32
「もうね、大変ッスよ。」
年が明け万延二年(1861年)。正月も無事に開けた休みの日、鐘屋に俊輔が訪ねてきた。
「どうしたのさ、いきなり。」
「ねえ、新さん? この人は? 」
そしてはじめちゃんはストーカーのように俺のいるところについてきていた。とはいえ哲学の時間には気を利かせて席を外すので律も嫌がる事はなく、何のかんのと相手をしている。
「ああ、伊藤俊輔、あ、春輔だっけ? 長州藩士。俺の友達。で、春輔、こっちは斉藤一、やっぱり友達だよ。」
「あ、そうっスか。宜しくっす。」
「うん、僕のほうこそ。」
「それで、何があったのさ。」
「攘夷ッスよ、攘夷。」
「は? 」
「ほら、薩摩の奴が亜米利加の通訳殺したじゃないッスか。あれでうちの連中も大騒ぎ。長州も負けてられんって。馬鹿みたいに。」
「はは、どいつもこいつも騒ぎたいだけじゃねえの? そういえば桂は? 」
「あの人はいま国元に。余計な事しなきゃいいんスけどね。」
「余計な事? 」
「アレはかっこつけッスから。おだてられていい気になって、いつの間にか攘夷派の中心に。ありそうでしょ? 」
「うわぁ、ありそう。」
「でもね、新さん、春輔さんも。僕が京にいた時は攘夷、攘夷ですごかったの。攘夷じゃなければ人にあらずなの。」
「あー、確かにそうッスね。俺が京にいた時もそんな感じだったッス。」
「すごいねはじめちゃん。よく見てるじゃん。」
「だって、何度も聞かれたもん。お前は攘夷かって。」
「けど実際は攘夷なんか無理ッスよね? 幕府に出来ないものが長州一藩で出来るわけがない。下の連中はともかく上は判ってるはずッスよ。」
「ならなんでそう言ってやらないんだろうね。」
「都合がいいからッス。」
「なんで? 」
「無理と判って幕府を責める。そうすれば幕閣も長州の意見を聞かざるおえない、ひいては幕府を長州の意見で主導できるかも。うまく行かなくても朝廷に信頼は厚くなる。そうすりゃ幕府も長州を、毛利を蔑ろにできないッス。」
「まあ、そう言うのはあるだろうけどさ、一つ聞いて良い? 」
「ナンスか? 」
「攘夷攘夷で幕府を責めて、仮に長州主導の世の中になったとする。で、その時長州はどうすんの? 幕府に無理だったことが出来んの? 」
「ははっ、できるわけないッスよ。あの人たちはそんなことまで考えてない。とにかく幕府が困って、相対的に長州の立場が上がればそれで満足。要は馬鹿ナンスよ。だから俺は距離を置いてるッス。」
「なるほど、で、その馬鹿に桂は担がれると。」
「たぶんそうなるッスね。」
「ま、春輔も大変だな。もっと馬鹿なら一緒になって騒げただろうに。」
「俺はね、新さん。貧乏人ッスから。貧乏な奴はしたたかじゃないと生きていけない。人に心服なんかしてる暇はねえんスよ。」
「んで、お前はどうすんの? 」
「とりあえずはいいとこ付きッスね。下手に主張して憎まれんのも嫌ッスから。」
「それが良いね。」
「俺も聞多さんもそんな考えッス。実はね、聞多さんと二人で異国に行ってみようかって。」
「ほう。」
「攘夷するにも相手の事が判らなきゃ話にならねえッスからね。それを理屈に藩費で留学、何しろ聞多さんは殿の側付きッスから。余計な重役を通さずに話ができる。いいと思わないッスか? 」
「いいんじゃない? 」
「向こうの女も抱けるかもしれないし。馬鹿どもとも距離を置ける。攘夷派の連中にはほんとうんざりッス。」
そんな話をしていると春輔が呼んだ芸者がやってきて、二人で二階に上がっていった。
「異国かあ。どんなところなんだろうね。」
「はじめちゃんも行ってみたいの? 」
「ううん、僕は人見知りだから。でも、新さんとならいいかも。」
「俺は別にいいかな。江戸に暮らして不満はないし。横浜まで行けば異国気分は味わえるしね。」
「へえ、横浜、今度つれて行って。」
「そのうちにね。」
二月になるとまたまた改元。今度は文久元年となった。そのころ、九州の先、対馬にロシアの船が来航。兵を上陸させ、占領を始めているという報せがあった。
「松坂先生! だから私は言ったのです! 幕府の取るべき道は攘夷だと! 」
鬼の首を取ったかのように山岡が騒ぎ立てる。今や腹をくくったのか人目もはばからずにこの調子だ。
「だったらさ、お前と清河と、あの松岡ってので異人退治して来いよ。ほら、こんなところにいないでさ。」
「そ、それは。」
「できるんだろ? 黒船相手に。」
「その、私一人では。」
「京の辺りじゃ攘夷と騒いでる連中がうじゃうじゃいるんだ。そいつらつれて行けばいいじゃん。それで追い払えれば幕閣のお偉方も考えを変えるかもよ? 逆に何もせずにここで騒いでたって、お前は口だけ、そう思われるだけさ、な? みんな。」
講武所のみんなは山岡に馬鹿にしたような笑みを向けていた。そりゃそうだ、ここにいるのはみんな幕臣。幕府の政策にケチをつける山岡や、尊王攘夷の志士と言う物が好きになれる要素はないのだ。
「新さん、山岡も山岡なりの考えあっての事だから。」
「なあに? 只さん、まーだそんな事言ってんの? こいつ謀反人なんだぜ? 」
「違う! 私は心底幕府に尽くす為! 」
「そういう奴は評定所に目を付けられたりしないの。」
「何を! 」
「ほら、かかって来いって。みっともなく泣きわめいて小便漏らすまで締め上げてやるよ。」
「新さん! もう、そこまでに。山岡も、お前に考えがあるのはわかるが人に押し付けるな! 」
「しかし、」
「なんだよ只さん、止めちゃうの? これも稽古なんだけどな。」
すっかりいじめっ子ポジションになった俺はいこうぜ、とみんなを誘って稽古を再開する。悔し涙をこぼす山岡を只さんが慰めていた。
三月の終わり、今年は昨年の反省をもとに、舟ではなく、鐘屋の離れの部屋で夜桜を眺めていた。
「いいものですね、今宵は月も出て。」
「そうだね。夜桜も月明りで綺麗に見える。もちろん、律っちゃんのきれいな顔も。」
「ああっ、新九郎さま! 」
今年も哲学の追及に余念がない俺たちであった。
四月になると、またもや春輔が強張った顔でやってきた。
「もうね。大変ッス。」
「またなんかあったの? 」
「うちの藩の重役の長井雅樂ってのが殿さまに航海遠略策ってのを提言したんスよ。」
「へえ。」
「その内容が気に入らねえってまた、攘夷派どもが騒ぎ出して。」
「どんな内容? 」
「要は松陰先生が言ってた事の焼き直しッスね。異国に負けぬ力をつけ、その力を見せつける。その為には異国との交易もやむなし。朝廷は鎖国攘夷を撤回し、幕府に交易を命じろって。」
「けどそれじゃ朝廷も攘夷派も納得しないだろ? 」
「そこがね、うまい事奴らを言いくるめるような文言が入っているって訳ッスよ。皇威を振るって外国を圧倒、とか、この国に貢ぎ物をさせる、とか。内容自体は開国論ナンスよね。」
「んで、攘夷派は? 」
「これがね、予想通り桂を頭に据えて、反長井で固まってるッス。屈辱的な今の条約は破棄、通商するなら新たに条約を結びなおすべきだって。とにかく屁理屈並べ立てて文句が言いてえだけナンスよ。」
「うーん、何が不服なのかわからないね。」
「要するに桂と松下村塾の連中は自分たちで藩を動かしたい。それには長井は邪魔って事ッス。」
「なんかよくわかんないけど、なんでそこまでって思うけど? 」
「平たく言えば桂は恰好つけたい。松下村塾の連中は松陰先生の教えの通りに藩を動かしたい。そう言う事ッス。」
「けど、その航海何とか論ってのは吉田さんの言ってた事に近いんだろ? だったら。」
「それを長井じゃなく、自分たちがって事ッスよ。奴らから見りゃ長井は松陰先生の理論を盗んだ。そうしか見えない訳で。」
「まあ、本人たちには大事な事なんだろうけど。はたから見るとくだらないよね。で、どうなりそうなの? 」
「殿さまは長井の論を藩論として、幕府に周旋せよと。ま、意見具申を行うって訳ッス。」
「んじゃもうどうしようもないじゃん。」
「だから桂たちは松陰先生の言っていたもう一つの論。尊王を軸に、朝廷の意向を変えるのはおこがましいって。んで攘夷って事になるわけッス。」
「もう完全に屁理屈どころか独善だよね。自分たちさえ良ければって。」
「俺のとこにも署名しろって何通も文が。全部無視してるッスけど。国元に帰る事になればそうもいかないッス。」
「たいへんだねえ、お前も。」
「本当ッスよ。桂だって攘夷なんかしたってなんの益もねえ、ってわかってるはずなのに、久坂なんかとつるんで。俺はね、松陰先生の門下ではあるけどあいつらとは違うッス。異国は打ち払う事はできねえし、通商しなきゃ、この国はどんどん遅れていく。けどそれを口にしちゃ開国派だのなんだの言われるから黙っとくしかねえッス。」
「ねえ、思うんだけどさ。俺は幕臣、お前は長州藩士だろ? 」
「そうっすよ? 」
「だったら俺は幕府の為、お前は長州公、毛利様の為に働くのが筋だよな。だって、そこから禄をもらってるんだもん。」
「それなのに自分の意を通すために主君の意向を蔑ろに、って訳っすね。」
「うん、なんでそこまでって。」
「みんなどっかで世が荒れるのを期待してるんじゃないッスか? 乱世が来ればのし上がれる。俺だってそう思う所は全くないと言ったら嘘になるッス。足軽の子、それが江戸にまで出てこれたのは黒船が来て、松陰先生が塾を開いて、曲がりなりにも塾生になれたから。太平の世じゃこうは行かねえッス。」
「まあ、そこは俺も一緒かな。部屋住みが一家を起こせてお役目までも。黒船が来なきゃ講武所もなかっただろうし、そうなりゃ俺は男谷道場の師範で終わり。」
「新さんはね、今で満足してるッス。きれいな奥さんが居て、この鐘屋みたいな流行りの店をもって。立場だって講武所の剣術教授。だから世をこのままにって思うんじゃないッスか?
けどね、世には満足してない奴らがごまんといて、そいつらが少しでも自分の都合のいい世にするため、尊王だ、攘夷だって騒ぐんスよ。じゃなきゃ顔も見たことない帝を持ちだしてどうこう言う訳もないッス。」
「なるほどねえ、頭いいね、春輔は。」
「けどそん中に一握りの本物、イカレた奴らが混じってる。利に靡かず信条に殉じたいってのが。
松陰先生もそうだし、長州じゃ久坂ってのがそう。井伊大老を襲った水戸浪士も、ヒュースケンを斬った薩摩の伊牟田も。」
「そうかもね。やったところで利なんかないもの。自分の気持ちが満たされるだけで。」
「そういう奴らは話したって埒があかねえッス。最後は斬る、それしか。」
「はは、春輔。お前は良いな。ちゃんと人として生きてる。前にね、清河って虫の好かない男が言ってた。十の理想で人を集め、八の理屈で納得させて行動を。そして六の勝ちを得るんだと。その残った六が現実だってね。その論に照らせばお前は初めから六だ。八の理屈も十の理想もその場に合わせるだけ。」
「十の理想、八の理屈に六の現実ッスか。」
「そう、吉田さんは十の理想を掲げ、十の結果を求めた。だから無理があるんだって。お前は初めから六。残りの四は都合よく合わせてやればいい。」
「なるほど、そう言う事ッスね。それでいくと桂は十の理想に零の中身ッスね。知識はあれど人の理屈に乗っかって自分の意見は特にない奴ッス。」
「あはは、そうかも。あいつにとってはかっこよく見せることが全てなのかもよ? 」
「んで聞多さんは一から十まで銭ッスね。理想も理屈も現実も、下手すりゃ勝ちさえも銭に替えれるなら替えちまうッス。」
「うんうん、ほんと欲深いもんね、あいつ。」
「で、判らないのが高杉さんッス。」
「アレは謎の生き物だから、判ろうとする方が無理がある。考えたら負けだよ、春輔。」
「ほんと不思議ッス、あんな人なのに去年の暮に祝言上げたのは長州一の美人ッスからね。」
「マジで? 」
「マジっす。猫に小判っていうか、なんていうか。その嫁さんほっぽって海軍修行だとかで船に乗ってこっちに来るって話ッス。」
「ああいう危ないのはさ、藩から出さないほうが良いと思うよ? わりとマジで。」
「そうッスよね。」
その日は菜の花のお浸しにタケノコの煮もの。それにフキノトウとタラの芽の天ぷら。実に春らしいごちそうが用意されていた。
「すごいね、これ。全部律っちゃんが? 」
「ええ、もちろんです。新九郎さまと一緒にこうした春のものを頂きたく。はい、あーん。」
「あーん。」
桜の花も散り、その名残ともいうべき花弁が湖面に浮いていた。もちろんこのあと激しく哲学した。