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 講武所の方もいろいろと変化があった。


 まず、桜田門外の変以来、講武所には泊番ができ、組を決めて誰かが泊まり込み、有事に備える事となった。それともう一つ、師範である伊庭軍兵衛と五十名ほどの生徒が将軍警護の奥詰めとして登用される。

 そしてその代わりとして健吉が師範に格上げとなった。二月に移転した際、お披露目の試合で優勝したのも健吉で、それが将軍家茂公にまで聞こえ、お気に入りとなり、将軍の個人教授も務めている。


「でさ、健吉、どうなの? 家茂公は。」


「ええ、とても素晴らしい方ですよ。素直で、おおらかで。何より向上心がありますから。」


「そっか、また年若いのに大変だよね。このご時世に将軍なんて。」


「そうですね。この健吉も少しでもお心を軽くできればと。ですが家茂公は皆から好かれ、大奥からも幕閣からも評判がいいともっぱらの噂です。」


「そっか。それは何よりだね。」


「新さん。今井さんにはそろそろ免許を授けようと思いますが。」


「ああ、あの人ならいいんじゃない? かなりできるし。」


「そうなれば先生に相談して剣術教授方に、と思っていますが。」


「うん、そうだねえ。いいと思うよ? 」


「まだ、年も若いので、いろいろ席を外すことが多い私の代わりに、今井さんの事、お願いできますか? 」


「あの人は気も合うし、かまわないよ。健吉は将軍を。」


「そちらはお任せを。必ずや武に優れし方に。」


 そんな事もあって、俺は講武所では只さん、そして今井さんと一緒に過ごすことが多くなった。


「今井、お茶をくれ。」


「はい、すぐに。」


 会津の特殊な教育を受けて育った只さんは年下に厳しい。今井さんにはきつく当たり、逆に年上の健吉などには自ら茶をもっていったりとうやうやしく接するのだ。今井さんも文句の一つもあるのだろうが、年上にはものすごく敬意を払う只さんの姿を見ては何も言えない。


「ねえ、只さん。ちょっと厳しいんじゃない? 」


「でもさ、新さん。年功序列は大切だよ? 年上を敬えなくなれば、身分だって。今井は見どころがあるからね。きちんとした武士になって欲しいんだ。」


 いつもボーっとしている只さんは講武所に勤務している間はしゃんとしている。稽古も熱心、真面目なのだ。剣術教授方としても教え方が丁寧で、皆からも慕われていた。


「そうですよ、新さん。佐々木さんは自らが出来ぬ事をせよとは仰いません。上を敬い、下を慈しむ。会津の教えはまさに武士の本分かと。新さんのように上にも下にも厳しくてはたまりませんからね。」


「えっ? 俺って厳しいの? 」


「ちょっと新さん、まさか気づいてないの? いいかい、この講武所で新さんに勝てるのは男谷先生と榊原先生だけなんだよ? 師範だろうが剣術教授だろうが、生徒とおんなじ扱いでしょ? 新さんは。」


「だって、稽古なんだし。それを言ったら今井さんだってそうじゃん! 」


「今井は今までは生徒だった。生徒が師範に全力で当たるのは当たり前。教授方となった今はそう言う事も覚えさせないと。」


「はい、他の教授方の面目もありますから。」


「ねえ、新さん。あの男谷先生だって対峙するときは相手に一本取らせて手向けとしてるんだよ? 」


「そうだけど、俺はそんなことされたことないし。」


「何事も塩梅ってのがあるんだから。榊原先生が師範に上がった今、新さんが教授方の筆頭でしょ? ほかの教授方みーんな引っ叩いちゃ生徒だって教授方を軽く見るの。」


「なるほど! まったく考えたことなかった。只さん、頭いいね。」


 完全にダメ人間だと決めつけていた只さんは稼働中は威厳のある人格者だった。とはいえ、勤務が終わり、外に出ると電池が切れたかのようにダメになる。


「ねえ、新さん、今井も、今日はうちにおいでよ。兄ちゃんがさ、会津のお菓子、持ってきてくれてね。」


「いいですね。」


「へえ、会津のお菓子ねえ。」


 ふにゃっとなった只さんはそのお菓子がいかにうまいものかを語り始める。


「七重さーん! 兄ちゃんが持ってきてくれたお菓子ちょうだい! あとお茶もお願いしていい? 」


「はいはい。すぐにお持ちしますね。」


 家に帰り着いた只さんは、すぐさま座敷に横になり、出された菓子を俺たちにくれた。勤務以外はダメな人、あとは例によって和歌の講釈を俺たち相手に始めるのだ。和歌の事になるとまた、しゃんとする。姿勢を整え、持ちだした書物を丁寧に開いてああだこうだと述べるのだ。絵も書も達者、文化系の一面も持ち合わせる今井さんはすっかり意気投合。その方面をまるで持ち合わせていない俺はあくびをしながらゴロゴロしていた。


「新さん、あの人は和歌の話になると長いですから。話の合う方が来てくださって助かります。語る相手が私だけでは物足りなかったでしょうしね。」


すぐさんは? 」


「義兄上も中々にお忙しく。顔を見せてくださった時は相手をしてくださるのですが。」


「あー、そうだよね。藩の重役だもん。忙しいよね。」



 六月になるとアメリカに条約文書の交換に行っていた使節一行が帰ってくる。その中には海舟もいて、男谷道場に帰国の挨拶に来た。


「無事で何よりだな。麟太郎。」


「おかげさまで、何とか。もう、船の長旅はきついのなんので。」


「さもあろう。して、学ぶべきことはあったか? 」


「学ぶもなんもすべてが違ってましてね。右も左も目新しいもんばっかり。書物で見るのとこの目で見るんじゃ大違いでした。」


「そうか、よい経験をしたな。お前はそれを公儀、幕府の為に生かさねばな。」


「ええ、もちろんそのつもりで。オイラたちだけじゃねえ、使節のお偉方もそのつもりです。」


「そうだ、それでいい。新九郎の友であった吉田松陰のように、一人で先走っては何事も成らぬもの。周りを固め、皆の賛同を得られねばいかに優れた考えも戯言にしか聞こえぬ。」


「そうですね。オイラは吉田さんにこそ、異国をその目で見てもらいたかった。そう思ってる。」


「なればその分、お前が働かねばな。」


「ん、もちろんです。でね、精一郎さん。今回の褒美って事で大判五枚もらった。ずっと世話になりっぱなしだったからこれを。」


 海舟は俺たちの前に袱紗に包まれた大判を広げて見せた。


「それはお前自身の為に使え。子が出来て大変なのだろう? 」


「あっちゃあ、それもばれてたか。うっかり下女を孕ましちまって。八月には。」


「子は母がだれであれお前の子。分け隔てなく育ててやらねばな。」


「ええ、民の奴もそうしてくれるって。オイラはあいつに頭が上がらねえや。」


「お前はますます重き立場となろう。家内の事はきちんとせねばな。そして一人で先走らず、常に周囲との和を心がけよ。智者は鋭くなりがちな物。鋭くなれば細くなり、折るのも容易くなるゆえな。」


「はい、一人で事を進めちゃならねえ。よくわかります。」


「健吉は大樹、家茂公のお側に上がり、講武所からも奥詰めに人を出した。我らのできることは守る事。お前は幕閣の方々と共によりよくなるよう指針を示せ。よいな? 男谷の男として決して恥ずべき事の無いよう。」


 海舟は深々とお辞儀をして帰っていった。


「ま、あやつはあやつ。わしらはわしら。難しい事は任せておけばいい。」


「うん、そうだよね。」


「新九郎。男谷の家はせがれに継がせ、道場は健吉に。だが、男谷の男としての矜持はお前が継ぐのだ。麟太郎が男谷の男として恥ずべき事をしたならば、お前が斬らねばならぬ。」


「ああ、もちろんさ。」


「わしが今少し若ければ自ら、とも思わんでもないがな。」


「ははっ、親父殿は男谷の誇り、剣聖なんだ。汚れ仕事は俺がする。きっと小吉おじさんもそう言うはずさ。」


「ふふ、新九郎、立派に育ったな。」


 最近涙もろくなった親父殿はそう言って目に涙を浮かべた。



 講武所ではいつもの通り厳しい鍛錬が行われていた。中でも只さんは激しく皆を叱咤する。その只さんは最近いろいろな友達が増えたようで、以前のようなボッチではなくなっていた。


「新さん、この山岡は中々に見どころがある。少し相手を頼めるかな? 」


「うん、別にいいけど。」


 只さんは仲がいいかもしれないが、俺はその山岡があまり好きではなかった。いくつか年下の山岡は汗がきらりと光るようなイケメン。

 それだけでも好感度下がりまくりなのに、鉄舟などと言う号まで名乗っている。妻の父がやはり講武所槍術方の教授方で先ごろ師範となった高橋泥舟。海舟とあわせ、俊英三舟などと呼ばれているのがまた気に入らない。

 まして剣術は直心影流を学び、北辰一刀流も学んでいて、技量抜群と言われるほどだ。講武所でも世話役の一人、役職をもった上級生徒だった。


 さて、そんな山岡を竹刀打ちで相手にしては当然負ける恐れが出てくる。負けるのが嫌いな俺は組打ち、投げ、面を剥ぐ。君が参ったと言うまで投げるのをやめない!


 ぎりぎりと腕をねじ上げられながら、イケメンは悔し涙を浮かべつつ、参った、と口にする。その顔には剣術なら負けないのに、と書いてあった。残念だったね。イケメンに罰を与えるのに手段なんか選べない。そうだろ? みんな。


 そう思ってみんなを振り返ると、どの顔もドン引きだった。うわぁ、と言う目で俺を見る。流石に気まずくなった俺は山岡を立たせ、剥ぎ取った面を拾ってやった。


「うん、流石だね、山岡。見どころがあるよ。うん。」


 取ってつけたようにそう言って他の生徒の指導に当たった。只さんはしっぶーい顔で俺を見ていたし、今井さんはにやりと笑った。他のみんなは、ほんと大人げねえな、こいつ、と言わんばかりの顔で俺を見ていた。



 山岡鉄舟はイケメンである。イケメンとは中身もイケている物らしく、悪意を持って痛めつけた俺にも笑顔で接してくれる。もちろんイケメンは悪口なんか言わないのだ。


「松坂先生、先生の武勇はまさに絶倫。この鉄舟、感服仕りました。」


「あはは、そう? 」


 非常に気まずい俺はとりあえずそう答えておいた。


「ですが先生、その武もこころざしなくば、ただの暴力となり果てましょう。先生はこの時勢においていかなる志をお持ちでございましょうや? 」


「こ、志? はは、そうね。」


「もし、迷いがおありであれば識者の話を聞かれてはいかがかと。良ければ私の知人に会っていただければと。」


「あ、うん、只さん? 」


 隣にいた只さんは稽古が終わり電池切れ。時折ぐふふっと笑いながらぼーっとしていた。


「佐々木先生! 先生も会津のお生まれ、会津の教えは素晴らしきものと伺いますが、他の意見を聞くのもまた重要。そう思われませぬか? 」


 電池切れの只さんは、会津というキーワードが入ると一瞬稼働する。


「山岡。もっともだな。」


 そう言うと電池が切れたのかまた、何やら空想の世界に入っていった。なんかこう、集中力のない犬みたいだ。


「近々、そう言った席を儲けますので、お二方とも来ていただけますか? 」


「かまわんよ。」


 空想の世界からちょっとだけ現実に顔をのぞかせた只さんがそう答える。俺は内心、面倒くせえな、と思っていたが只さんを一人で行かせてはまたねるのだ。


「ははっ、そりゃあいいけど夏が過ぎてからね。熱い最中になに聞いても身に入らないし。」


「あ、それが良いね。夏は和歌の季節だから、俺もいろいろ忙しいし。」


 どんな季節よ! と俺と山岡はそう突っ込みたかったが、下手に突っ込んで長々と講釈を聞かせられるのも嫌なので、互いに目くばせして、ぐっとこらえた。



 八月、水戸の前藩主、徳川斉昭が亡くなった。噂によれば井伊大老を水戸浪士に殺された彦根の連中の報復だともいう。公式発表は病死だった。


「不埒な水戸の女め! この俺が召し取ってくれる! 」


「わたくしはそのような者では! 新九郎さま、お許しくださいまし! あーれー! 」


「着物の中に何か隠しているかもしれぬな。」


「滅相もございませぬ。あん、そのようなご無体を! 」


 俺たちは幸せだった。


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