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 年が明けて文久二年(1862年)となった。その正月十二日、一人のテロリストが逮捕される。


 テロリストの名は大橋訥庵おおはしとつあん。向島に思誠塾と言う塾を開いていたらしい。罪名はいろいろあるが平たく言えば謀反だ。取り調べはこれからになるが、いろいろと企てていたらしい。


 そして正月の十五日、またもや世を震撼させる出来事が起こった。今度は東の大手門側にある坂下門で実質的に幕府を仕切っていた老中、安藤信正が襲われたのだ。井伊大老の一件もあり、軽傷で済んだがまたしても幕府の権威は失墜。安藤老中も老中の座には残れないだろうという話だ。犯人はまたしても水戸浪士。今回はその場で全員斬り捨てられている。


「要するにだ、大橋ってのは今の位置に満足できなかった。そう言う事よ。」


 冬の魚の刺身をつまみ、熱燗を飲みながら海舟がそう言った。大橋ってのが計画の中心にいて、それを宇都宮藩が後押し、その大橋のやりたかったことは攘夷。外国との交流をやめない幕府に朝廷が近づく公武合体は絶対に反対だったらしい。まあ、それはいい。問題はだ。


「けどさあ、その大橋ってのも一橋を担いで幕府に対して挙兵、とか夢見すぎじゃね? そりゃ一橋公は将軍にはなりたいのかもしれないけどさ。流石に挙兵はね。おんなじ徳川なんだし。」


「その辺もわからなくなっちまってるんだろうさ。攘夷は正しい、攘夷は正義ってか。結局はその一橋の家臣に謀反を勧めに行ったところでご注進。御用って訳だ。だがよ、考えてみろ? 武士でもねえ一学者がだ、こうして謀反を企てる。そんな時代になっちまったと言うこった。おっそろしいもんだ。」


「んで、水戸浪士は例によって実行犯? 」


「そうだな。奴らは大橋から金でも貰ってたんじゃねえのか? 水戸の浪士たちだって食っていかなきゃならねえからな。誰かしら支援してる奴がいるんだろうぜ。攘夷ってお題目がありゃ奴らはすぐに繋がれる。朝廷がそれを良しとする限りはしばらくこの流れが続くかも知れねえな。」


「はは、そりゃ大変だ。」


「まあな。けどよ、一橋の慶喜様が奴らに担がれるほど馬鹿じゃねえ、って判っただけでもよかったさ。アレに乗っかるような馬鹿が将軍候補じゃ流石にオイラも幕府の行く末を案じなきゃならねえからな。」


「つか、攘夷派もしつこいねえ。今の将軍は家茂公、そう決まって結構経ってるってのに。それにその一橋が将軍になったところで攘夷なんかできないって。」


「だろうな。けどそいつがあいつらにはわからねえ。なんせまだ誰も痛え目にあってねえ。人は痛くなければ覚えねえからな。」


「対馬で十分だろ? 占領されかけたんだし。」


「離れ小島じゃダメなんだよ。もっと判り易いとこじゃなきゃな。けどそんなことされちゃ、この国もいよいよお終えさ。痛しかゆしってのはこの事だな。んじゃ、ごちそうさん。」


 海舟はそう言って金も払わず立ち去った。腹は立つが仕方がない。今のところあいつしか時勢を教えてくれるのは居ないんだから。


 二月になると将軍家茂公と皇女和宮の婚儀が盛大に行われ、二人は正式に夫婦となった。その一方で老中、安藤信正は政治力を失っていく。士道不覚悟。襲われた事が罪らしい。それを声高に言い立てるのは薩摩の島津久光。薩摩の藩主でもなく、その父がそうまで幕閣に強い事を言い立てる。それだけ幕府の権威は弱くなったという訳だ。当然その島津久光は攘夷志士に大人気。薩摩はその注目度を一気に上げた。


 四月になると島津久光は藩兵一千を率いて上洛。いよいよ幕府と一戦か、と誰もが思った。無論俺たちもその覚悟を固めていた。


「いいかい、律っちゃん。もし薩摩が攻めてきたら水戸に。あそこなら薩摩に攻められない。」


「新九郎さま。わたくしは幕臣であられるあなたの妻、後ろを見せるわけには参りません。家を守り、勝利を挙げた新九郎さまをお迎えするまでここを動くことは致しません。」


「律っちゃん! 」


「新九郎さま! 」


 と、俺たちは割と本気でそんな事をしていたのだが、島津久光は何故か、自藩の過激な攘夷派を伏見の寺田屋にて襲撃。薩摩は攘夷ではなく公武合体を唱え、幕政改革を求めた。つまり、幕府は尊重するが俺の意見は聞いてもらう。そんな感じ。

 この一件で幕府にとっても朝廷にとっても薩摩は無視できない存在になった。その動向で世論が大きく変わってしまうのだから。


 薩摩と言う旗頭を失い、すっかり息をひそめたかに思える攘夷派。今度は再び品川東禅寺でイギリス公使を暗殺しようとして失敗。だが、警護のイギリス水兵が二名、犠牲になったという。しかも犯人は東禅寺警護の役目にあった松本藩士。警護が護衛対象に襲い掛かるという幕府の信用を失墜させるには十分すぎる出来事だった。


 六月十日、島津久光は勅使、大原重徳を伴って江戸城に登った。外様大名が勅使をつれて将軍に直談判。慣例無視も良い所だ。さらに噂では将軍に対するに、島津久光は刀を帯びたままだったという。自らの決意を現した、と言うが普通に無礼なだけだ。しかもその久光は藩主ですらないのだから。


「んで、どうなりそうなの? 」


「ま、幕府としちゃ薩摩を軽く扱えねえ。薩摩が攘夷から手を引いたからこそ幕府も一息つけたんだからな。安藤老中は罷免、その代わりに越前の松平慶永を大老並みの要職に、一橋慶喜を将軍後見職につけろ、だとよ。あとはあいつら雄藩を国政に参与させろと。んで、将軍は諸大名を率いて上洛、京で朝廷と幕府、双方の意見を纏めて国策としろ。ま、なんだかんだごたごたするだろうが幕府としちゃあ飲むしかあんめえ? 今、薩摩にそっぽ向かれちゃそれこそ攘夷攘夷でこの国はお終えさ。」


 人の驕りだと思って遠慮なく高い酒を頼んだ海舟は、それを口にしながらそうつぶやいた。


「とにかくだ、今は堪え時、何をしようがうまくはいかねえ。攘夷が無茶な事だって世間が判るまではな。」


「我慢、我慢ね。ま、薩摩を敵に回して内戦、なんて事になるよりはよほどいいか。」


「そう言うこった。それにな、悪い話ばかりじゃねえさ。」


「そうなの? 」


「ああ、将軍ご上洛、ともなりゃオイラは声高に海路でと進言する。そうなりゃ離されてた海軍とだって繋がれる。」


「それが? 」


「オイラが海軍、そうなりゃバンバン増強して、外国にだって舐められねえようにして見せるさ。最悪攘夷だなんだってなっても海軍が居なきゃ話にならねえ。そうなりゃその海軍の威をもって、幕府の権威も建て直せるさ。」


「なるほどねえ。」


「とにかくだ、何をするにも今少し力がいる。我ながらあざといとは思うが幕府の危機はオイラの好機。上に上がるにゃもってこいってわけだ。」


「まあ、何でもいいけど幕府には頑張ってもらわないと俺たち幕臣が路頭に迷う。」


「ああ、判ってる。おめえみてえなのが不満を持ったまんまで浪人にでもなられちゃ、危なくって道も歩けねえからな。」


「はは、そんときには一番にあんたを斬ってやるさ。」


「おっそろしいねえ。ま、大丈夫だ。そうはならねえさ。とにかくおめえはじっとしてりゃいい。」


「判ってるって。」


 この頃になると講武所でも政治談議が活発になっていた。幕府はどうだ、朝廷はああだ、攘夷がこうで、開国はとみんな持論を口にする。


「新さん、新さんはどう思うのさ。」


「只さんも好きだねえ。そんな事論じ合ったって意味ないだろうに。」


「いいや、新さん、それは違うよ。幕府がどうお決めになるかはわからないけど、俺たちはどうなってもすぐに動ける覚悟を固めないと。」


「そうですよ、松坂先生。我らは幕臣。ただの兵ではないのです。いざともなれば将となり、配下を率いる身。志なくば迷いが生じるは必定。そして志を固めるには論じ合う事が不可欠です。」


「はは、只さん、そして山岡。俺たちはいざって時は敵を斬るだけ。そしてその敵は幕府が決める。その志とやらが幕府の意向と違った時はどうすんだ? 水戸の浪士、薩摩の伊牟田、そして大橋とか言う学者のように志ってのを先んじる? 」


「新さん。」


「松坂先生、それは。」


「もしそうならあんたらも俺が斬ってやるさ。いいか、俺にいわせりゃ幕臣の俺たちが幕府を越えてどうこう言うのは間違ってる。朝廷だの開国だの攘夷だのは俺たちが決める事じゃない。そうだろ? 」


「新さんの言う事は判る。けれども考えは持っておくべきだよ。幕府の中の事だけ考えてていい情勢じゃないんだから。」


「そうです。佐々木先生の仰る通り。幕臣だからこそ幕府の先行きを案じるのも務めかと。」


「ふーん。」


 そう言って目を細めると只さんと山岡は、ぐっと体に力を入れて身構えた。


「ま、山岡のいう事も一理あるかもね。ただ、俺はそう言うのが得意じゃない。」


 そう言って山岡の肩をポンと叩くと二人は安堵した顔になった。


「只さん、山岡、俺たちは幕臣で幕府から禄をもらって生きてる。それだけは忘れないようにね。」


「うん、新さん。判ってる。な、山岡? 」


「はい。」


 そう言う二人を置いて俺はその場を去った。


「新さん、珍しいじゃないですか。私はまた、あそこでひと暴れするものかと。」


「あはは、今井さん、もしかして覗いてた? 」


「ええ、榊原先生から目を離すなと。言いつかってますから。」


「健吉も忙しそうだしね。昔はよくぶつぶつ言われたもんさ。」


 今井さんにそう言って講武所を出て家路についた。


 七月になると海舟の言っていた通り、松平慶永は幕府の政事総裁の座に就き、一橋慶喜は将軍後見職となった。安政の大獄によって幕政から追い出された一橋派はここに復活を遂げた。島津久光は大いに面目を施し、世の流れも攘夷から公武合体。そんな雰囲気に変わっていた。時代の中心は薩摩に移行した感があった。


 さて、そんな風潮の中、一人だけ、いや、一藩だけ貧乏くじを引いたところがあった。長州藩である。


 元々長州藩は長井雅樂の掲げる航海遠略策を持って、幕閣を周旋、長州主導の政権としたかった。要は今日の薩摩の位置に座りたかったわけだ。ところがうまい事話の通じた安藤老中は失脚。ならば京に赴いて朝廷を、と意気込んだ長井だったがすでに島津久光が上洛。京はその影響下にあった。

 この時点では島津久光は攘夷志士の希望の星。京では嫌が応にも攘夷の機運が高まっていた。そんな中、長井は朝廷に建白書を奉った。だがその時に長州内部では松下村塾の一派が藩論を変えるべく行動を起こしていた。


「久坂ってのがいるんスけどね、こいつが反長井の急先鋒で。藩の重役たちにああだこうだと吹き込んだみたいなんスよ。」


「へえ、で? 」


「要するに、今の薩摩の立場に成れればこそ公武合体も意味がある、それに失敗した長井は長州の威厳を損ねたって。」


「だから攘夷って事? 」


「ほんと馬鹿ッス。あいつらにとっちゃ攘夷も公武合体も長州の権威を上げるための物。国がどうだとかってのは話の外なんスよ。んで、同じ攘夷派の公家にもあれこれ工作して、結局、以前、長井が出した書状に朝廷に対する無礼があったって事に。うちの殿さまは朝廷に侘び入れて長井は帰国、謹慎処分ッス。さらに悪い事にその久坂達の言う、尊王攘夷が藩論って事に。」


「あらら、長州も大変だね。」


 藩主の側付きとなって顔を出せない聞多の代わりに、この春輔はちょくちょく鐘屋にやってくる。江戸で暮らし、広い視野を持つ春輔は今の長州がたまらなくイヤらしい。出来もしない攘夷を掲げ、薩摩が捨てた攘夷志士の旗頭の座に長州が。

 春輔が言うにはその、久坂率いる松下村塾の一党たちは国の行く末などよりも吉田松陰の無念、それに関ケ原以来の徳川に対する怨恨を晴らしたい。尊王だ、攘夷だと言いつつも根っこはそこにあるのだという。


「そんな連中が力を持っちゃ藩だってどうなるかわからねえッス。あいつらはね、自分たちの正義を通す為なら何を犠牲にしたっていいと思ってる。長州も、この国もね。犠牲にされる方は堪らねえッスよ。」


 そう言い残して春輔は鐘屋に呼び出した芸者と共に二階に上がっていった。俺は律を引き寄せその膝に寝転がり、キセルを手に取った。



「新九郎さま、寝たばこは火事の元ですよ? 」


「いいじゃん、ちょっとくらい。」


「だーめ。火をつけるならキセルじゃなくて、わたくしに。さ、お布団に行きましょうか。」


 火をつけるまでもなく、律の体は燃え盛っていた。


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