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 久しぶりに訪れた北野天満宮にある観音寺。そこには元気な赤子の泣く声が響いていた。只さんのせがれ、高である。俺はその日、律と共にお祝いをもっていった。すっかりとろけた顔で高を抱く只さんと、ややきつそうにしている奥方の七重さん。なんか見ててほっこりする。


「新さん、俺ね、少し頑張ってみようかなって。」


「何を? 」


「出世。うまくすれば見廻役ぐらいにはなれるんじゃないかなってさ。この高に残してやれるものは多いほうがいいし。」


「あはは、ま、できそうだよね、普通に。」


「そしたらさ、新さん、俺の後、見廻組の事、頼めるかな。」


 只さんはあばばばと高に向かって舌を出す。だがまだ生まれて数か月。そこまでの反応はなかった。その高を後ろに控えていた乳母に渡し、その乳母が去るとキセルを取り出して火をつけた。


「で、どう? 」


「ははっ、冗談。俺はね、今がちょうどいいの。それに大勢の差配なんかできないし、人を多く抱える立場になれば、」


「なれば? 」


「信条が狂う。只さん、俺はね、出世なんかどうでもいいんだ。亡くなった親父殿と交わした約束。男谷の男として恥じない生き方ができればそれで。人を多く抱えればどうしたって妥協するところが出てくるだろ? 」


「新さん。」


「いずれ死ぬときにさ、親父殿、男谷精一郎と妻の律っちゃん。この二人に認めてもらえる生き方をしたい。俺はね、それが七分。」


「残り三分は? 」


「そりゃあ俺だっていろいろ贅沢もしたいし、金だって無いよりはあったほうがいい。けれどそれは律と一緒じゃなきゃ意味がない。」


「はははっ、そっか。なら仕方ないね。今井が来るのを待つしかないか。」


「今井さん、いつごろになりそうだって? 」


「うーん、異勤命令自体はもう出てるんだけど旅費の支給が遅れててね。それで手間取ってる。」


「ま、今井さんならうまくやれるさ。」


 秋の虫が鳴き始める頃、俺たちは天満宮を後にした。


「あー、もう九月かぁ。」


「新九郎様? その、わたくしも。」


「ん? 」


「お子が欲しゅうございまする。」


「そっか。」


「その、わたくしは石女うまずめなのではないかと。」


「そんなことないよ。多分ね、今はさ、俺が欲しいと思ってないから。」


「そうなのですか? 」


「もう少し、律っちゃんには俺だけのものでいてほしい。そうだなぁ、世が落ち着いて、江戸にもどった時には。」


「ふふふ、そうなれば、わたくしがお子を孕むまで離してあげませんから。」


「そうだね、そうなったらいっぱい産んでもらうさ。こっちで生まれて一郎みたいな言葉遣いになったら嫌だろ? 」


「ですね、イラっとするかも。」


 実際のところ世の流れはいよいよ波乱含み。薩長土佐は明らかに幕府をつぶす、そんな気配を隠そうともしていない。いよいよ明治維新、そうなれば俺はきっと最後まで幕府方として戦う。例え結果がわかっていようともだ。律だってその時には身軽なほうがいい。子は後でも作れるが、律に何かあれば俺の人生は無意味なものになってしまう。


 その九月の下旬、トシが訪ねてきた。


「旦那、ちいとばかし話がある。」


「ん? どした。」


「今の情勢、どう思う? 」


「ま、あまりよろしくはないね。」


「薩長どもが幕府を討つ、なんてことになりゃこの辺りも無事じゃ済まねえ。事によっちゃ江戸だって。」


「だろうね。」


「そこでだ、ここらで一つあんたに恩を返させちゃくれねえか? 」


「恩なんて別に。」


「こいつは俺だけじゃねえ、斉藤とも話した結果だ。」


「ま、いいけど? 」


「俺はな、近々江戸に下って新たに隊士を集めて回る。そん時に奥方やここの連中も一緒にってな。向こうに行ったら俺の義理の兄貴の家に居りゃあいい。いくら薩長だって多摩の田舎にゃあ攻め寄せねえさ。」


「ははっ、ずいぶんと弱気じゃん。」


「最近な、近藤さんがお偉方に交じって周旋事をやってんのは聞いてるか? 」


「ああ、なんかいろいろ意見言ってるらしいね。」


「――そいつが理由さ。いっくら幕府が調子がよくねえって言ったって、あの人よりはましな連中がごろごろいるはずだ。いや、そうじゃなきゃならねえ。それがあんな田舎道場の道場主が偉そうに名士気取りだ。」


「ははっ、確かに。」


「笑い事じゃねえさ、確かに俺らは手柄も上げた。だからってあんなのがブイブイ言わせてちゃ、幕府もお先が見えるってもんよ。だからな、旦那。きっとこの先はうまくいかねえ。すっころぶ前に杖はついとくもんだ。だろ? 」


「そうだけど、迷惑じゃない? 」


「何言ってんだ、いいか? 田舎の名主屋敷ってのはアホみたいに広いんだ。奥方様たちだけじゃなく、鍵屋の連中が来たところでびくともしねえよ。とにかくだ、恩のある奥方様に何かあっちゃ俺たちも気張り甲斐がねえ。」


「そっか、そうだよね。道中だって何があるかわからない。トシがついててくれるなら。律っちゃん! 律っちゃん! 」


 はーい、と姿を見せた律に俺は今の話を噛み含めるように聞かせていく。


「しかし、それでは新九郎様のお世話が。」


「俺は大丈夫。いざともなれば一郎たちと暮らしたっていいんだ。」


「奥方様。いざって時に旦那があんたの事を気にしねえで戦える、そいつは大事なことだと思うぜ? 」


「そうですね。新九郎様の為とあれば。」


「いよいよの時には鍵屋の女将たちも呼べばいいさ。田舎暮らしってのもわるいもんじゃねえ。」


「わかりました、トシさん、お世話になりますね。」


「ああ、あんたらには恩がある。少しでも返せりゃそれこそ御の字って奴よ。斉藤もそうしろって言ってるしな。」


「まあ、はじめさんまで? 」


「俺もさ、健吉のところ、とも考えたんだけど。健吉がいくら強くても火が回っちゃどうにもならない。トシの案が一番だよ。」


「だな。」


「はい、新九郎様の仰る通りに。ですが、新九郎様? こちらが落ち着くようであればすぐにでも。」


「もちろんだよ。」


 数日後、律は迎えに来たトシたちと一緒に江戸に向かった。誰もいない屋敷というのは涙が出そうなほどに寂しかった。なので俺は引っ越しをして、屯所近くの組屋敷に移り住んだ。ここなら飯の支度も洗濯なんかもみんなで雇った下女がしてくれる。飯は気に入ら無ければ外で食えばいいのだ。


 普段のこまごまとした面倒は隣の部屋に住む一郎や若い世良敏郎がやってくれる。二人とも何気に気が利いて助かるのだ。が、


「一郎さん、それで、あの茶店の女、どう思います? 」


「敏郎、まだまだやな。あれは見た目だけや。抱いたらスッカスカや、きっと。」


「そうですか? 俺はあんな感じが清楚でいいと思うんですけど。」


「っていうかさ、お前ら自分の部屋に帰れよ。」


「ええやないどすか。隣なんやし。そないなつれないこと言わんでも。なあ、敏郎? 」


「そうですよ、先生。それに俺はみんなから先生のそばについてよく学べって言われてますし。」


「なんかさ、お前らの会話って、すっごく童貞くさいの。もうね、ぷんぷん匂うくらい! 」


「ど、童貞ちゃうって言うてますやろ! 」


「そ、そうですよ! いくら先生とはいえあんまりです! 」


 結局二人は俺の部屋に居ついてしまい、共同生活を始めることになった。


 月が明け、十月に入って数日するとついに今井さんがやってくる。格としては遊撃隊頭取。なので見廻組でもいきなり肝煎だ。


「新さん、お久しぶりです、佐々木さんも。それに吉太郎も。」


「うむ、今井。よく来てくれた。お前にはいろいろとやってもらうことがある。」


「なんでしょう、佐々木さん。」


「まずは俺の補佐として全体の差配を。後の事はそれからだ。」


「わかりました。非才の身なれど力を尽くしましょう。」


 只さんはもうにっこにこ。今井さんに面倒事を押し付ける気満々だ。その今井さんは単身赴任。やはり俺たちのいる組屋敷に住まう事になる。今井さんは何をするにも器用でちょっとした事なら飯の支度から繕い物まで何でもできる。あっという間にみんなの人気者。一郎も敏郎もすっかりなついてしまう。


「それで、神奈川にいた時は異人殺しがありましてね、私はずっとその事件に掛かり切りでした。」


「へええ、異人殺し、とはまた大そうな話や。」


「俺なんか見たこともないですよ! 」


「昔、新さんと二人、お役目で横浜に行ったことがありましてね。」


「先生とどすか? 」


「ええ、新さんは元は佐久間象山先生の五月塾の塾頭をしてましたから。」


「え、ほんまに? 」


「何それ。俺が塾頭じゃおかしいわけ? 」


「い、いやそうやないどすけど、なあ、敏郎? 」


「意外ではありますよね。」


「ちゃんと異国の人とも言葉を交わして役目を無事務めたましたよ。新さんは。」


「ほぇぇぇ! 先生、すっごいどすなあ。」


「剣だけでなく、学もあるんですか。さすがですね。」


「いやあ、それほどでも。」


 そのあとも今井さんはいろんな話を一郎たちに面白おかしく語り聞かせ、いつまでも帰らない。


「今井さんもここで寝泊まりしたらどないどす? 」


「あ、いいですね。俺もそう思いますよ! 」


「そうですか? ではお言葉に甘えて。」


「いや、甘えなくていいからね。普通にみんな部屋に帰ろうよ。」


「先生は照れてるだけどす。さ、敏郎、布団を用意せな。」


「はい! 」


「ねえ、それはそうと今井さん、奥さんは? 」


「いやあ、恥ずかしながら独り身でして。」


「ははっ、そうなんだ。」


 一郎たちが布団を運び入れると今井さんはいそいそと着物を脱ぎだした。


「私、裸じゃないと眠れなくて。」


 いや、おかしいから。もう十月だからね。着物を脱いだ今井さんの腕は健吉の弟子らしく、ものすごく太かった。


「そしたら今井さんは先生の横で。古い付き合いなんやし遠慮せんと。」


「そうですか? すみませんね。」


 こうして男四人、むさくるしい生活が始まった。うち二人は童貞で、一人は変態かもしれない。たすけてー!!


「ほら、新さん! そんなところにご飯粒つけて。一郎さんも敏郎さんも急がないと。」


「「はーい。」」


「それじゃ私は先に出ますからね、ちゃんと戸締りするんですよ。」


「「はーい。」」


 そういって今井さんは着替えを済ませると屯所に出仕する。なにあの人、お母さん? 


「いやあ、今井さんは大したもんどすなぁ。敏郎、ああいう人にならなあかんよ? 」


「ですね。気が利いて、何でもできて。」


 いや、多分それは童貞街道だと思うけど。


「さ、先生もいかなあきまへんやろ? 」


「えーっと袴はこれで、足袋はこれ、っと。一郎さん、俺、洗濯もの出してきますね。」


「あ、これもたのめるやろか? 」


 うーんと思いつつもそんな日々を過ごしていると、十日の日に見廻役から通達があった。本日より見回りは完全武装。一隊に三名は小銃を持つように、とのことだ。そして非常時には中売立門、蛤御門より禁裏に入り、警護に当たれと。武装するのは面倒だったが通達とあれば仕方ない。鎖帷子を着込み、その上に臙脂の羽織を羽織った。そして小銃を肩に担がせ巡回する。


 そして十四日、上役である見廻役の二人が直々に屯所に訪れ、「旧来の恩顧に報いるは今日、この時である。」と檄を飛ばした。その日、将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、幕府というものは無くなった。そのことで激発する幕臣がいないとも限らない。なので警戒を厳にせよ、ということらしい。


 大政奉還、つまり、幕府という機構を解いて、徳川家はただの一大名になった、そういうことだ。

 只さんが聞いてきたところでは、今月の四日、土佐藩から大政奉還の意見書が提出されたらしい。薩長は武力倒幕、そういう方向で進んでいたが土佐はそうではなかった。そこにまたあの龍馬の名が挙がる。

 なんでも龍馬は船中八策なるものを土佐の参政、後藤象二郎に示したのだという。その内容は幕府をなくし、朝廷に政権を返上しろ、だとか、議会を開け、とか、身分にかかわりなく登用しろだとか、そんな事を言っていたらしい。

 それで土佐はその一つ、大政奉還という形を将軍に建白した。無論このままじゃ薩長が攻めてくる、と前置きして。

 そして昨日、将軍慶喜公は在京している諸藩の重臣たちを集め、意見を聞き、今日、それを朝廷に申し入れたというわけだ。


 多分、慶喜公は政権を返上したところで経験のない朝廷に政治ができるはずはない、と踏んでいるのだろう。さらに薩長に対しては振り上げかけた拳を下ろすところをなくしたわけだ。ちゃぶ台返しが大好きな慶喜公としちゃしてやったり、ってなもんだろう。



 徳川二百六十年の歴史はこうして投げやりな感じで幕を閉じた。滅びるときはあっけない、それが正直な感想だった。


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