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文久元年となったこの年の五月二十八日、またしても水戸浪士がテロを起こした。品川にある東禅寺にある、イギリスの公使館を襲ったのだ。幸いにも公使は無事。お付きの外人二人と、警護に当たっていた郡山藩、西尾藩の藩士が二十名ほど被害に遭ったようだ。
「また、これで外国からの要求は厳しくなろうな。昨年暮れのヒュースケンの一件で公使には護衛が付かねばならなくなった。此度はどうなる事やら。」
親父殿はそう言って渋い顔でため息をついた。数日すると各国の外交官は連なって幕府に抗議を申し入れたのだという。異国に対してこの国の政府である幕府は著しく信用を落とした訳だ。
ま、未遂とはいえ外交官殺しだしね。
腹が立つとかあきれるとかじゃなくて、流石にこうなってくると国の行く末が心配になってくる。対馬ではロシアが占領を試み、外人は次々と襲われる。このままじゃ明治維新のなるころには島の一つ二つは異国の物、そうなってもおかしくない。
不安になった俺は気が進まないが海舟の理屈を聞いてみようと思い立った。あいつを頼るようでなんか腹立たしいけど他に宛がない。清河や山岡に聞けばそれこそ鬼の首を取ったかのように義挙だなんだと言い立てるに決まってる。
今は蕃書調所頭取となった海舟を訪ねてみることにした。蕃書調所はこの講武所の一角にあるので訪ねるのも手間はない。
「よお、新九郎。どうした? そんなフン詰まりみてえな顔して。」
「んー、ちょっとね、あんたに時勢の事でも聞いてみようかってね。なんせ、あんたは異国帰りだ。俺なんかとは頭の出来も違うしな。」
「時勢ねえ。ま、俺も丁度手が空いたとこだ。外に出て一杯ってのはどうだ? 」
「ああ、それでいいよ。」
海舟と一緒に講武所を出て、少し離れたそば屋に入る。そこで座敷を借りて、もりそばを三枚づつと、冷や酒を頼んだ。
「新九郎、オイラもいろいろ面倒な立場だ。思ってる事ぶちまけちゃああだのこうだのと周りがうるせえ。」
「そうかもね。あんたはもう幕閣の一人みたいなもんだし。」
「んでな、時勢ってのは東禅寺の事か? 」
「うん、その前のヒュースケンも、またその前の井伊大老も。尊王の連中ってのがよくわかんなくて。」
「ま、こういっちゃなんだがそれらは全部、老中だった阿部様の置き土産よ。」
「阿部様の? 」
「そうだ、黒船が来たときにてめえらで決め切れず諸侯の意見を聞いちまった。そのおかげでオイラはこうして出世した。けど幕府としちゃあやっちゃいけねえ事だったんだな。」
「なんで? 」
「人ってのはな、一度くちばし突っ込めば、そっから抜きたがらねえもんさ。幕閣に判らねえことが殿さま育ちの諸侯に判るはずもねえ。そうするとその下の連中が口をはさみだすわけさ。オイラのような成り上がりがあちこちにいるって訳だな。」
「うん、それで? 」
「そう言う連中はオイラと一緒、一世一代の大勝負だ。もちろん突っ込んだくちばしは絶対にはずさねえさ。でな、そういう奴らは受けを狙う。なんせ出世の糸口だ。目立たなくちゃ意味がねえ。でな、何が受けが良いかっていやあやっぱり攘夷よ。異人さんがこの国にそう簡単になじめるわけもねえ、しかも帝は異人がお嫌いとくりゃ、理屈は簡単。帝の命に背いた幕府はけしからんってな。」
「まあ、それは判らないでもないけど。」
「みんながそう言いだしちゃさらに目立つ、過激な事を言わなきゃいけねえ。んで、けしからん井伊大老を討った水戸浪士は凄い、ってなるわけだ。その処分がああもあいまいになっちゃ、うちも天下に名を上げなきゃって話になって今度は薩摩の異人斬りだ。んで水戸の浪士としちゃあ、遅れるわけにはいかねえと東禅寺って訳だな。」
「けどさあ、その責は結局幕府に来るわけだよね? 」
「そうだな。奴らにしちゃあけしからん幕府が責を取って当たり前、嫌なら帝のご意向通り攘夷しろって話だ。」
「けど実際は。」
「そうだ、できねえ。けど帝に理を説いてどうこうしようってのはすなわち不敬。四の五の言わずに攘夷しろ。それが奴らの理屈さ。」
「なるほどねえ。」
「ま、こうなっちゃいずれ形だけでも攘夷を、って話になるんじゃねえか? 幕府にとっちゃ今からが瀬戸際だな。」
「それで幕府はやっていけんの? 」
「なあに、何とかするさ、なんせこのオイラがいる。世間知らずの連中の好きなようにはさせねえよ。おめえはつまんねえ事気にしてないで講武所の連中鍛えときゃいいんだって。」
「その講武所にも尊王だなんだっていう奴がいてさ。何度か引っ叩いてやったけど。」
「しばらくは我慢のしどきだぜ、新九郎。表向きは攘夷、裏じゃ異国の連中とうまくやっとく。そう言う腹積もりでいねえとな。」
「そんな都合のいい話。」
「だな、ははは、けどそいつをやらなきゃ幕府どころかこの国全部がやべえんだ。そいつをやるのがオイラの務め。答えが一個じゃ世は回らねえよ。んで、その尊王を語る野郎の名は? 」
「山岡鉄舟。知ってんだろ? アンタと同じ三舟の一人だ。」
「はは、そっか。まあ、そいつも含めてオイラに任しな。おめえはうちの親父とおんなじで何かと言えば殴るけるだからな。おめえに任しちゃいくらなんでもそいつが哀れだ。」
「で、どうするつもり? 」
そう尋ねると海舟はじろりと周りを見回して、小声になった。
「こいつは口外してもらっちゃあ困る。」
「ああ。」
「いいか、攘夷に舵を斬るとなりゃそれなりの部署をおったてなきゃならねえ。その時にな、その山岡ってのを頭に据える。」
「で? 」
「何事にも後始末ってもんが必要さ。責任とるやつもな。」
「つまり、方針が変わった時にはって事? 」
「そう言うこった。俺が必ずそうして見せる。そうなった暁には、幕臣でありながら尊王を語る連中をいっぺんに処分できるって寸法よ。」
「はは、相変わらずだな、あんたも。」
「オイラだってあの親父の子さ。それにな、オイラにゃ他の連中にはねえ、伝手がある。」
「そうなの? 」
「おいおい、オイラは亡くなっちまったが家慶公の若君、初之丞様のご学友だぜ? 大奥にだって顔が利く。今の身分なら顔を出すにも問題ねえし、先代の御台所、天璋院様とも懇意の中だ。今度来るっていう和宮様と繋ぎを取れりゃ帝にだって接触できる。いいか、新九郎。幕府にとっちゃここが切所だ。どんな手を使ったってやり遂げなきゃならねえ。」
「はは、流石だね。」
「おめえにだってきっと、そう言う日が来る。そん時にばちっと決めれるように、今はできる事をやっとくべきだ。文句を言うのも殴るの蹴るのもいつだってできる。わかんな? 」
「あんたの説教は昔から腹が立つ。けど今回は聞いておくさ。親父殿の苦渋の顔はこれ以上見たくない。」
「ああ、オイラが必ず精一郎さんの顔を、晴れさして見せるさ。それが出来なきゃあの世で親父にぶん殴られらぁ。はは。」
なんとなくではあるが心が晴れた。勝海舟、俺でも知っている偉人の姿と情けない麟太郎の姿が今初めて一致した。
俺はそれから海舟に言われたように、余計な事には口を出さず、ひたすらに剣に打ち込んだ。八月にはイギリスの干渉が入り、対馬のロシア船は退去した。長州の長井ってのも春輔の言ってた航海遠略策を引っ提げて幕閣の周旋に精を出す。十一月には皇女和宮が江戸に下向。公武合体は一応の成果を挙げる。
新たに講武所砲術師範役となった海舟の話によれば、今はアメリカに代わりイギリスが積極的らしい。なんでもアメリカはあのリンカーンが大統領になり、奴隷解放や何やらを巡って南北戦争の真っ最中。こっちにまで関わっている余裕がないのだ。イギリスとしてはその隙に、と言う事だろう。八月の対馬の件もそれだからこそ介入したわけだ。
結局攘夷だなんだとのんきにやっていられるのも、そうした外国がこの国を巡って綱引きをしてるから。実際は非常に危うい立場なのだと海舟が教えてくれた。
「それでな、新九郎、例のヒュースケンの一件だが。」
ずるずると天ぷらそばをすすりながら海舟が口を開いた。
「ああ、どうなったの? 」
「どうもこうもねえさ。洋銀千枚。こっちの金に替えりゃ七百五十両を支払う事に決まったそうだ。」
「な、七百って。」
「まあ、わざわざ海を越えてこっちに来てんだ。ただの庶民って訳じゃねえ。それに悪いのは間違いなくこっちだ。」
「悪いのは薩摩だろ? 」
「薩摩は幕府の臣下。外に向けちゃ幕府が責を取らねえわけにはいかねえさ。今の薩摩は戦国の頃みてえな独立大名じゃねえんだから。薩摩にやらせちゃ幕府の立場が無くなっちまうって訳さ。」
「で、その薩摩には? 」
「知らぬ存ぜぬですっとぼけられてる。水戸を処断できねえのに薩摩だけって訳にもいかねえからな。そんなことすりゃ外様大名が黙っちゃいねえ。」
「なにそれ。」
「言ったろ? 今は我慢の時なんだって。俺としちゃ、金で片が付いたなら万々歳さ。少なくとも条約も、友好関係も壊れちゃいねえ。まだ、まだ踏みとどまってられる。」
「そう言うもんかねえ。」
「ま、そう言う事だ。オイラのありがてえ話を聞かせてやったんだ。ここの勘定はおめえ持ちな。」
そう言って海舟はそばを食い終わるとそそくさと立ち去ってしまう。汁の残ったどんぶりを投げつけてやろうかと思った。
十二月にはイギリスの要請で幕府は遣欧使を出発させた。ヨーロッパ各国を幕臣に見て回らせるのだという。その一方で世の世論はなんとはなしに攘夷に傾いていった。
「新九郎さま。最近はお顔の方も柔らかに。何かござりましたか? 」
「ん? いやね、バカの考え休むに似たりってのは本当だなって。馬鹿な俺が攘夷派の連中に腹を立てたところでどうにもならない。それが判ったのさ。」
「攘夷の方々は判り易いのですよ。」
「どういう事? 」
「大老を討ち、異人を斬る。派手で目につく事ばかり。幕臣方のやっていることは外からは何も見えませぬゆえ。判り易い方に引きずられる。それも無理なき事かと。」
「そっか、外国がどうのと言ってもわからないもんね。アメリカもイギリスもロシアもみんな異人でひとくくり、か。」
「見えないものを判れというのも無理な話。城は攻め落とせば手柄にござりまするが、守る方は守り切って当たり前。そう言う事にございましょう。」
「なるほどねえ。流石律っちゃん。」
「ですからわたくしも攻め手になって手柄とせねばなりませぬ。ね、新九郎さま。」
そう言って律は俺を押し倒す。今宵も熱い城攻めが行われた。