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 早速とばかりに翌日俺は、赤坂田町の麟太郎の家を訪ねる。


「なんだい、珍しいじゃねえか。おめえがおいらを訪ねるなんてよ。まあ、上がれや。」


 ひょっこり顔をだした麟太郎に招かれボロ家に上がる。畳は擦り切れ、天井板はたきぎ代わりに使ったとかではりがそのまま見えていた。


「あら、新九郎さん。久しぶり。義父上の葬儀いらいかしらね。」


 麟太郎の妻、民が赤子を抱えて出迎えた。七つになった長女の夢は手習いに出かけているらしく留守で、三つになる孝が母の袖を引いていた。抱えた赤子は長男の小鹿という。


「ああ、民さん。すみませんねご無沙汰して。これ、遅くなったけど子の祝い。」


 そう言って紙に包んだ一両と、来る途中で買ってきた菓子をお民に渡す。ちなみに俺の道場での給金は年に5両。飯は道場で食わしてくれるし、風呂に髪結い、その他雑多なものは男谷のツケだ。十分に余裕がある。一番金のかかる女代も象山先生が出してくれる。

 精一郎さんは貧しい挙句に俺がろくでもないことを仕出かさぬよう、十分な金をくれているのだ。


「あれまあ、わざわざすみませんね。」


 その小判を押し頂くようにして受け取ると、民さんは茶の用意をしに台所にいった。


「わざわざ済まねえな。」


 そう言って座る麟太郎には男谷から預かってきた祝い金、3両を渡した。麟太郎はそれを額の前まで差し上げて受け取る。


「んで、用事はなんだい? ま、なんもなくてもいいんだが。」


 とりあえずとばかりに一服付ける。麟太郎にも煙草の葉を分けてやると、しばらく使ってなさそうなキセルで一服付けた。そのうちには民さんが干柿と茶を出してくれ、奥の部屋に消えた。


「象山先生がね、」


「先生がどうした? 」


「うん、お順に惚れたらしくて、嫁にもらいたいんだって。」


「は? 」


「で、麟太郎とお順はどうかなって。」


「……おめえ、おいらを担ごうったってそうはいかねえぞ? 」


「ま、そう思うよね。」


「そいつはマジな話か? 」


「うん、先生がここに来た時、お順を見て一目惚れ。」


「したって、先生は何不自由ねえご身分だ。何もこんな貧乏人の妹を見染めなくってもよ。」


「ほら、あの人、いろんなこだわりがあるからね。妻にするならお順以外考えられないって。」


「妻? お順を正妻に? 妾じゃなくって? 」


「うん。」


「いやいや、そいつはいけねえよ。先生のとことうちじゃあんまりにも差がありすぎらあ。それにな、おいらはできるならお順はおめえの嫁に、そう思ってたんだ。」


「あはは、俺にはまだ嫁なんて早すぎる話さ。けどね、麟太郎。先生はああ見えてそういう所は真面目な方だ。妻にする。そう言った以上は幸せにしてくれるさ。あとはあんたら次第だけど。」


 そう言うと麟太郎はうーんと腕を組んで考えたっきり口を開かない。俺は茶を啜り、干柿を口にして、もう一服キセルをつけた。



「そのな、新九郎。おめえも知っての通り、おいらは幼い時分に大樹、家慶いえよし公の若君、初之丞様のご学友としてお城に上がったことがある。」


「うん、知ってる。」


「初之丞様はおいらが16の時分にお亡くなりあそばされてしまったが、大奥での生活は今でも夢に見るほどいいもんだった。」


「だろうね。」


「おいらはそう言うまぼろしのような思いをお順にはさせたくねえ。突っ返されたらあいつはまた、ここで貧乏暮らし。だったら初めっから夢なんか見ねえほうがよっぽど幸せってもんだ。」


「そのさ、なんで突っ返される前提なのさ。」


「そりゃそうだろ。なんせこっちは貧乏旗本の妹で、あっちは今を時めく学者様だ。本人が良いっていっても松代の親族が良い顔をする訳がねえ。それにだ、おいらは先生の事は偉い方だと思っちゃいるが、人としては好いちゃいねえんだ。きっとお順だって辛い目を見るに決まってる。」


「ほんと、あんたは人を見る目がねえな。」


「なんでだ。塾の連中だってそう言ってる。」


「先生は確かにぱっと見付き合いづらいけど、中身はそうじゃないよ。あんたは学問の師としてしか先生を知らないからそうなる。先生はここに来たんだろ? そん時なんの話をした? 」


「そ、そりゃあ学問の事よ。時勢についても話したかな。」


「あんたさぁ、そんな話は塾でいくらでもできるじゃん。せっかく訪ねてもらってそれじゃ野暮もいいとこだろ。好きな食い物はなにか、とかどんな着物が好きなのか、とか。」


「そりゃあそうかも知れねえが、うちは知っての通りの貧乏だ。食い物の話で盛り上がったところで、御馳走できるわけでもねえ。それにおいらは碌なもんを食った試しもねえし。恥をかくのはこっちになっちまう。」


「もうさ、貧乏なのは一目瞭然だし、先生だってそれは判ってんだよ。なのに学問だの時勢だの堅い話しかできないあんたがおかしいの。見栄を張る意味もないじゃん。そう言う遊びの話一つもできないで塾なんか開こうってのが間違ってる。」


「けどよぉ。」


「知らなきゃ知らないでいいじゃん。いろんな奴らの話を聞いて、よさそうな、出来そうなのは試してみりゃ。先生だってそんな話になりゃうまいもんでも食わせてくれるさ。」


「そういう乞食みてえな真似ができるかってんだ。」


「だからってなんもしなきゃいつまでたっても、あんたは頭でっかちのまんまだ。何でもやってみて初めてわかるもんだろ? 吉田さんを見ろよ。この国をぐるりと回ってわが目で見た上で物言ってる。あんたがあの人に討論でやられっぱなしなのはそう言うこった。

 麟太郎、あんたはね、要は世慣れてねえんだ。貧乏なのを言い訳になんもしねえ。そりゃ外に出りゃ金もかかるし気も使う。けど家にいて書物とにらみ合ってたって本当の事は何もわからねえんだよ。」


「けどな、親父みてえにポンポン飛び回って、そのたんびに厄介事を持ってくる。そんな事しちゃまずもって、この勝のお家は潰れちまう。そんなことはお民の為にも出来ねえんだ。」


「俺はね、ずっと思ってた。なんで伯父上はあんたを俺みたいにぶっ叩かなかったのかって。そりゃあ確かにあんたは俺と違って出来がいい。けどな、根っこのとこは何も知らねえダメな奴だ。」


「おいおい、おいらはこれでもできる限りの事はしてきたぜ? おめえのようにグレ返ったわけでもねえし、借金だって頑張って返してる。金の苦労をしてねえおめえなんぞに言われる筋じゃねえよ! 」


「ふざけんな! アンタみてえにグズグズ考え込んだってなんにもなりゃしねえんだよ。もういい、お順に聞いてみりゃそれが一番早え。そうだろ? 」


「ああ、上等だ。お順がそれで良いってんならオイラは黙って認めるさ。けどなあ、お順が嫌だってんならこの話は金輪際こんりんざいなしだ! 」


 そのお順を呼んで、俺が話をする。お順はびっくりした顔で目を見開くと、少し考えた後、こう言った。


「新九郎さん。そのお話、是非に。」


「お順、正気かい? 身分違いの家に嫁いじゃ苦労すんのはおめえだぜ? 」


「兄さん、それでも私は。私の食い扶持が減ればお家だって。」


「んな事はオイラがどうとでもしてやる。この馬鹿な新九郎の口車に乗ることはねえんだ! 」


「兄さん、新九郎さんの話じゃ、あの先生は私なんかに惚れこんでくださってる。人柄はどうあれ、それはおなごの幸せ。そでにしてはもう二度と、そんな酔狂すいきょうな人は現れないかも。」


「そうそう、あの先生は風変りだけどいい人だし。どこがいいのかお順のでっかいケツが好みだって言うんだ。ま、そこも風変りって事かな。」


「ぶっ飛ばしますよ? 」


「はは、冗談だって。ねえ、麟太郎? 」


「おめえがそれで良いってんなら、オイラは何も言わねえよ。だがこれだけは言っておく。嫁に出たなら必ず幸せになるんだぜ? 」


「はい、兄さん。」


 ともかくも話はそう決まり、麟太郎も決まったからにああだのこうだのと、今度は祝言の事に頭を悩ませはじめた。


「なあ、新九郎。やっぱり仲人は島田の先生にお願いしてえんだ。」


「けど先生は寝たきりだよ? 」


「名目だけでもそうしてえ。オイラは文を書いてみる。なんかの時はおめえも力を貸してくれ。」


「ま、できることはするさ。」


 話が決まり、ほっとした俺は最後に一服つけてから麟太郎の家を後にする。麟太郎はお順を俺の妻に、そう言った。冗談じゃない。

 お順はあの伯父上の娘らしく、気も強いし口うるさい。それに面差しもどことなく伯父上に似ていて美人だブスだの言う前に受け付けない。ま、せいぜい象山先生と愛の鍛錬に励んでほしい。


 道場に帰るとこっちでも口うるさい奴が待っていた。健吉がなにやら試したいことがあるから相手をしろと言うのだ。


 そもそもこの榊原健吉は俺より三つ上の21歳。道場に来たのが俺が10歳の時だ。そのころの俺、つまり松坂新九郎は生意気な子供で男谷の一族であるのをいいことに、誰に対してもぞんざいな口を利いていた。十も年が違う麟太郎にも、この健吉にも呼び捨てだ。

 その度に伯父の小吉には殴られ、精一郎さんにはきついしごきを受けていたが一向に改まらない。その体と記憶を引き継いだ俺も、今更麟太郎さん、とか健吉さんとは呼べなかった。


 その健吉と防具を付けて向かい合う。健吉も三年前、俺と同じく19で免許皆伝、師範となった。麟太郎のインチキ免許とは違い本物である。それだけに隙などないし、何より振り下ろされる竹刀の速度が尋常ではない。俺は六つの時からこの道場でしごかれてる。その間に得た物は、見切り。つまり相手の体の変化から次にどう来るのか予測して動く術だ。その見切りを使っても避けられぬほど健吉の打ち込みは鋭かった。


 それもそのはずで、健吉の上腕は明らかに普通ではない。毎日六尺三貫の振り棒を二千回も振り続けているのだ。基礎的な体の能力が違いすぎる。

 結局俺はあっという間に一本取られ、何とか小手を一本返したものの、あれよあれよと面を打たれて負けてしまう。互いに礼をして面を取ると健吉が俺に対する考察を述べた。


「新さん、あなたは目が利くし、勘も働く。なのにずっと私に勝てない。何故だと思います? 」


「振りが遅いからだよね。出端でばなを打とうにも間に合わない。」


「ですね。読みでは新さんに分がある。あとはそこ。どうです? 私と一緒に振り棒を振ってみちゃ。多分ですけど畳の斬れ味も変わってくるんじゃないですかね。」


「そうだね。今のまんまじゃずっとあんたには勝てない。少しやってみるよ。」


「もちろん、私も負けぬように精進しますがね。ですけど新さん。目の利き具合や勘働きは生まれ持った天分が大きいんです。私はここで人の何倍も励んでいるつもりですが、その部分では先生と新さんには及ばない。ですから私は長所を伸ばすことに決めたんですよ。」


 そう言って腕をまくるとそこにはアホみたいに太い上腕がついていた。


 その日から健吉に振り棒を借りて棒振りを始める。自分の背丈よりもはるかに長く、重たい棒は二回か三回振るともういっぱいいっぱい。

 こんなもんを毎日二千も振り続けりゃそりゃあ強くも速くもなろうというものだ。とりあえずは百を目標にその日は遅くまで棒を振った。


 健吉の家は直臣で八十石の家禄をもらってる。勝のお家が四十一石、知行高だから実際にもらえるのはその35%。健吉の榊原家では二十八石。米にして80俵。勝のお家は十四石ちょっと。だいたい40俵ぐらいの収入だ。

 健吉の家は親父殿がやっぱりろくでなし。七人兄弟の長男として下の兄妹を面倒見ながら道場に通っていた。借金まみれで勝のお家に劣らず貧しい為、免状を取るときの費用や披露に掛かった金は全部精一郎さんが出してやったという。

 今では師範として給金も多少ながらも貰っているためそこまではひどくはないが、貧乏には違いない。人ってのは貧乏になると口うるさくなるのだろうか。


 ちなみに精一郎さんは家禄が千石、その他に御本丸徒士頭としての役高が別に千石ある。合わせて二千石。そりゃあお金あるよねえ。

 単純に勝のお家の50倍近く。榊原の25倍、比較的裕福なうちの松坂に比べても10倍の収入だもん。


 ともあれ貧乏な健吉はハングリーである。剣で身を立てると決めているらしく、日中はずっと道場にいた。家に帰れば帰ったで、弟妹と一緒に家の事をあれこれするのだと言う。

 それに比べて俺は煙草も吸うし酒も飲む。風呂だって毎日欠かさず行っているし、三日に一度は髪結いにも出かけた。外に出ればそばを食い、塾に行けば帰りに女を買う。ま、これは象山先生の驕りなんだけどね。人は生まれは選べないと島田先生は言った。確かにそうだ。部屋住みの俺よりも当主である麟太郎や健吉は明らかに苦労している。これを見ては部屋住みだからとすねている意味が解らなくなる。


 まあ、師範になって給金が出るとはいえ、道場で生活費がまかなえていればこそ楽に暮らせるのだ。外に出て長屋暮らしなどしてはあっと言う間に足が出る。妻を迎えるなんてとんでもない話だ。


 世間の浪人の中には商家の用心棒や、蔦吉みたいな芸者のヒモになって悠々自適に暮らしてる奴もいる。だがそれをしてはもう、どこにも帰れない。俺が世間に相手されるのは男谷の一族で、男谷道場の師範だからだ。それがなければ浪人と同じ、誰からも相手にはされないだろう。


 そんなこんなで秋になる。お順に想いの通じた象山先生は俺の手を取って感謝をし、足しげく麟太郎の家に通いだした。すっかり女を奢ってもらえなくなってしまったが、そこはそれ。蔦吉がいくばくながら小遣いをくれるし、自分の長屋にも招いてくれる。


 幸せいっぱいの象山先生のところにまた新しい塾生が入ってくる。但馬の出石藩から来た加藤と言うのと、元々塾生であった小林虎三郎の紹介で来た越後長岡の河井継之助かわいつぐのすけ。この河井と言うのが唇が厚く、見るからに頑固そうな顔をしていた。


 すでに余裕で講義についていけてない俺は隣の麟太郎に肘で脇腹をつつかれながら眠気を堪えていた。


「貴殿に少しばかり話がある。」


 怖い顔でその河井継之助が俺の前に陣取った。


「あは、あはは、ご機嫌斜め? 」


「ふっ、これで機嫌が良いように見えるのならば貴殿に眼鏡を勧めるところだ。」


 なんか文句言いたげな感じだ。俺は味方を探すため、辺りを見回す。先生と麟太郎はお順の結婚話に忙しい。あんなケツでか女の事なんか放っておいていいのに。

 そして頼りの吉田さんは部屋の隅で仲のいい宮部さんとこっちを見ながらプススっと笑いを漏らす。


「え、ええっと。なんでしょうか。」


「ここは天下に名高き学び舎。なのに貴殿はそのようにほうけてばかり! 我らはそれこそ食うものも切り詰めてこの江戸に勉学をしに参っておるのですぞ! なのに、なのに! 」


 河井さんは今にも泣きださんばかりにして俺の不真面目さを責め立てる。そんな事言われても、砲術って難しくてわからないんだもん。


「まあまあ、河井、そこまでにして置け。松坂殿は前からこうであるのだ。それに生まれは男谷の一族、剣を取っては男谷道場の師範でもあられるのだ。我らの学問の邪魔をするでなし、そうガミガミと言わんでも。なあ、松坂殿? 」


 同郷の小林虎三郎がそうフォローを入れてくれる。


「そうそう、あ、そうだ。俺、うまいそばや知ってんだ。河井さん、イライラすんのは腹減ってるからだよ。俺が奢るから行ってみようぜ。」


 涙目の河井さんの手を取って外に連れ出し蕎麦屋に入る。奥の亭主に言って天ぷらそばを二つ頼んだ。


「そんな、かたじけない。」


「越後の方から来てるんでしょ? うちの祖である男谷検校も越後の出。これも何かの縁さ。学問もいいけどうまいもの食うのも大切だよ? じゃないと麟太郎みたいに頭でっかちになっちゃうからね。」


「勝殿は立派な御仁とお見受けいたしたが? 」


「あんなのが立派なものか。理屈ばっかりこねやがって。行動が伴わないの、アレは。」


「なるほど、書に頼りすぎればそうなるのかもしれませんな。」


 天ぷらそばを食って少し落ち着いたのか、河井さんの表情は幾分柔らかくなった。


「ま、ここで立派な御仁と言えばやっぱり吉田さんかな。」


「あの、長州の? 」


「そうそう、あの人は行動ができるからね。友達との約束の日を守るため、脱藩するとかなかなかできないよ? 」


「まあ、確かに。」


「それとやっぱり先生さ。気難しくて偉そうにしてるけど物事の根っこを解ってる。」


「……拙者は学問の師としてならばともかく、お人柄はあまり。」


「それはね、河井さんに器量が足んないからさ。だってあれだけの事を知ってるんだよ? 信州の田舎に生まれた人が。普通じゃなくて当たり前。そう思わない? 」


「こう、なんというかムカッと、苛立たせるようなことを。」


「あはは、確かに。よくあの性格でやってこれたよね、とは思うさ。けどね、河井さんだって蘭学、砲術をきっちり修めて越後に戻ったらあんな風に周りから見えるかもよ? 人の知らないことを知ってるんだ。偉そうにしてるつもりはなくてもそう見えるさ。ま、先生は自ら偉そうにしてるんだけどね。」


「確かにそうかもしれませんね。何も知らぬ我らに仕込むは、民百姓に剣術を仕込むのと同じことでしょうから。」


「そうそう、で、俺に関しちゃ完全に落ちこぼれてるだけ。射角がどうのとか算術っぽい事言われてもわからないんだよ。」


「ふーむ、しかしここは砲術を学ぶ場。算術は必須と心得ますが? 」


「ほかにもね、学べることはいろいろあるんだよ。河井さん、あんたには一つ俺の見解を。」


「是非に。」


「あんたも越後に帰ればお偉いさんなんでしょ? だったら余裕を持つ事さ。麟太郎みたいに毎日キリキリ追われるように過ごしてちゃ周りのものが堪らないからね。こういううまいもの、それに楽しい事。お役目はお役目、そうでないときはそう言う遊びの話の一つも出来なきゃ人は心底から話を聞いてくれやしないさ。だってつまんないもん。どうせ働くなら楽しい上司の元のほうが良いに決まってる。」


「なるほど。確かに。しかし拙者は生来の無骨ぶこつもの故。」


「それはそれ、これはこれさ。そうだなあ、例えば何かうまく行かなかったとする。そういう時に仏頂面してちゃみんな重苦しくてかなわないでしょ? 」


「そうですな。」


「そういう時にさ、ダメだこりゃ。って言ってみるのはどう? 」


 河井さんの顔をみて、ふとそう思い立った。


「そ、そのような不謹慎な! 」


「けど難しい顔してたって変わらないし。ほら、試しにここで。」


「んっ、んんっ。こうですかな? ダメだこりゃ。」


 アハハとそれを見て俺は大爆笑。もっと顔を斜めに傾けたほうが良い、とか、下唇はもっと突き出すべき。とか細かい技術指導を始めた。


 早速塾に帰って、残っていたみんなの前で河井さんの持ちネタを披露させる。


 ダメだこりゃ。と完璧な顔の角度に目線、それに唇の突き出し方で河井さんがそう言うと、皆、一瞬固まった後で大爆笑。吉田さんなどは涙を流して笑い転げた。


「なるほど! このようにすれば沈鬱な評定においても場を明るく。実に良い事をお教えいただいた。松坂殿、感謝いたす。」


 そのあとも河井さんは庭の池に顔を映し、鍛錬を重ねていた。


「ちょっと、アレはずるいですよ! 」


 吉田さんがプススと笑いながら俺に声をかける。それからしばらく、五月塾ではヘン顔がブームとなる。とはいえやはり元ネタのある研ぎ澄まされた河井さんにかなうものはなく、皆、口惜しそうな顔をしていた。もちろん麟太郎はこういう時に加わらない。実につまらぬ男なのだ。


「しかるに、砲の飛距離とは射角が、ぶっ!」


 俺も負けじとヘン顔の研究をしていたら、講義をしている先生がぶっと吹き出し、その拍子に鼻水を垂れた。それを見て塾生たちは大爆笑。先生はちり紙で鼻をかむと、分厚い教本の背で俺を引っ叩く。


「新九郎! 廊下に立っとれ! 」


 そう言われて俺は廊下に引き出された。それを見ていた河井さんが決め顔で、ここぞとばかりに「ダメだこりゃ。」と落ちを決めた。中でも吉田さんは感情の激しい方なので、端正な顔に涙と鼻を垂らして笑い転げる。麟太郎はいつものごとく冷めた目で「あーあ、何やってんだか。」と小声でつぶやいた。


 そんなこんなで俺の日々は相変わらず平穏に過ぎていく。

六尺三貫の振り棒……180cm、約11キロだそうです。ちなみに榊原さんの腕周りは55cmあったとか。


河井継之助……なんとなくお写真がいか〇やさんっぽかったので。

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