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嘉永四年(1851年)
俺は日を決めて象山先生の五月塾に通い、残りの日は男谷道場で剣の修練に明け暮れた。
五月塾の象山先生とはすっかり打ち解け、先生も俺の事を新九郎と呼んで可愛がってくれる。肝心の学問の方はさっぱりだが、その辺は麟太郎が真剣に学んでいる。講義が終わってからが俺の務めた。
象山先生は講義が終わると護衛と言う名目で俺を連れ出し、今日は吉原、明日は深川、とばかりにいろんなところで女を買い漁る。何しろ象山先生は金持ちだ。俺の分も気前よく出してくれ、そのあとで料理屋で座敷を借りて酒とつまみを楽しみながら女の具合を討論するのだ。
「やはり、女と言う物はこう、かちっとした美人であるより、少し甘めの造形である方がよいな。」
「あ、それ、すっごくわかります。ちょっと年増で崩れてたりとか、ちょいブサイクくらいが味わいが。きれいな女ももちろんいいですけどね。」
「新九郎、美人と言う物は自分でもそれがわかっておる。なのでそれが鼻につく時があるのだ。だが少し崩れた女はそれがない。通ってやれば素直に喜ぶし、尽くし方も手を抜かぬ。」
「なるほど、流石は先生ですね。」
「人の営みは所詮は心持ち次第、そう言う事だな。いかに優れておっても心根が歪んで居ればそれを損なう。」
「あ、それ、柔術の師匠に言われました。」
「高みを覗いたものは皆同じなのであろう。吾輩も高みが見えてそう気づいた。いかに才知に優れようとそれはあくまで表面的なもの。
人は愛し愛され子を残す。それが本分であるとな。吾輩も妾を抱え、子を成した。だが妾は妾、この年になって初めて愛し愛される妻が欲しゅうなった。」
「先生なら誰でも嫁に来たがるんじゃないですか? 天下に名高い才覚で、金だってあるし。藩でもいい顔なんでしょ? 」
「新九郎よ、こうした事はな。ズビビっと雷が走るような出会いがなければうまくはいかぬ。吾輩の名声、それに財、そうしたものと引き替えてもいい。そう思える相手でなくてはな。」
「なるほどねぇ。俺は部屋住みですし、妻を迎えるなんて考えたこともないですけど。」
「まだお前は若いのだ。いずれそうした出会いがある。吾輩がお前に言える事は、そうした、雷が体を走るような出会いをしたならば、是が非でも一緒になれ。例え不義であれ何であれだ。」
「そう言うもんですかねえ。」
「そうだ。つまるところ人は、愛するものを得るために生きている。蘭学、剣術、それらは従であり、主ではない。お前も講談の宮本武蔵ぐらい知っていよう? 」
「ええ、まあ。」
「武蔵は天下第一の腕となったがそれを認めてくれる相手を欠いていた。愛するものを得ていなかったのだ。講談で、武蔵は己を慕うお通を遠ざける。迷いが出るのが怖かったのだよ。愛する女を得て、子を成し、その上で何かを成す。そうでなければ本物の男とは言えぬ。お通を抱きしめておれば武蔵もあんな穴倉で生涯を終える事もなかったであろうに。」
「なるほど。」
「愛するものに認められたい。人の欲望の原点はそこだ。その相手を守るため戦う。その為の剣であり、学問でもある。それが周囲の者、やがて天下国家へと思いをはせる元となる。端から天下を語るものは単なる愚物。薄っぺらくて実と言う物がないのだ。」
「んじゃ先生が真の国士となる為には、その愛する人を探さなきゃいけないですね。」
「そう言う事だ。その相手を満足させるのも男の務め。そのためにこうして色事の技も磨いておる。世に不要な事などは何もないのだ。」
「うーん、深い! 深いねえ。さすが先生だ! 」
俺はこの佐久間象山が大好きだった。とんでもなくスケベでそれを理屈をこねて正当化する。けどその中に四十男とは思えないほど純情さを秘めている。人からは傲慢だのなんだの言われてはいるが誰に対しても傲慢なのだ。そう言う人、と思えば腹も立たない。何よりこうして事あるごとに女を奢ってくれるのだ。嫌いになれと言う方が難しい。
それとは別に島田道場へもちょくちょく足を運んだ。家人が言うには結核かなにかの病だと言う。感染するといけないと面会はいつも布団で寝た切りの先生がいる隣の部屋まで。すっかりやせ細った先生は、それでも声だけは逞しく、時折せき込みながら俺の来訪を喜んでくれる。
「新九郎、よっく来てくれた。腕が達とうが何が達とうがこうなっちまえばお終えよ。寝たきりになっちまえば価値がねえ。あんだけいた弟子たちも今はどっかに散らばっちまって顔も見せねえ。寂しいもんさ。」
「先生。」
「お医者の見立てじゃ持ったところで一年やそこらだって言う。俺もできる事なら小吉さんみてえにぽっくりと、そう逝きたかったがそうは問屋が卸さねえ見てえだ。ま、おめえもなんだかんだ言ってすっかり落ち着いた見てえだし、小吉さんとの約束は果たせたって事だ。あの人はうるせえからな。あの世に行ってまで文句つけられちゃかなわねえ。ははっ。」
そう言って虎之助先生はゴホゴホと咳こんだ。
「新九郎、おめえは気性が小吉さんによく似てる。考えが浅くて、乱暴で、そのくせ悪にはなり切れねえ。先日な、麟太郎が来ておめえの事を言ってた。なんでも蘭学を学んでんだって? 学問の方はさっぱりだが気難しい先生に可愛がられてるって。」
「はは、あいつそんな事を。」
「若いうちはなんでも学んどくもんだ。俺もおめえと同じく部屋住みでな。扱いなんてのは知れたもんさ。だから俺も旅に出た。いくらか剣には自信もあったしな。あっちだこっちだとぶっちめて回ってみたが気も晴れねえし金はねえ。そんな折、人の勧めで禅の修業をしてみたさ。そうするうちにな、世をすねてんのが馬鹿馬鹿しくなってな、俺は剣ができる。それだけでも幸せなもんだって一層剣の稽古に励んだもんさ。」
「先生も、部屋住みだったんですか。」
「そうさ、どんな生まれだって面白い事ばかりじゃねえさ。小吉さんは勝の家を継いだがあれこれあってやっぱり世をすねた。んで人に迷惑かけっきりの人生だ。おめえも知っての通りな。」
「あはは、そうですね。」
「けどあの人に助けられたって人もごまんといる。そりゃあ男谷の一族は大変な目にあったが物の見方は一つじゃねえって事だ。
あの人は困ってる奴を決して捨て置かなかった。自分が食うや食わずになっても銭を惜しまなかった。そして死ぬまであのまんま、自分を折らず人に頭を下げねえ生き方を貫いたさ。」
「たしかにそうですね。」
「おめえは男谷の一族とはいえ、うだつの上がらねえ部屋住みの身。そいつばかりは仕方ねえ。生まれは選べねえからな。とはいえ、おめえには剣の腕もあれば、人にほっとかれねえ可愛げもある。世をすねてる暇があるならいろんなことを学んでみろ。
剣に柔術それに学問。世の中にはおもしれえもんがいくらでもある。そうやっていろんなもんを学んだ上でてめえってもんを定めるんだ。んでな、一度定めたらそいつを折らねえことだ。俺のように剣術を教えて生きるのもいい。学問が向いてりゃそっちで生きるのもいいさ。」
「ははっ、俺はどうも学問の方は。」
「だろうな。だったらそう言う先生方の生き方を学ぶのも一つだ。男谷の先生は立派な方だがああなるのは難しい。だがな、世をすねてグレかえっちゃ碌な事にはなりゃしねえさ。小吉さんも書き残したろ? 自分のようにはなるなって。あの人はあの人で立派な人だったがああも無茶苦茶じゃ、残されたもんが苦労する。麟太郎はなんだかんだと出来はいいが、いっつも貧乏で苦労してる。」
「確かに。」
「だからな、おめえがどう生きようが構わねえが世をすねる真似だけはしてくれるな。これがおめえの師匠としての最後の教えさ。」
「先生、そんな事言うんじゃねえよ。」
「俺はな、新九郎。なんだかんだあったが楽しく生きれた。男谷の先生、それに小吉さん、あとは麟太郎におめえ。こうして床に伏してみてよくわかる。大切なのは人、友達なんだってな。いいか。どんなに出世しようが寂しかったらそいつは負けだ。そうならねえように生きていけ。
それと病が感染るといけねえからもうここには来るんじゃねえ。おめえに病を感染した、なんてことになりゃあの世で小吉さんに引っ叩かれるからな。用があるなら文を寄越せ。麟太郎にもそう言ってある。いいな? 」
「先生。」
「ほら、しけた面してんじゃねえよ。とっとと帰れ。」
追い払われるように島田道場を後にする。出世しても寂しかったら負け、か。なんとなくその言葉が心に残った。
そんなこんなで年が明け、嘉永も五年目を迎える。1852年だ。俺が目を覚まして三年目。今じゃ現代人としての感覚もすっかり薄れ、松坂新九郎として違和感なく生きている。歳も19になっていた。
男谷の道場で師範を続ける一方で、畳斬りにも相変わらず精を出す。竹刀打ちでは敵わないがこっちばかりは健吉に負けるわけにはいかないのだ。そろそろ春になろうかという頃、ついに俺は畳を両断することに成功した。精一郎さんはその儀をもって俺に直心影流男谷派の免許皆伝としてくれた。健吉も、道場の連中も、それを祝って宴を開いてくれる。
「新九郎よ、わしはな、これほど嬉しい事はない。男谷の男、軟弱な奴も多い中、お前にはわしの剣術を余すことなく伝えられた。これよりは正式な道場の師範。給金もだしてやる。小吉の奴にも、虎之助にもこの晴れ姿を見せてやりたかった。」
そう言って精一郎さんは男泣きに泣くと、酒をぐっと煽った。
「そうですよ、新さん。私は竹刀打ちじゃあなたに勝てますが、刀を持っちゃかなわない。誰もが認める男谷の免許皆伝です。」
いっつも上から物を言っていた榊原健吉もこの日ばかりは素直に俺を褒めてくれた。
「新九郎、これでお前も一人前だ。もう松坂の部屋住みじゃない。離れを一つ建ててやるからこれからはそこで暮らせ。馴染んだ女がいるなら妾に迎え入れてもいい。いないのであればわしが嫁の世話もする。 いいか、新九郎。剣でも学問でも学んだことをどう生かすか。それが肝要。前にも言ったが今の我らがあるのは祖である検校殿の身を立ててくださったご公儀、幕府のおかげである。わしもお前もその為に働くは当然。そう心得よ。」
「はい。」
「わしはな、公儀に旗本の修練の場の必要を説いておる。今の旗本は軟弱に過ぎる。しかとした場を設け、大樹にもそれをご覧頂く。まだまだ時はかかろうが、そうなった暁にはお前にも存分に働いてもらわねばな。免許に満足せず、修練を怠るな。いいな? 」
「はい。」
その日から俺は正式に男谷道場の師範となり、みんなからも先生と呼ばれることになった。夏の頃には離れも建ち、そこで暮らす事になる。飯は道場でみんなと食うが自分のスペースがあると言うのは良いものだ。
一方で象山先生の五月塾にはどんどん塾生が増えてくる。昨年入門した吉田寅次郎、宮部鼎蔵、小林虎三郎なんていうガチ勢が麟太郎と一緒になって今日もなんだかんだと討論している。中でも吉田寅次郎なんてのは九州から東北までをぐるりと回り、その目で外国船を見るつもりで津軽まで行ったと言う。その東北に行くにあたって藩の手続きを待たずに脱藩。江戸に帰着して士籍剥奪、家禄の没収までされた。どこにでもそう言う迷惑な奴はいるもんだ、とそう思った。
だがいくつか年上の吉田さんは誰に対しても物腰が柔らかく、決して自論を押し付ける、と言う事をしない。また、諸国を廻っただけの事はあり、非常に博学で、俺なんかにもわかるよう、かみ砕いて教えてくれる。更にはふわっふわの麟太郎と違い、自分の考えと言う物をしっかり持っていた。
「いいですかな、新九郎殿。世に不変の真理と言う物はないのです。様々な教えを学び、その中で適したものを拾い集める。それを己の真理として作り上げねばなりません。」
「はあ。」
「私は長州で様々な書を読み、教えを学んだ。その中には当世の習わしには合わぬ、そうしたものも数多く。ですが当世に合わぬ、その事をもって切り捨てては世は進まぬもの。」
「なんとなくわかります。」
「その中で私が感銘を受けたのは陽明学。御存知ですか? 」
「いいえ、まったく。」
「陽明学においては大切なのは人のつながり。朱子学におけるそれは君臣、それに身分といった儒教的な物に重きを置いていますが陽明学に置いては横、つまり君臣身分の関わりなしに友としての付き合いを重んじる。武士であろうが百姓であろうが人は人、優れたものはどこにでも現れるものです。それを卑しき生まれであるからと蔑ろにしては世の損失。かつて太閤秀吉がそうであったように、土民の中にも志のあるものは生まれるものです。」
うわっ、それって身分制度の否定じゃん。過激だね、この人も。
「ですが安寧を得るために平時に於いては公儀の薦める朱子学、人の分を弁えた生き方、教えが重要なのもわかります。ですが今は外国の船がたびたびこの国を犯し、鎖国の祖法もあるやなしやの状況。事が起きた時に広く人材を求め、その英知によって難局を乗り切らねば。」
「なるほどですね。」
「しかしその英知も学がなければ片手落ちと言うもの。象山先生の教える進んだ技術、考え方を血肉にし、それを広くあまねく伝えて行きたい。そう私は考えています。新九郎殿はいかにお考えですか? 」
「えっと、俺は難しい事はよくわからないんですけど、柔術の師が、どんなに出世しても寂しかったら負けだ、と。なのでその陽明学が何かは知りませんけど、友をたくさん作りたい、そう思っています。」
「実に、実に素晴らしいお言葉。その師の言われたことは私もまったくもって同感です。人が獣と違うのはその一点。生きる上で他者との交流が不可欠であるという事。で、あればいかがでしょう。私とも、友となっていただけませんか? 」
「あはは、俺なんかでよければ。」
「私はずっと不可思議に思っていたのです。血縁であられる勝殿は別としても、あの気難しき象山先生が貴殿に対しては誰よりも気安く。失礼ながら、学問においては全く、身が入っておられぬ新九郎殿になぜそこまでと。」
「ですよねー。」
「ですが今のお言葉で合点が。新九郎殿は、剣の修練に於いて、学問を学ばずとも事の肝要を体得されていた。」
吉田さんは感心仕切りで頷いていた。ははっ、それほどでも。
「そう言う事であるな、寅次郎。新九郎は吾輩にとって弟子と言うより友に近い。吾輩の教える学問こそ全く身につかぬが、大切な事はしかと学んでおる。そうした意味では最高の弟子でもあるな。」
「先生、この寅次郎は物の見方は無数にある。それは存じておりましたが、今、ようやくそれを体得できました。」
「寅次郎、この新九郎は学問においてはそなたの足元にも及ばぬ。しかし新九郎は男谷の免状を受け、道場の師範でもあるのだ。剣においては我らが足元にもおよばぬ。そしていかに砲術や西洋軍学が進んだものとはいえ、この国で長い時を経て培われた士道と言うものは決して軽く見れるものではないのだ。
いかにそなたが才長け、兵の指揮に通じていようとも、新九郎はこの場の全員をその気になれば殺せる。そう言う力が剣にはあり、それは人に認められるべきことでもある。そしてそうした人の言葉はその場を決めるだけの重みがあるのだ。」
「知に溺れし者は武を軽んじる。私もそうならぬよう常に心掛けいたします。」
「口先だけでは人は心底からは納得せぬ。武がなければいざという時行動を躊躇うものだ。文武両道、まさにそうであるな。」
「はい、金言ありがたく。」
「して、新九郎。我らは我らの修練に勤しまねばな。寅次郎、そなたも行くか? 」
「どちらに? 」
「うむ、我らは人にとって、最も重要な愛を学びに行くのだ。実践を重ねねば真理は掴めぬからな。はっはっは。」
「なるほど、ですが私は天下国家に惚れこんた者。軽々しく他所を向いては天下に申し訳なく。」
「いささか変わった趣味ではあるが、それもよかろう。では新九郎、行くか。」
「はい。実はですね、柳橋にいい料理茶屋が。」
「ほう、実に興味深い。」
俺たちは墨田の川を臨む柳橋の料理屋に入る。二階の座敷からは川面がよく見えて実に景色がいい。粋な辰巳芸者を二人呼び、その三味線の音を楽しみながら酒を飲む。
男言葉に薄化粧、芸は売っても色は売らない。そんな矜持をもった辰巳芸者だが馴染みとなれば話も変わる。そうした疑似恋愛を経て口説き落とすというのも吉原をはじめとした遊郭と違って味がある。
「実はな、新九郎。今日はお前に相談もあってな。」
「珍しいじゃないですか、先生が相談なんて。」
「実はな、先日、勝の家に赴いたのだ。」
「麟太郎の家? 貧乏で先生を迎え入れる有様でもないでしょうに。」
「うむ、確かに貧し気ではあったが、あちらの細君もよくしてくれた。それでな、その、吾輩にもついにあったのだ。」
「何がです? 」
「こう、ズビビっと体中に雷が走る出会いが。」
「へ? 」
「勝の妹でな、名をお順と言う。お前は親族であるから知っていよう? 」
「ええ、まあ。」
「吾輩はな、あれ以来夢にも見るのだ。そこでだ、お前の方からも口添えをしてくれぬか? 」
「えっと、本気? 」
「うむ。我が妻とするべきはあのお順である。」
「そりゃあ構わないですけど。あのお順がねえ。」
「お前は親族である故、お順の魅力を感じぬのだ。あのむちっとした尻がたまらん! 」
「あはは、確かに尻はでかいかも。けど勝のお家はびっくりするほど貧乏ですよ? 」
「それも存じておる。勝はいずれ独り立ちできよう。そうなれば門下を抱え、金回りもよくなる。懸念は不要だ。」
「ま、俺の方からもうまい事言ってみますよ。」
「うむ、頼りにしている。さて、そうと決まれば鍛錬に勤しまねばな。これ、豆奴、近う寄らぬか。」
「んじゃ俺は蔦吉と。あっちの部屋に行こうか。」
「先生方はまったくもって野暮だねえ。他の女の話してアタシらを抱こうってかい? 」
「野暮も良いものであるぞ? 」
「まったく、憎たらしいったらありゃしないよ! 」
豆奴が憤る中、俺は蔦吉を連れて部屋を移動する。
「新さんは象山先生みたいな野暮はいわないだろ? 」
「ははっ、俺にはそんな相手もいないしね。」
「そんなやっとうなんか差さなくても新さんなら、あたしが食わしてやるって言ってんのにさ。」
「それも悪くないけど剣術も、学問も馴染んでみれば楽しくてね。」
そう言って蔦吉が火を入れてくれた愛用のキセルに口をつけ一服する。俺がこうしてモテるのも金払いのいい象山先生のおかげだ。そう思えばお順の事は何とかしてやらなければ、そう思う。
「ふふっ、新さんには剣術よりも学問よりも、あたしの方が楽しいって、知ってもらわなきゃね。」
艶っぽく誘う蔦吉に応え、その日は宵闇までそこで過ごした。
大樹……将軍の事
辰巳芸者……地味な色の着物を着て、当時男の着物であった羽織を着込んだ芸者。深川にいたのが浄化作戦で追い払われ柳橋にはたくさんいたそうです。イメージとしては御家人残九郎の蔦吉。〇吉とか〇奴とか男名前であるのも特徴ですね。気風の良い姉御肌。そんな感じです。