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 海舟は神戸の海軍操練所にいたのだが、京の方角が燃え盛るのを見て、慌てて船で大阪に、そして馬を飛ばして京までやってきたのだと言う。


「ま、ここでおめえに会えたのは良い機会だ。んで、静斎殿の具合はどうでえ? 」


「うん、もう。」


「そっか。そればっかしは仕方ねえや。おめえはあの人のせがれだ。死に目に会えねえのは辛かろうが役目をほっぽリ出したらそれこそあの世で合わす顔がねえ。オイラもそうだ。」


「判ってるさ。顔向けできないことはしない。俺は最後まで幕府のために働くさ。それが親父殿との約束だ。」


「そうだな。男谷の家は幕府に並々ならぬ恩義がある。そいつを忘れちゃ人じゃねえ。」


 律が茶を淹れてくれたので二人でそれを啜った。


「だがな、幕府はもう、独り立ちは厳しい状況だ。長州はともかく、薩摩、土佐、それに会津。いわゆる雄藩の支持を失う訳にはいかねえ。そう言う意味じゃおめえが西郷たちとうまくやってんのはいい事だ。オイラはオイラで諸藩の生徒を受け入れる事で海軍を通じて幕府の権威を高めるつもりだった。」


「だった? 」


「例の池田屋。あれにうちの生徒が混じってた。長州の幕府転覆の企てに。そうなりゃオイラの責を問うって話にもなりかねねえ。その挙句の果てが今回の変事ときちゃあな。」


「そんな話が? 」


「まあ、幕閣の中じゃオイラみてえな成り上がりが奉行だなんたと良い顔してんのが気に入らねえ、そう思う人もいるって事さ。金だって山ほどかかる。なのに、異国の船と戦うって訳でもねえんだ。先の話を説いても実感がねえんだろうよ。幕府だっていろいろ苦しいとこにきて、勝安房が無駄遣いしてるってな。」


「ま、判らない話でもないけど。なんせ、外国への賠償も幕府が肩代わりだ。」


「そうだな。オイラもそれは判ってる。けど船は絶対に必要だ。」


「それもわかるさ。ま、難しい所だね。」


「船も大事だが本当に必要なのはそれを操る人だ。シロウトに刀持たせてもどうにもならねえのと一緒さ。」


「けど薩摩は海軍に好意的なんだろ? あの、中村とか言うのを生徒に、って西郷さんも言ってたし。」


「ああ、西郷は信用できる。けどその上の久光殿がどう出るかわからねえ。良いかっこしたい、それが何より大事ってお人だからな。ま、こっち側にもそう言うのはいるからおあいこだけど。」


「誰? 」


「一橋殿だよ。ありゃあてめえが次の将軍、そうなった時の事しか考えてねえ。政策云々もてめえが主導出来ねえと平気で場をひっくり返す。年頭の参与会議がいい例だ。帝も開国に理解を示し、雄藩も越前候もそれで、って丸く収まりかけたところで突然の鎖国論だ。あれにはみんなあきれ返ったもんだぜ。要はな、薩摩の主導で物事が決まるってのが許せねえんだとよ。」


「そもそもあの人がしゃしゃり出なきゃ水戸も暴れる事もなく、井伊大老だって。」


「ま、そいつは仕方ねえ。ぱっと見出来がよく産まれちまったんだ。水戸だって担ぎたくなろうってもんさ。いろんなことがかみ合わなくなっちまったのが今の幕府って訳だな。」


「そうだね。俺は出来る事をやるしかないさ。海舟、あんたは俺よりもできる事が多いんだ。しっかりやってくれなきゃみんなが困る。」


「判ってるさ。んでな、龍馬の事だが。」


「ああ、あのバカは元気なの? 」


「今じゃあいつもいろんな所に顔が利く。なんせ人当たりが良いからな。脱藩の罪もオイラが土佐候に口きいてやって許しを得た。あいつにゃそれだけの事をしてやる価値がある。」


「へえ、あいつにねえ。」


「最近じゃオイラを唸らせるような事まで言うようになったさ。男子三日会わずばってな。ま、おめえは相変わらずだが。」


「ははっ、そう簡単に人は変われやしないさ。」


「んで、象山先生の事だが。」


「ああ、ひどい話さ。何日か前に偶然会って、軽く話をしたばかりだ。」


「あの先生にかかっちゃいまだにオイラも形無しだった。んでな、お順の事だが。」


「ああ、どうすんだろ。信州に残るのかな? 」


「いや、オイラのところに文が来た。葬儀や四十九日が終わったら江戸に帰りてえと。」


「そっか。田舎だし居づらいんだろうね。」


「ま、そういうこったな。んでオイラのところに。新九郎、おめえも江戸に戻ることあったら悪いが顔を見せてやってくれ。昔から仲のよかったおめえが顔見せりゃお順だって喜ぶはずさ。」


「そうだね、江戸に戻ったらそうするさ。いとこなんだし。」


「うん、そう言ってくれると助かる。」


 海舟はそう言って安堵したように茶を啜った。やはり妹の事は気にかかるのだろう。


「ま、それはそうと今回の一件で一番驚いたのは薩摩が参戦した事だな。長州は敵は会津のみ、そう公言してた訳だ。なのに薩摩に大砲ぶち込むなんてよ。」


「ん、ああ、ここだけの話、薩摩に大砲ぶち込んだのは俺。」


「は? 」


「ぼさっとしてたからね、景気づけに。もうさ、会津候にお仕置きされるし大変だったんだから。」


「あー、おめえはそういう奴だったよな。んでその事は薩摩は? 」


「その辺の適当な死体のっけてこいつが犯人だって大砲ごと薩摩に引き渡したから問題ないよ。」


「ま、いろいろ言いてえ事はあるが結果としては万々歳よ。これで薩摩は長州と手を組めねえ。長州からしてみりゃそんな事はしちゃいねえって言うだろうからな。知らねえことで頭は下げれねえ。あとはどこまで行っても水掛け論さ。いいか、新九郎。おめえはその事を一切口外すんな。こいつは幕府にとっちゃ大きなことだ。」


「ああ、判った。」


「それと西郷たちへの貸しの件だ。ありゃあいざって時まで使わせるな。それこそおめえの生き死にに関わるまでな。」


「そうなの? 」


「西郷にはそれだけの力があるって事だ。よっく覚えとけ。んじゃオイラはこの辺で。やる事だけは山ほどありやがるからな。」


「うん、気を付けて。あんたが象山先生みたいになっちゃ葬式が大変だ。」


「よく言うぜ。おめえこそ無茶やらかすんじゃねえぞ? じゃあな。」


 海舟はそう言って帰っていった。そのあとは律と風呂に入り、夕餉の時間まで哲学について論じ合った。無論使用するのは肉体言語だ。



「新九郎さま。新九郎さまたちのお働きは二条のお城でも噂でありました。律はもう、それが嬉しくて。」


「あはは、戦う事なら人に遅れは取らないさ。それだけの術と心得を親父殿に叩き込まれてる。」


「ええ、ええ、新九郎さまは義父上様の誇り、そしてわたくしの誇り。男谷の武を現すのは新九郎さま。」


「ああ、そうさ。他は何もできないけど親父殿の武名を汚すわけにはいかない。そして律っちゃんの前では恰好良くありたい。それが俺の望みさ。」


「はい。わたくしも新九郎さまにふさわしい妻でありたい。それだけが望み。ですから律の武勇もお見せせねば。さ、もうひと合戦。」


 そういう武勇では天下無双の律に俺は早々に討ち取られ、律の胸に抱かれていた。



 その翌日。長州の残党征伐に諸藩の兵、それに新選組が動員され、天王寺に籠る長州勢を打ち破った。さらに帝からは長州追討の勅命が降る。これで長州は朝敵となった。


 それはそれとして、この日、うちには一郎、安次郎を始めとした隊の連中が招かれて戦勝の祝いを行った。律は二条の城にいる間に隊の連中の妻女を完全に掌握。買い物、料理、それに宴席の世話と自分の手足のように使っていた。準備が整い、妻女たちもそれぞれの夫の側につく。無論、童貞の一郎は一人であったが。


 上座に座る俺の隣には律が。その律は凛とした声で一同に申し渡した。


「よろしいですか、皆さま。武士とは戦う事が本分。わが夫新九郎が指し示した先にいるものは何であれ必ずや滅する。判っておりますね?」


「「応! 全て滅する! 」」


「そして武家の妻は夫が万全に戦えるよう、家内を整える。いいですね? 」


「「はい、奥方様! 」」


「例え明日、この世のすべてが敵となろうとも、その全てを! 」


「「コロース! コロース! 」」


「ご立派なお覚悟を聴けて嬉しく思います。さ、存分にお上がりください。」


 そこにいるすべての人が好戦的な笑みを浮かべて酒や料理を口にする。俺と、一郎以外は。


「うふふ、皆さまやる気に満ちておられますね。流石は新九郎さまが鍛えし方々。」


 悪質な洗脳を見た気がしないでもないが、元から彼らはこんな感じ。気にするだけ無駄と言うものだ。しかし、律のカリスマというか、掌握力は大したものだ。顔を傾けるだけで妻たちの誰かがそれを察し、用を果たす。これが男谷の女と言う物なのだろうか。

 その律自身もあれこれ動いて酌をして回る。その都度俺が働きを褒めていた、とか講武所以来、信頼しているとかそう言う事を言って回る。相手もその妻もそれを聞いて嬉しそうに笑い、事ある時にはお任せをなどと言った。


「松坂先生、奥方はんもごっついお方どすなあ。みんな、ほんまに世を敵に回しても殺しつくしそうな顔をしとりますわ。」


「うん、ちょっと怖いよね。」


「ほほほ、一郎さんはまだまだ鍛錬が足りておられないのですよ。」


 不意に律に声をかけられた一郎はどきっとした顔をして苦笑いした。


「そうだぞ一郎、だからお前は童貞なのだ。」


「ど、童貞ちゃうっていうてますやろ! 」


「嘘を吐くな! 臭いでわかる。貴様は童貞! 」


「奥方様の言うように鍛錬が足りぬから童貞なのだ! 」


「あら、渡辺さまって童貞なの? 」


「可愛いお顔してるのに、意外です。」


「あたしは童貞クサいと踏んでたけど。」


「童貞が許されるのは元服前までよね。」


 隊士はともかくその妻にまで、四方八方からふるぼっこにされた一郎は体をプルプル震わせて涙ぐんでいた。その時、侍女の佐紀が来客のある事を告げた。


「新さん、お久しぶりです。それにみんなも。」


 やってきたのは渡辺吉太郎。男谷道場の同門で、講武所の生徒でもあった男だ。


「おー、吉太郎! 久しぶり。今井さんと一緒に神奈川奉行所にいたんじゃないの? 」


「この度、ようやく異勤願いが通りまして。私も見廻組ですよ。」


「そっか、それは良かった。吉太郎ならみんな顔見知りだしな。」


「そうですな。」


 と安次郎が言うと、みなうんうんと頷いた。


「それよりも、新さん。そして律さんも。静斎先生がついに。」


「――そっか。で、いつの事? 」


「この十六日に。私は通夜に顔を出してそのまま。ご辞世は『うけゑたる 心のかゝみ 影きよく けふ大空に かへるうれしさ』と。

 墓所は深川増林寺になると。こちらの事は気にせずにお役目を、それが父の望みであると、鉄太郎さんからの言伝です。」


「うん。大往生を遂げられたならそれでいいさ。みんな、親父殿に一献! 」


 皆で姿勢を正し、盃を掲げた。


「剣聖、男谷精一郎はその晴れやかな人柄にふさわしい最期を迎えた。泣いて悲しむのは散々した。あとは我らが親父殿に恥じぬ生き方を。いいね? 」


「「はい! 」」


 そう言って皆で盃を干した。


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