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「おいーっす! 」


「「おいーっす! 」」


「声が小さい! もう一度! おいーっす! 」


「「おいーっす! 」」


 五月塾の朝はこの掛け声で始まる。なぜこうなったかと言えば、いろいろ事情はあるのだが、簡単に言えばすっかりお順に調教された先生が、俺に自論を述べさせたことが始まりだ。


「新九郎。お前もそろそろ自分の論と言う物ができたであろう? 」


「え、いや、特には。」


「ははは、お前は遠慮する性質だからとお順も言うておった。誰でも自論を述べるは恥ずかしきものよ。なあ、みんな? 」


 先生がそう言うと一同が残酷な笑いを俺に向けた。いや、マジで勘弁。自論ってそもそも何ですか? 


 そんなこんなで無理やり皆の前に立たされた俺は何か言わねばならぬと頭をひねる。その時河井さんの厚い唇が目についた。


「やはりここは、しかとした挨拶あいさつ。それが肝要かと。」


「ほう、挨拶とな? 続けよ。」


「されば剣術に於いては気合の声は重要なもの。声を出すことによって気を昂ぶらせ、集中する。それは学問においても同じではないか、そう、愚考する次第です。」


「ふむ、ではどのような挨拶が? 」


「しからば、河井さん。こちらに。」


 突然指名された河井さんは何事かわからずにとりあえず立ち上がった。その河井さんの耳元で、ネタを仕込んだ。


「では河井さん、お願いします。」


 胆力たんりょくに優れた河井さんは、皆の前でもたじろぐことなく、堂々としていた。


「んっ、んんっ。しからば。おいーっす! 」


「ほら、みんな、答えて。」


「「おいーっす! 」」


「声が小さい! もう一度! おいーっす! 」


「「おいーっす! 」」


「いかがですか、先生。これを朝にすれば一日気を充実させて学問に打ち込めるというもの。」


「うむ、確かに。気合と言う物は何事においても重要だ。よろしい、河井、お前はこの係を務めよ。お前の掛け声で一日の皆のやる気が決まる。重要な役目である。」


「はっ! この河井継之助、一身を賭して勤めて参ります! 」


 と、まあこんな具合である。なぜかこれにはいつも白けた顔でいる麟太郎もノリノリだった。感情豊かな吉田さんは何をどうしたのか感動で涙を流している。


「実に、実に素晴らしき事! この吉田寅次郎、感銘を! そうですよね、学問においても大切なのは気合。それがなければ何事もおざなりに! 目から鱗とはこの事です! 」


「はは、よかったね。」


「持つべきものは友! そのことがよくわかりました。」


「寅次郎よ。この新九郎は吾輩が天塩にかけて仕込んだものであるぞ? 事の真理に於いては塾生のなかでも第一等である。」


「まさしく、まさしくそうでありますな、先生! 」


「諸君らも地元に帰れば先生と呼ばれることになろう。ここで学ぶ蘭学、砲術ももちろん重要ではあるが、まずは何より心がけである。学問は気合いだ! よいな、忘れるではないぞ? iedereen zegt! 学問は気合いだ! 」


「「学問は気合いだ! 」」


 ま、気合を入れても判らないものは判らない。しばらくすると俺はいつもの半眼になり、眠気との戦いを繰り広げていた。



 この9月16日、ついに島田虎之助先生が亡くなられた。精一郎さん、麟太郎をはじめとしたたくさんの人が葬儀に訪れる。俺と麟太郎は先生の奥さんを手伝って葬儀の裏方を務めた。墓の碑文は精一郎さんが選定し、皆で冥福を祈った。


 麟太郎と俺には遺書が残されていて、そこにはお順の仲人は名代として俺を立てるよう記されていた。


「なあ、新九郎。オイラたちも頑張らなきゃならねえな。多分この先、世は荒れる。そんな中、半端な事してちゃ、あの世で親父と虎之助先生にぶっ飛ばされらあ。」


「そうだね。せめて一人前だって言われるような生き方をしないと。」


「おめえは剣に秀でてる。オイラは多少なりとも頭が回る。けどな、そんなもんはおまけだ。オイラは吉田さんを見て思った。あの人のすげえ所は頭の良さじゃなく、志だ。てめえが何をしなきゃならねえかってのをきっちりわかってる。オイラたちに欠けてんのはそれだ。そりゃあ銭は欲しいし身も立ててえ。だが天下国家の為に何ができるか。そいつをきっちり見定めなきゃな。」


「そう言う事だ、麟太郎。お前の親父、小吉は公儀の為に力を尽くしたかった。機会に恵まれずにああはなったが、お前の言う、志ってのはきっちり持ってた。公儀がダメならせめて周りの連中を助けて回る。やり方はともかく、小吉の志は間違ってはいない。」


「精一郎さん。」


「新九郎、そして麟太郎。お前たちは小吉、それに虎之助の分まで公儀に尽くすのが勤めとなる。そう心得よ。」


「わかってるさ。親父のおかげでオイラは貧乏してるが、その事で恨んじゃいねえ。腹立たしいのは親父みたいに、こざっぱりと生きる器量がオイラにねえっていう事だ。」


「はは、ああした生き方は奴一人で十分だ。お前はお前、小吉も虎之助もお前には甘かったからな。その分わしが厳しくした。新九郎は皆が厳しく当たったからわしがいくらか甘やかしてやらねばな。いいか、二人とも、志というものは生きる上で大きな力ともなろう。だが間違った志を立てれば身を誤まる事にもなる。我らは男谷の男。まずは公儀を立て、それに尽くす。その前提の上で志を立てよ。」


「ああ、判ってる。」


「うん。」


「しかし、友を失くすというのは辛きものだな。」


 そう言って精一郎さんはぼろりと涙を流した。



 11月になると本格的に先生とお順の結婚話が進んでいく。23日に松代藩からの許しをもらい、12月には祝言となった。その15日には俺たちも手伝って、お順は先生のところに引っ越した。


 小雪降る中、俺は両国に引っ越した蔦吉の家でゴロゴロしていた。


「それでさあ、もうね、お順の奴が口うるさくて堪んないの。先生はデレッデレで一緒になって文句言うしさ。」


「はは、女ってのはね、多かれ少なかれそうしたもんさ。」


 そう言われてしまい、ぶすっとした俺は身を起こしてキセルに火を入れる。


「新さんはねえ、なんやかんやと世話を焼きたくなるお人柄なのさ。さて、暗くなる前に湯屋に行ってこなくちゃね。今夜は泊まってくれるんだろ? 」


「うん、寒いし。」


「なら、夕餉ゆうげはおいしいもんを拵えてあげるよ。今日はアタシもお座敷は無しだ。」



 そんなこんなで年が明け、嘉永は6年目。西暦で言う所の1853年だ。


 正月の祝いを道場でした後、今度は塾の祝いに顔を出す。先生の妻となったお順はくるくるとよく立ち働き、皆の膳を用意してくれた。小難しい挨拶もそこそこに皆で祝いの酒盛りを始める。


「新九郎さん。今年からは講義の最中に居眠りでもしたら、私が叩いて差し上げますから。」


 そう言ってお順は厳しい顔で俺を見る。


「まあ、お順、そんなに言うてやるな。新九郎はこれでいいのだ。」


「旦那様、それが甘いのです! 私の父は常に言っておりました。新九郎には厳しくせねば自分と同じになってしまうと。その父はすでに世を去り、兄は新九郎さんに強く出れません。であれば一族の務めとして私が! 」


「ふむ、そうであるな。吾輩もそなたの夫なれば新九郎の一族でもある。ビシビシと厳しく教えねばいかんな。」


「旦那様、素敵。」


「う、うむ、うむ、吾輩に任せて置け! 」


 ダメだこいつら。小吉イズムの信奉者たるお順は夫の象山先生を操って、年下のくせに俺の保護者を気取っている。夫婦となって以来、二人してあれこれ口やかましくてかなわない。当然その鬱憤うっぷんは麟太郎に向かう事になる。


「ちょっと! いい加減にしろよな! せっかく伯父上から解放されてみりゃ今度はお順がその代わりだ。ねえ、どうなってんの? 」


「しらねえよ。そもそも先生との縁談を持ってきたのはおめえじゃねえか。自業自得とはこの事だぁな。」


「あ? あんたの教育が悪いからああなんだろうが! 責任とれよ、責任! 」


「てめえが教育だなんて口にできる立場だと思ってやがんのか? 男谷の面汚しが! 」


「男谷の面汚しはあんたの親父! あいつに比べりゃ俺なんか可愛いもんだ! 」


「人の親父をとっ捕まえて、あいつ呼ばわりたあいい度胸だ。ああ? 」


 じっとにらみ合いどちらからともなく胸ぐらをつかみあう。それを周りの塾生がはやし立てた。


「弱いくせに口ばっかペコペコ回りやがって! 」


「おめえはろくでなしなんだよ! 自覚しろ、クズ! 」


 その時ガンガンと音がして、俺と麟太郎は頭を抱えて蹲る。見上げてみればそこに伯父上譲りの鬼のような顔をしたお順が、取っ手のついた鍋を手に見下ろしていた。


「兄さん、新九郎さん。お代わりはいる? 」


「「いえ、いいです。」」


「ほら、みんなも散った散った。」


 お順がそう言うと皆大人しく自分の席に着座する。それを見て満足したのかお順は意気揚々と台所に引き上げて行った。


「うむ、流石、吾輩の妻であるな。」


 先生は感心仕切りの御様子だ。



「なあ、新九郎。おめえの言った通り、あいつにゃもうちっと女らしさを仕込むべきだったかもな。」


「顔もなにも伯父上そっくりだもの。」


「あいつは親父が大好きだったからな。ともかく、こうなっちまった以上どうしようもねえさ。お順は俺の手を離れちまったからな。」


「しっかし、鍋でぶん殴るか、普通? 」


「おふくろがキレた時、よく鍋ぶん回して親父を追っかけてたからな。」


 それからと言うもの、講義の間、お順は座敷の隅で鍋をもって座り込む。俺だけでなく塾生の全員が緊張感をもって講義を受けた。


 道場の方では精一郎さんが、二十歳を迎えた俺をあちこち供にして連れて行く。男谷の門弟の中には上級旗本や大名などもいて、そちらに出向いて稽古をつけるのだ。その稽古をつけるのが俺の役目。相手の人数が多い時には健吉も一緒に連れてくる。

 その事もあって俺の名前もあちこちで知られるようになっていった。


 精一郎さんは俺に各家の若者相手に稽古を付けさせている間、その家の当主と難しそうな話をしていた。


「ねえ、精一郎さん。何を話してたのさ。」


「わしはな、前に申した通り、旗本を鍛え上げるための公儀の道場が必要だと思っている。今その建白書を拵えている最中ではあるが、あの方々にはご同意いただけるよう、説いて回っているのだ。」


「はあ、なるほど。」


「わしは麟太郎のように弁が立つわけではない。誠を尽くした言葉で話をするしかないのだがな。」


「そうですか、うまく行くといいですね。」


「こればかりはご老中の判断となろう。武にかたむきすぎれば乱を招く。そうお考えの方も多い。心の鍛錬、礼儀、そう言った物も合わせて鍛えて行かねばな。」


 ははっと笑う精一郎さんの髪にはいくらか白髪が増えていた。


「万一わしが世を去れば、男谷の男と言えるのはお前と麟太郎のみ。わがせがれどもは才に欠ける。お前の兄たちもそうだ。遠くは検校殿、近くはわしや小吉の成した事を形にするはお前たち。男谷の名をもって公儀を支える。それがわしらの悲願でもある。ゆめゆめ忘れるでないぞ? 」


「はい。」


 精一郎さんは昔から口癖のようにそう言った。幕府に尽くせ、公儀を支えよと。伯父の小吉も似たような事を言ったことがある。自分はご恩を返せなかった。おめえらがそれをやれ、と。

 まあ、幕府があるからこうして暮らせる。将軍がいるから天下は安泰。特に困ったことがあるじゃなし。あれ? それじゃなんで明治維新が? ははっ。薩長に着くなんて口にしたら袋叩きにされそうだよね。


 春が過ぎてまた夏が来る。俺は道場では師範として健吉と共に、門下生に稽古をつけ、塾ではたびたび、お順に鍋で叩かれていた。


「もう、お順! 鍋は人の頭を叩くもんじゃないって言ってんだろ? 」


「では包丁か鉄串に変えましょうか? 」


「いえ、それでいいです。」


 そんなやり取りをして過ごしているうちにセンセーショナルな事件が勃発する。黒船の来航だ。



 嘉永六年、1853年六月の三日、夕刻。四隻の黒船が浦賀沖に姿を現す。この報せは翌日には江戸市中にも届き、江戸はそれこそ上から下まで大騒ぎだ。いわゆるペリー来航って奴だね。


 どこに行ってもその話題。あの精一郎さんまでが俺にあれこれ聞いてくる。とりあえず塾に向かうと好奇心旺盛な先生と塾生たちは旅支度をしていた。


「どうしたんです? 」


「決まっておる。黒船とやらをこの目で見らねばな。」


「そうですよ、新九郎さん。せっかくの機会、この目で見ずしてどうしますか。」


 ノリノリの先生と吉田さん。他の面々も慌ただしく用意していた。


「明日の朝にはここを発つ。新九郎、お前も旅支度を済ませて合流しろ。よいな? このような事はめったにない。必ず目に収めねば。それをせずして何のための学問ぞ! 」


 江戸を発ったのが六月五日、浦賀に向かって出発する、先生は馬上。残りは徒歩だ。脱藩者の吉田さんや部屋住みの俺、それに貧乏旗本の麟太郎を除けば皆、藩の重鎮だ。それに歩かせ、一人だけ馬。こういう所が先生の嫌われるところだろう。河井さんなんかは苦い顔をしていた。

 元々馬乗りの身分でもない俺は、護衛を兼ねて先生の隣を歩く。馬の口を取った下男が早すぎぬよう、遅すぎぬよう、注意して馬を進ませていた。

 その日は品川で一泊。久々に先生の驕りで飯盛り女相手に愛の鍛錬をした俺はご機嫌だ。すました顔の麟太郎もお順への口止め料代わりに先生に奢ってもらっている。なんだかんだで女好きなのだ。


 六月七日、ついに浦賀に到着。沖合の黒船をこの目に収める。


「あれが蒸気船。帆ではなく、蒸気の力で舷側げんそくについた車を回し、進んでいるのだ。」


「なるほど、拙者は初めて見ましたぞ! 」


 先生の解説に河井さんは興奮気味。他の皆も口を開けて黒船を眺めていた。ここからでは遠くて細かいところまでは見えない。だが小舟を出して近寄ろうにも沿岸は幕府の役人で固められていた。


「新九郎、よっく見とけ。あいつらはなぁ、あんな船を仕立てて遠い海の向こうから来てやがる。しかも長崎じゃなくてわざわざ江戸に近えここにだ。その目的が何であれ穏やかなもんじゃねえのは確かだ。」


 麟太郎はぐっと力の入った眼で黒船を見ながら俺に語り掛ける。


「そうだよね、貿易がしたいなら長崎でいいもんね。」


「そう言うこった。」


「んじゃ何が目的なんだろ。いっくらすごい船だからってこの国を占領するには少なすぎだろ? 」


「そいつを見定めんのがオイラたち学問を学んだ連中の役目さ。ましてオイラは男谷の男。公儀が道を誤らねえようしっかりと進言する義務がある。」


 大きな船ではあるがなんとなく頼りない。速度だって大して出ないだろうし。中身が現代人の俺は黒船を大きいとは思ったが感銘を受けることはなかった。むしろあんな船で太平洋を渡ってきたことがすごい。


 今俺は間違いなく歴史の一大イベントを目の当たりにしている。しかしだからとそれが言って何? と言った感じだ。教科書を見た時のような重みは感じられない。あとからいろいろあって、あれが原因か、と思うからこそ意味があるのかもしれない。

 のんびりとした煙を吐く黒船は確かに周りとはミスマッチ。あれが戦艦大和なら、おぉぉっと思うのだろうが。


「どうしたのだ、新九郎。あれを見て何も感じぬか? 」


「先生、あれくらいなら先生だって作れるんじゃない? 大砲はよくわからないけど。仕組みを知ってて実物を見たんだ。あとは作ってみての話。難しけりゃ一隻かっぱらってくればいい。」


「ははは! 聞いたか? 新九郎はあれを見てたいしたことはないと言い切りおった。吾輩でも作れるとな。そうだ、男子たるものそうでなければならん。恐れおののく前にわが手で出来るか。まずはそれを考えねばな。

 新九郎の言や良し! 我らは塾に戻りてあれが作れるようにせねばならん。ご公儀とてあれがこの国で出来るとあれば遠慮せずに交渉に臨めよう。我らの責務は重いぞ? 」


「「ははっ! 」」


 黒船の絵姿を絵が上手なものが書き終えると俺たちは浦賀を離れた。帰り道では皆、熱っぽく黒船について語り合っていた。政治的、技術的、そして自分たちがどうすべきかを。


 俺は麻布でみんなと別れ、道場に帰り着く。着くなり精一郎さんに呼び出され、黒船についてあれこれ聞かれた。


「そうですね、遠目でよくはわかりませんでしたが、長さは一町(109m)もあるくらいの大船で、蒸気の力で動いてるんだそうです。」


「して、万一、万一の時は勝てそうか? 」


「象山先生はそのからくりを知ってる。もうちょっとよく見れば大砲がどこまで届くかだってわかるはずですよ。そうなりゃ剣術と一緒。相手の手の内が判ればやりようはあるでしょ。それに陸に上がってくるようなら俺たちが斬ればいい。」


「そうか、そうだな。学者の先生方はからくりを知ってるか。」


「判らないから怖いんですよ。それにいくら優れた大砲だって海からここまでは届かない。あとは陸に上がった奴らを斬ればいい。」


「うむ、そうだな。やはり公儀の道場は不可欠だ。よく見てきた、新九郎。」


 そう言って精一郎さんは手柄であると、いくばくかの小遣いをくれた。


「俺は細かいことまでは判りませんけど、異人であれ何であれ鉄砲玉を食らえば死ぬし、斬れば死ぬ。いざとなれば俺たちが。その為に俺たちは鍛錬をしてきたんだ。そうでしょ? 」


「うむ、そうだ。だが事を知らず、気もれていない幕閣ばっかくは怖がるかもしれん。いざとなればわしらが、そう申し上げてこよう。」


 そう言って精一郎さんはさっそくお城に出かけて行った。暇になった俺は湯屋に出かけ、髪結いに行き、そばを啜って離れに帰った。


 ――泰平の眠りを覚ます上喜撰じょうきせんたつた四杯で夜も眠れず。


 そんな言葉を聞いた気がするが、江戸の市中は至って平穏。黒船が来てからもう数日。あきっぽい江戸っ子は日常に戻っていた。そりゃそうだ。黒船をどうするかなんて考えるのは幕閣の務めで俺たちの役目じゃない。そう思っていた。

 だが折り悪く、黒船が去って10日後、将軍が亡くなられた。

 跡を継がれたのは亡き家慶公の子、家定公。そんな混乱の中、老中首座ろうじゅうしゅざ阿部正弘あべまさひろがとんでもない事を言い出した。


 七月の一日、各所に通達があり、その内容は今までにない斬新さ。なんでも、各大名や旗本で外交に対して意見があるもの申し述べよ。そんな内容だ。

 それに狂喜したのが麟太郎。旗本だし、意見を述べる資格はある。上司を通じて書付をもって意見を提出しろとの命もあったそうだ。

 意気揚々と麟太郎はそれに打ち込み、先生や、他の塾生も自分の藩邸で議論を交わしていた。


 残っているのは誰の家来でもない俺と、長州を脱藩した吉田さんだけ。その吉田さんは肥後に帰った相方の宮部さんに手紙を書いていた。


「ねえ、吉田さん。長州藩邸に行かなくていいの? 」


「私は脱藩者ですよ? 話を聞いてもらうどころか、国に返され牢につながれるに決まってます。」


「ま、そうなっちゃうか。けど国元の友達に自分の意見ぐらい。」


「そうしたいところですが、私とのつながりは相手にとっても迷惑となりましょう。事は長州だけでなく、この国すべてにかかわる事。私は長州で生まれましたが長州人ではなく、この国の人です。」


「ま、良いならいいけど。それよりさ、そば食いに行こうよ。小遣いも貰えたから奢るよ? 」


「それはぜひ。今しばらくお待ちを、これを書きあげたらご相伴しょうばんに預かりますから。」


 吉田さんと町に出てそば屋に入り、天ぷらそばを注文する。それと一緒に上等な酒も頼んだ。その他につまみとしてアナゴと貝柱の天ぷらも別に頼んだ。天ぷらそばは一杯32文と、かけそばの倍の値。けれども衣から染み出す油とそばの取り合わせが非常にうまい。これを知ったらかけそばには戻れない。


「ごちそうになります。」


 吉田さんは常に節制を心がけているようで、贅沢してるのを見たことない。まあ、脱藩して藩に追われる立場だから仕方ないのだろう。


「それにしてもさ、黒船の連中もアメリカだっけ? そんなところから遠い海を越えてよくここまでくるよね。」


 そばを食い終わり、一服つけて酒を飲む。吉田さんは煙草は吸わないので煙がいかぬよう注意した。


「彼らにはそうするだけの理由があるのでしょう。それは交易、あるいは武力をもっての占領かもしれません。」


「まあ、そうかもね。」


「此度の亜米利加アメリカ。それに国交のある阿蘭陀オランダ。ほかにも英吉利エゲレス露西亜ロシア。ああいう進んだ国がいくらでもあるのです。手をこまねいていてはいずれ清国のように。ご存知ですか? 清国ではいくさをもって開国させられ、あちらの民は自分の国なのに異国の奴隷のように扱われている。

 国が遅れ、人が無学のままではこの国もいずれ。そうならぬためには草莽そうもうの人材を集め、学ばせ、その力をもって国を強くせねば! 残された時間は少ないのです。」


「けどさあ、なんでその清国は負けちゃったの? あの船がいかに強くても何万とあるわけじゃないし、いずれは陸に上がって戦わなきゃならない。江戸には旗本八万騎。各藩にだって侍はたくさんいる。俺みたいなあぶれものだっているんだ。公儀にだって鉄砲もあるし、そんなに慌てる事なのかな。」


「新九郎さん、誰もがあなたのように剣を使えるわけじゃないんです。旗本八万とはいうけれど、あてになるのはごく一部。」


「うん、精一郎さんもそう言ってた。だから公儀の道場を作って、旗本を鍛えるんだって。」


「それは実に良い策かと。なるほど、そうした志が。流石は名高き男谷の先生ですね。」


 ふわっとしか歴史を知らない俺は不思議でしょうがない。アメリカだってロシアだってイギリスだって、この当時にこんな東洋の島国まで大きな兵力を運べるはずがない。大砲が優れていようがいつか弾は尽きるし、蒸気船と言う事は燃料も必要だ。

 遠くから来るとなればそうした物にスペースを取られ、兵員なんかは少なくなる。海岸沿いは大砲で被害を受けるだろうが弾が尽きるころに押し返せばそれで済むのでは? そう思うのだ。その疑問を吉田さんにぶつけてみた。


「そうですね。そうかもしれません。ですが私が黒船の立場であれば、まずは手近な島を獲ります。そこを拠点とし、どしどしと船を寄せて兵と物資を貯めていく。その間は黒船の大砲と鉄砲で守りを固めてしまえばいいのですから。そして十分な兵力、それに物資が整ったところで海沿いを攻め、町を占領。また、同じように繰り返せばどうです? 」


「うーん、そう言うのもあるのか。」


「例えば淡路などの大きな島を取られてしまえば我が国の船では取り返せない。異国の攻撃にさらされたままともなれば公儀は信を失い、あちこちで一揆が。そうなれば膝を屈するほかは。」


「なるほどねえ。」


「かつてこの国でも同じ事が。天下人となった織田信長は、今の大阪城にあった石山本願寺を攻め落とすのに、十年の時をかけています。何故だかわかりますか? 」


「十年って、その間食い物はどうすんのさ。」


「当時、天下最強とうたわれた我が毛利の水軍。これが本願寺に兵糧、弾薬、人員を運び入れていたのです。当時の織田は水軍が弱く、それを遮る事が出来なかった。だから本願寺を囲んでも穴の開いた桶に水をそそぐかの様な物。」


「で、織田はどうやって勝ったの? 」


「当時、誰も見たことがない鉄張りの軍船を仕立て、海戦に勝利を。海からの補給が出来なくなった本願寺はほどなく降伏。いいですか、新九郎さん。海を制することはそれほどに重要。

 彼らの持つ黒船。それがいかに恐ろしき力を持つか、知っておくべきでしょう。清国とてこの国の何倍も大きな国。それが一方的に負けたのですから。」


「はあ、なるほどねぇ。」


 この日、俺は初めて他人の意見と言うものに心底から感服した。


iedereen zegt……オランダ語。英語のeverybody sayを機械翻訳しました。 発音は知りません。


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