あ、わかった! 帰ればいいんだ! 


 俺は自らのナイスアイデアに満足し、お順の目がそれた隙に立ち上がる。だが回り込まれてしまった!


「ほぉーん、泣いてるあたしを置いて、帰るとはずいぶんいい度胸してんじゃないのさ、新九郎。」


 お順は指をバキバキと鳴らしながらそう言った。


「あ、いや、当方としてはそんなつもりはさらさら! 誤解だから! 」


「誤解かどうかはあたしが決める! 小さなころみたいに泣かしてやるよ、新九郎! 」


「やめ、やめてー! 」


 俺がパイルダーオンされる前の新九郎にはそんな過去が。そういえばそんな記憶がうっすらと。だから俺はお順が、そして似た感じのさなが苦手なのか。


「ねえ、知ってた? 新九郎。死んだお父さんも兄さんも、あたしをあんたの妻にって。」


 くそっ、なんてこった! 小吉め、ほんとあいつは碌なこと考えねえ! 


「ほら、黙ってないで何とか言いなさいよ! 嬉しいだろ? あ? 」


「あ、あははは。」


「なんじゃそりゃ! あたしは嬉しいかって聞いてんだよ! 」


「いや、そんなこと、象山先生に悪いし! 」


 そう言うとお順はまたぐすぐすと泣き始める。面倒くせー! こいつ、すっげー面倒くせー!


 俺はふうとため息をつき、煙草をキセルに詰めて火をつけた。すると恐ろしい形相のお順が俺の髷をつかんだ。


「普通はここでぎゅっと抱きしめんだろ! おう、新九郎、なめんのも大概にしろよ? 」


「だって、そうしようとしたら殴られたじゃねえか! 」


「さっきと今は違うんだよ、クズが。女心もわかんねーのか! のんきにキセルなんぞ吹かしやがって! 」


 そんな地獄のような時間が続き、ようやく救世主が現れた。


「お、新九郎じゃねえか、無事で何よりだ! おいら、心配したんだぜ? 」


「今現在が無事じゃないから! 海舟! お順を何とかしろよ! 」


「ははっ! 仲睦まじくて結構じゃねえか。」


「てめえ、本格的にイカれてんのか? 」


「おいおい、オイラはなあ、今日付けで陸軍総裁だ。イカれてるとは失礼なものいいじゃねえか? ん? それにお順は瑞枝と名を改めた。これからはそう呼んでやってくれ。んじゃ、オイラは疲れたから風呂入って寝る。おめえも今日は泊っていけ。んで明日はオイラと一緒に城に上がるからな。」


「おい! ちょっと! 俺は? 俺、飯も風呂もまだなんだよ! 」


「あーそっか。んじゃ瑞枝、その辺も頼まぁ。」


「ええ、兄さん。任せといて。」


 そう言い捨てて海舟はぱたりと襖を閉じた。



 翌朝、俺は海舟に連れられて登城する。一睡もしていないのでフラフラだ。


「んで、どうだった? 瑞枝の具合は。」


「ばっかじゃねえの! 自分の妹だろ? ちなみにそういうことはしてないからね。俺には律っていう妻がいるの! 」


「え、やってねえの? おめえはほんっとダメな奴だな! 」


「なんでダメとか言うかな。」


「あのな、新九郎。あいつは昔っからおめえの事が好きだった。今は後家になっちまったから娶れとは言わねえが相手してやるぐらいかまわねえだろ? 」


「あのね、俺もお順、じゃなくて瑞枝の事は嫌いじゃないけど、そういう関係にはなりたくないの。」


「ま、その辺はおめえらの事だ。口は出さねえよ。だがな、瑞枝に変な男でもついちゃ困るんだ。江戸のいる間だけでも顔出してやっちゃくれねえか? 」


「まあ、そのくらいなら。」


「よっしゃ、それで決まりだ。おめえはしばらくうちで暮らせ。いろいろやってもらうこともあるしな。」


「はいはい、陸軍総裁殿。」


 城に上がるとそこに、見廻役の岩田織部正、それに今井さん。それと新選組の近藤さんとトシがいた。一同は陸軍総裁、勝安房守に頭を下げた。その海舟の脇に俺は座らされる。


「ん、大儀である。一同、鳥羽伏見では見事な勇戦であった。」


 何を偉そうに、と思いながら海舟の顔をのぞき込む。すると海舟は咳ばらいをして口調を改めた。


「あー、まずはごちゃごちゃした組織を改めねえとな。岩田さん。」


「はっ! 」


「あんたは遊撃隊頭だったな。それを改め、見廻組頭とする。」


「ははっ! 」


「ただし、そこの今井さんと、この松坂新九郎は見廻組の役目を外す。」


 海舟がそういうと岩田織部正はにんまりと嬉しそうな顔をした。


「ははっ! 」


「んで、見廻組は七戸藩邸を屯所として、そこで洋式調練と江戸城の警備にあたってくれ。」


「はっ! お役目申し付かりました! 」


「ん。んで新選組だがあんたらは怪我人を神田の医学館へ、んで元気な奴は鍛冶屋橋の若年寄屋敷に移んな。」


「はっ! 恐れながら勝総裁! 」


「なんだ? 」


「我らはまだ戦意旺盛にて、再戦の機会を! 」


「ああ、そいつも考えとくさ。」


 近藤さんの問いに海舟は心底めんどくさそうにそう答えた。


「とにかく、しばらくは養生してくれ。んじゃ解散。」


 そう言って今井さんと俺だけを残し、他を散会させた。


「で、あんた、今井さんだっけ? 」


「はい。」


「あんたには別の事をしてもらう。古屋佐久左衛門は知ってるな? 」


「ええ、神奈川奉行所で一緒でしたから。」


「その古屋を助けてやってくれ。幕府歩兵も鳥羽伏見で頭だったものがやられちまって、ポロポロと脱走なんかも相次いでる。古屋があんたをご指名だ。」


「しかし、その、松坂先生は? 共に戦ってきた仲ですし。」


「はっ、こいつを混ぜちゃなんもかんもしっちゃかめっちゃかにされちまう。あんたも付き合い長いなら知ってんだろ? 」


「ですが、」


「ま、こいつはオイラの親族でもある。悪いようにはしねえさ。な、古屋を助けてやってくれ。」


「はい、承知しました。」


 そう返事して今井さんはさがっていった。


「んで、俺は? 」


「おめえはうちでしばらくごろごろしてろ。あのあぶねえ配下たちはしばらく見廻組としておいときゃいいさ。岩田がよほど馬鹿じゃねえ限りほっとくだろうしな。」


「あー、危険だね、そういう考えは。あんたさ、いっつも詰めが甘いんだよ。だから薩長にここまで押し込まれるんだ。」


「仕方ねえだろ? ずっと上方にいられたわけじゃねえし、龍馬がまさかあんな余計なことをするとは思わなかったんだから。んで、龍馬やったのはおめえか? 」


「またその話? もううんざりなんだけど。」


 仕方なく俺は龍馬について海舟に語った。


「ふっ、なるほどねえ。それじゃ誰も責められねえ。まったく、あの野郎もいい時に死んじまいやがって。」


 そのあともなんだかんだとお偉い様との会合につき合わされ、あくびもできない窮屈な時間が続いた。そして海舟の屋敷に帰ると、海舟のもくろみの甘さがもろに出た。そこにいたのはうちの連中、臙脂羽織の二十五名だ。


「隊長! もう、ほんまたまらんかったわ。」


「一郎、どうしたの? 」


「岩田のアホが今からは勝手が利かんから、覚悟しろ。とかなんとか言いよりますんや。」


「んで? 」


「こういう事ですよ、隊長殿。」


 安次郎が胸の前に腕を突き出して拳を握った。


「ああね。」


「そういうことですわ。あ、勝さま、お世話になります。よろしゅうに。」


「あ、うん。そう、そうね。オイラの読みは甘かったね。」


 とりあえず本宅に安次郎以下が寝泊まりし、瑞枝の離れに俺と一郎、それに敏郎が住み着いた。民さんは冷たい目で俺を見ていたし、瑞枝は殺意を籠めて俺をにらんだ。だが、数日もすると二人の顔が柔らかくなる。何しろみんな働き者。それに気が利くのだ。


 その間俺はずっと海舟のお供。海舟は海軍奉行並、そして陸軍総裁、さらには若年寄次席、とあれもこれも重職を任される。その忙しさは目の回るほどだ。幕閣として会議に出たと思えばフランス公使を訪ね、翌朝にはフランスの軍事教官を訪ねる。かと思えばアメリカ留学に出したせがれに為替で大金を送ったりもする。

 そして二月に入ると幕府歩兵たちが続々と船で江戸にやってくる。脱走兵も相次ぎ治安も乱れる。そこに来て五日の日には四百の兵が武装したまま脱走した。陸軍総裁の海舟は俺を連れて馬で大急ぎで追いかける。俺は慣れない馬に乗せられてそれを追った。脱走兵たちは容赦なく鉄砲を撃ってくるのだ。俺が飛び込んで三人ほど斬り捨てるとおとなしくなった。そこを海舟が説得、連れ戻しに成功する。


 そして二月の十一日、徳川慶喜は各総裁を集め、新政府への恭順を宣言した。

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