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閏月……月を基準とした太陰暦では暦と季節のずれが大きいので大体三年に一回、閏月と言うのを挟みます。

その年は一年が13か月となるわけですね。作中のこの年がまさにそうで、井伊大老が討ち取られた三月三日からこの話の四月初旬までには間に閏う三月を挟み、二か月が経過しているという事です。


「なあ、旦那、ちいとばかし相談があるんだが。」


 閏三月の下旬、トシが亀沢の家を訪ねてきた。


「どうしたの。ま、いいや、上がって。律っちゃん、トシが来たからお茶ちょうだい。」


「はーい。」


 ここしばらくトシは以前に比べて逞しくなっている。聞けば去年から義兄の勧めで道場に通い始めたのだという。


「んでな、この道場が問題でな。」


「変なところなの? 」


「いんや、先生はまあ、面白い人だ。牛込にある天然理心流、試衛館。聞いたことねえか? 」


「いや、全く。」


「うちの多摩の方じゃ昔から有名でな。よく出張稽古に来てたんだ。」


「んで? 」


「その天然理心流ってのが、こう、なんていうか古めかしい古流でな。気組みだなんだってのが中心で、いわゆる竹刀打ちが不得手なんだ。」


「へえ、そういう所もあるんだねえ。」


「んで、それに目を付けた腕自慢が道場破りにちょくちょく来やがる。当然勝てるわけねえんで、いくばくか包んでお引き取り願ってるってわけだ。」


「大変だね。」


「そうなるとな、先生の奥方が荒れるんだよ。先生の後継ぎとして養子に入った勝太ってのがいびられんだ。」


「そいつも竹刀打ちはできないの? 」


「ダメだな。そもそも上手になろうって気がねえんだ。いっつも丸太を振ってるから力だけはあるんだが。まあ、弱いって訳じゃねえがうまい奴には敵わねえ。」


「他の門人は? 」


「どいつもこいつも似たようなもんでな。一人二人できるのはいるが、そいつらは他所との掛け持ちでいつもいるとは限らねえんだ。」


「んで? 」


「だからよう、旦那に助っ人を頼めねえかと思って。なんたって天下の講武所の剣術教授方なんだ。そこらの腕利きなんか余裕だろ? 」


「んー、でもな、講武所の務めもあるし。それに休みの日は忙しいからな。」


「そうですね、お休みの日は絶対に無理です。」


「はいはい、そうでしょうよ。あー誰か暇な奴で竹刀打ちが得意なのいねえかな。」


「牛込は遠いしね。」


「いざって時に間に合わねえと意味ねえしな。」


「定さんのところは? 」


「行ってみたんだがな、恐ろしい顔のさなさんに何も言えずに帰ってきた。」


「さなは相変わらず? 」


「いや、より悪化してんな。顔つきがきついのなんのって。」


「うわぁ。」


「ま、仕方ねえか。別をあたるよ。」


「そうだねって、あっ、」


「なんだ? 」


「いいのがいるじゃん。竹刀打ちなら抜群にうまいし、おだてりゃ金もかからない。」


「そんな奴いるもんか。どいつもこいつも最後は決まって銭の話さ。」


「いるんだな、それが。桂だよ、桂。」


「えーっ! 桂? 」


「あいつは竹刀打ちだけはうまいらしいよ。俺は相手したことないけど。」


「あんたが奴をぶっちめたって話なら聞いたぜ? 」


「だって、万一負けたら嫌じゃん。トシは長州藩邸に知り合いもいるだろ? うまく話しつけりゃきっと。」


「けどなあ、俺、あいつ嫌いだし。おだてるなんて出来ねえよ。旦那、あんたからうまい事話してみちゃくれねえか? いくばくかは銭も出すから。」


「うーん、ならさ、今度の休みに鐘屋に来るように言っといてよ。」


「ん、判った。悪いが頼むよ。俺もてめえの通う道場がバカにされんのは好きじゃねえし。」


 そう言ってトシは茶をすすると帰っていった。



「ふむ、天然理心流か。」


 夕餉の時に親父殿に今日のあらましを話した。


「多摩や武蔵、それに相模のほうでは結構な勢いと聞いたことがあるな。」


「そうなの? 俺は初めて聞いたけど。」


「剣術道場にはな、武家向けと民に向けた物がある。地方の村々ではそうした道場を招いて村の若者たちを鍛えさせるのだ。そうでもしなければ力を余した若者が悪さをするかもしれぬからな。剣術で発散させるという訳だ。」


「なるほどねえ。」


「古流が多いのもその為だろうな。民には剣術道具をそろえるのが難しい。だが、木刀一本、竹刀一本であれば揃えるのも容易だ。竹刀打ちが不得手なのも頷ける。」


「けど今の江戸じゃ竹刀打ちができないと。」


「確かにな、北辰一刀流の隆盛以来、そういう事になっている。だが、そうした古流は侮れぬ。なにせ刀の使い方を意識した教えだからな。一朝事が起きれば竹刀打ちの連中などよりはよほど役に立とう。」


「そういや只さんも竹刀打ちはへたくそだもんね。」


「うむ、だがあの小太刀は大したものよ。小太刀であればわしも及ばぬかもしれぬな。」


「まさか。」


「はは、とにかくだ、トシとてお前の友、できる限りの事はしてやれ。それにその試衛館とやらも一度顔を出してみるといい。お前であれば得るものもあろうしな。」


「うん、そうしてみる。」


「前も言ったが戦いとは剣だけではない。柔術、拳、それに鉄砲。何を用いても勝てばいいのだ。卑怯だなんだは負けた者の戯言よ。大老がそうであったようにな。」


「うん、確かにね。」


「なんでも広く物を見て、使えそうなものは身に着ける。それが男谷の流派よ。お前はそういう意味では一番であるな。」


「ははっ、親父殿にはまだまだ遠いさ。健吉にだって。」


「そうやすやすと追いつかれはせぬさ。だが、剣はともかく、戦いとなれば健吉はお前に及ばん。それはあ奴が一番わかっている。わしはまだお前に勝てるがな。」


「親父殿に勝てる奴なんかいるわけないじゃん。」


「いや、一人だけいた。」


「マジで? 」


「うむ、小吉だな。腹立たしいが、いまだに奴には及ばぬ。剣では勝てる。柔術でもな。だが戦いでは勝てん。わしにも目指す相手がいると言う事だ。」


「なるほど。確かにアレに勝てる気はしないもんね。」


「お前には小吉に似た才がある。剣でダメなら柔術、それでだめなら鉄砲をためらいなく使えよう? 」


「いざとなればね。」


「普通はそれが出来ぬのだ。健吉は剣一筋、佐々木もそうであろうな。己の鍛えた技に、誇り、こだわりが生じるからそれ以外を使おうとせぬのだ。」



 親父殿は話は相変わらず深い。そう、井伊大老は負けたのだ。討ち取られてしまえばそこまで。卑怯だなんだと言ったところで始まらない。どんな真似をしても勝つことが大事。よくわかる例えだった。


「新九郎さま、お布団の上でもそれは同じ。勝たねば意味はありませぬ。今宵の床合戦、わたくしも負けはしませぬよ? 」


「あはは、そうだね。見事勝利して律っちゃんに、だらしない顔をさせてやるさ。」


 だが、勝鬨を上げたのは律だった。



 次の休みの日、約束通り、トシが鐘屋に桂と俊輔を連れてきた。


「して、何用ですかな。新九郎殿。僕も何かと忙しいのでね。」


 うーん、このもったいぶった言いぐさ。すまし顔と合わせて見ているだけで殴りたくなる。


「さ、皆さま、お茶を。」


 律が俺たちに茶を菓子を出してくれた。桂の分はなかった。


「悪いッスね、奥方、いっつも。」


「いいのですよ、俊輔さん。新九郎さまの友とあれば。」


「そういうこったな。俊輔、遠慮しちゃ悪い。代わりにいっつもべたべたしてんの見せつけられてんだしよ。」


「まあ、トシさんたら。わたくしたちはあれが常の姿ですよ? ね、新九郎さま。」


「うんうん。普通だよね。」


「あのー、ちょっといいか? 僕に用事があったんだよね? なのにこの扱いはどうかと。」


「新九郎さま? 今宵は何を召し上がります? 精のつくものをたんと召し上がっていただかないと。」


「そうだねえ。律っちゃんの作ったものなら何でもいいかな。どれもおいしいし。愛情がこもってるもんね。」


「ちょっと! そこ! 」


「あら、何か雑音が。おいしいものを拵えますから楽しみにしておいてくださいませ。それじゃ、トシさん、俊輔さん、ごゆっくり。」


 完全に桂を無視するスキルをもった律はそう言って奥に下がった。


「な、お茶や菓子くらいもらって当然なんだよ。」


「そうッスね。」


「コホン! 僕もね、忙しいから、話があるなら早くしてくれないかな。」


「あ、そうそう、桂に話があったんだった。」


「お茶もお菓子もないけど、聞くだけなら聞いてやらぬこともないけど? 」


「そのさ、お前ってヘタレでむかつく奴だけど、竹刀打ちだけは上手じゃん? 」


「練兵館の塾頭は伊達ではないからな。」


「そそ、たぶん江戸で一番の腕前じゃないかって。講武所でもそう噂してる。」


「ほう、流石は選りすぐりの幕臣方が修練する講武所。わが剣の腕を判っておられる。」


「そうそう、で、その剣の腕なら困ってる人を助けるのもできるんじゃないかなって。」


「それはやぶさかではないが? 事情を聴かねば返事はできん。」


「実はね、牛込のトシの道場がね、ろくでなしの道場破りに絡まれちゃって、困ってるんだよ。だからさ、桂に助っ人にって。」


「断る! なぜ僕が! 」


「あーあ、やっぱりね。長州藩士はこんなもんか。」


「そんなことないッスよ、心が狭いのは桂だけッス。」


「ま、仕方ねえな。他に頼むか。桂なんかあてにしたのが間違いだったな。」


「そうっすね。それは思うッス。」


「まあ、仕方ないよ。牛込まで行くのは面倒だけど俺がやるさ。」


「いや、長州の面目に懸けてここは俺が行くッス。」


「コホン、俊輔では荷が勝とう。やはりここは僕が。」


「「どーぞ、どーぞ。」」


「いやあ、桂が来てくれるなら安心だ。期待してるぜ? 」


「うむ、任せて置け。」


「長州の名誉も守られたし何よりッス。」


「当たり前だ。僕は長州の明日を背負うものだからな。」


「うんうん、流石は練兵館の塾頭だね。よっし、みんなにビールでも奢っちゃう。」


「お、いいな、桂、ビール三本、それとつまみな。今日はそうだなあ、冷奴なんかいいな。」


「俺は天ぷらの出前が良いッス。腹減っちゃって。」


「んじゃ俺は佃煮。アナゴね。」


「えっと、ビール三本に冷奴、天ぷらの出前にアナゴの佃煮ね。毎度。女将さーん。」


 桂は嬉しそうに番台に走っていった。


「んでな、俊輔、来てもらってタダって訳にもいかねえから、少しは包む。それはお前にやるから桂の事、しっかり頼むぜ? 」


「ええ、もちろんッス。俺がビシッと連れて行きますから。」


 二人が帰った後も、夕方まで桂は働かされていた。



 四月に入ると老中、安藤信正は一つの方針を立てた。それが「公武一和」。帝の妹君、和宮さまを将軍家茂公に降嫁して頂くよう朝廷に願い出たのだ。

 亡き井伊大老の路線を引き継ぐ安藤老中は、潜在的な政敵となった朝廷を取り込んでしまおうという訳だ。そうなれば一橋派が何をしようが朝廷の同意は得られない。実に判りやすいやり方でもある。

 そろそろ桜も花盛り、幕府も井伊大老を失って以来の冬が過ぎ、花が咲き始めた、そんな気がした。


「さ、新九郎さま、そろそろ。」


 不忍池も桜が満開。夜も更けた頃、その不忍池に俺と律は寝間着姿で小舟を漕ぎ出した。


「もう、もう、律は我慢が! 」


 そう言って律は俺に抱き着いた。その衝撃で小舟が危なっかしく揺れ動いた。


「ねえ、律っちゃん? これ、やばくない? 」


「そのような事はどうでも! 」


 律は俺を船に押し倒し、動けないよう両手を押さえつけた。


「ねえ! ねえ! 完全にやばいって、すっごく揺れてるから! 」


「何を仰っているのです! この揺れが、あっ! 」


「うわぁぁぁ! 」


 船は見事にひっくり返り、俺と律は池に投げ出された。慌てて律を引き上げて、逆さになった船を起こす。


「もう、だから言ったのに! 」


「うふふふ、びっくりしましたね。」


 不安定なところでそういうことはしちゃダメ。池の中で律と抱き合いながらそう思った。



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