26
三月三日、ひな祭りである。それにかこつけうちのお雛様である律と、どんな風に楽しもうか、朝からその事で頭がいっぱい。
「やっぱりさ、お姫様っぽく、小袖を打掛にして羽織るのはどう? 」
「でしたら言葉もそれっぽく改めねば。んっ、コホン、新九郎さま、わらわはお帰りをお持ち申し上げておりまする。」
「うっは、いいねえ。」
そんな話をして家を出た。外は三月だというのに雪が降りしきり、滑らないよう下駄を履いた。刀の柄には濡れぬよう柄袋を被せておいた。外に出て傘をさすと律の声がする。
「足元には十分ご注意を。」
「うん、じゃ、行ってくるね。」
足元にサクサクと雪を踏みながら両国橋を渡り神田に向かう。この日は人通りも多かった。それもそのはず、ひな祭りの日は祝賀の為に大名が総登城するのだ。みんな武鑑と言う大名の家紋を記したカタログを手に、アレは何々様だと、駕籠見物に訪れる。この雪の中、よく行くよね。と思いながら講武所に出仕した。
異変が知らされたのは稽古が始まってしばらくしてからの事。慌ててやってきた使いが親父殿に耳打ちした。
「なんだと? 」
その親父殿の声に、皆、手を止めた。使いは別に行くところがあるらしく、強張った顔で一礼すると去っていった。
「皆集まれ。」
何事かと、皆が面を外し、親父殿の周りに座った。
「使いによればつい先ほど、桜田門外にて井伊大老が襲撃され、身罷られた。犯人は水戸の脱藩者であると言う。わしは登城して真偽を、いや、これほどの報せ、偽はあるまいが。ともかく、城に上がる。お前たちはそれぞれこの場に残り、万一に備えよ。よいな? 」
「「はっ! 」」
親父殿が出て行くと窪田のじいさんと伊庭さんが俺たちを二手に分けた。窪田のじいさんが健吉を中心にした班とここの守りを固め、伊庭さんが俺と只さんたち、残りを率いて現場の確認に向かった。
雪の中雨具を着て外に出る。万一に備え柄袋は外しておくよう指示が出た。
彦根藩邸は桜田門から東に少しずれた永田馬場にあり、元は加藤清正の屋敷があったところだそうだ。その門は井伊の赤備えにちなんだ赤い門。距離にして5町(500mぐらい)もないくらいだ。その間に襲われた。つまり周到に練られた襲撃だと、伊庭さんは教えてくれた。
現場はまだ血の跡がうっすらと雪の上に残っていた。江戸市中、しかもこんな目立つところで、襲撃。無論大老を討ちとられた幕府の権威は失墜。襲撃者、テロリストたちの目的が何かは知らないが、彼らは幕府の屋台骨に大きくヒビを入れた事になる。
俺は犯人である水戸浪人たちに怒りを覚えるよりも早くあきれてしまう。幕府の元で自分たちが数百年、武士としての身分を保って代々生きてきた。その恩義ある幕府に何をしたのかわかっているのだろうか?
密勅を返したら誰か死ぬの? あんたたちは志士の連中みたいに幕府に追われて行き場がなかったの? 違うだろ、ただ恰好つけたかっただけだ。尊王だ、攘夷だと騒いでみたかった。それだけの話。幕府を軋ませ、水戸がその代わりを務められるの?
よしんばできたとしてもそれはもう、前とは違う弱った幕府。今度は虐げられてきた外様大名がなんだかんだ口を出すに決まってる。外国だってどうでるかわからない。そういうことを判った上でやったのだろうか。徳川が同じ徳川を名乗るものによって窮地に陥ったと。
「ねえ、伊庭さん、これ、どうなるの? 」
「わからん。」
「いろいろとまずいよね。」
「新九郎、塾頭まで務めたお前が判らぬことをわしが判ると思うか? 」
そう言われてしまえば何も聞けない。只さんは相変わらずボーっとしてるし。
ともかくも犯人も粗方捕縛されたと聞いたので、講武所まで雪の中を戻った。講武所、七千坪もの土地と大きな建物。とあれば当然風呂位は付いている。俺たちは風邪をひかぬよう十分に風呂で温まり、体を拭いて飯にした。
しばらくすると親父殿が城から戻ってきた。
「当面は老中、安藤様を中心に事態の収拾にあたる、との事だ。我らもこの事態に何かせねばならん。皆もそのつもりでな。」
今はそれだけしか言えない、と言う事だろう。そこで解散となり、俺は家に帰った。
「ええ、もうそれは大変な噂で。買い物に出た者がそう申しておりました。」
「そうだよね、白昼堂々だもの。やった方はさぞかし気持ちよく切腹でもしたんだろうね。」
「新九郎さま。その、申し訳なく。」
「ん? 」
「わたくしも水戸の出でありますれば。」
「水戸の全員が悪い訳じゃないさ。義父上も男谷の男、こんなことに関わるはずもない。ただね、外から見たらどうなんだろうって。幕府はその手で自分の面を殴りつけた。そう思われるんじゃないかなって。」
「そうですね。水戸は御三家。将軍家を助けるためにあるのに、その将軍家、大老を。」
キセルに火をつけ、ふうと煙を吐いた。そして灰皿にキセルを打ち付け、火種を落とすと律の膝に横になった。柔らかな感触がささくれた心を癒してくれる。もうすべてが今更だ。幕府を立て直そうとした、井伊大老はこの世になく、どうしようもないほど幕府は傷ついた。俺のような小物にもそれがはっきりと判った。
「新九郎さま、今宵はお雛様ではなく水戸の女と言う事で。新九郎さまの槍で存分に御成敗を。」
律がそう言うので、思わずうははは、と声を上げて笑ってしまう。うん、そうだ。手の届かない事で不満や愚痴を言うよりもよほどいい。幕臣として、不埒な水戸の女を存分に貫いてやらねば。
「新九郎さま? まだまだその程度では、もっと。」
布団の上で討ち取られたのは俺の方だった。
その三月十八日、改元があり、安政七年は万延元年となった。理由は江戸城で起きた火災や、井伊大老が討ち取られた桜田門外の変、そう言った不吉を払うため、と聞いたが、実際はどうだろう。目の上のこぶだった井伊大老を排除できた記念、そう思えなくもない。
閏3月、幕府は雑穀、水油、蝋、呉服、生糸の五品を直接横浜に持って行って売ることを禁じた。異国の連中は高く買う、そう知った商売人は当然品を買い漁り、異国に売る。そうなると国内に回す分がなくなる、と言う訳だ。なので、幕府は横浜との取引を江戸の問屋経由でしかできない様にしてしまう。こういうのも必要な事だよね。
ちなみに水油とは聞きなれない言葉だが、匂いの少ない油、と言う意味。菜種油がほとんどで、油の中では高級品。その下に鯨油、魚油などがあり、こちらは燃やすとクサいのだ。灯りに使う油はこの水油ってことだね。
さて、桜田門外の変の後始末だが、これがまた実に鈍色の決着。井伊大老は衆人の前で討ち取られたにもかかわらず、病死、と言う事にされた。さもないと彦根藩はお取り潰し、そうなれば当然水戸襲撃と憎しみの連鎖が生まれる。なので病死にして藩を存続させるから無茶しないでね、と言う事だ。
そして水戸、こっちも政治的にはかなりピンチ。だが、脱藩者のしたことだから大目に見て、と関係者の取り締まりを始めた。藩の意向ではなく一部の過激派が勝手にしたこと、だからこっちでも調査して関わった奴は捕縛します。と言う訳だ。
はっ、本当はあんたらがやらせたんじゃないの? と思われても仕方がないが、大老を失った幕府に御三家の水戸を潰せるだけの気概のある幕閣は居なかったって事だろう。
その襲撃犯になぜか一人だけ薩摩藩士が居た。有村次左衛門と言う若い男ですでに脱藩していたという。この男が流石薩摩隼人と言うべきか、大老に止めをさし、首を打った実行犯だ。次左衛門自身は力つきで自害。だがやはり脱藩して一味となったその兄、有村雄助は襲撃には参加せず、そのまま京へと向かう。幕府にこの雄助が捕まる事を恐れた薩摩藩は伊勢の四日市で捕縛。あれよと言う間に切腹させ、証拠の隠滅を図った。
そしてこの企ての実行部隊の指揮官、関鉄太郎は行方知れず。その潜伏を助けた滝本いのという芸者が捕まったという。ま、全ては今更。井伊大老の代わりが務まる人がいるわけじゃなし。
そんなある休みの日、いつも通り鐘屋の離れでゴロゴロしているとこのところずっと、泊まり込んでいるらしいトシが顔を出す。仕方がないので相手をしていると、そこに桂が俊輔を連れて現れた。
「ああ、俊輔、よく来たね。ま、上がって。」
「ちょっと! 俊輔は僕のお供! 」
「え、だってお前に用事ないし。」
「あのですねえ、この天下の大事、幕臣のあなたと、長州の明日を担うであろう僕が熱い意見を交換する、それってすっごく大切だと思うんですよ! 」
「もう、店先で長ゼリフはやめてくれる。迷惑だから。仕方ないから上がっていいよ。桂も。」
「よかったッスね、桂。」
桂は俊輔に宥められるとそれを肩で振り払い、俺について座敷に入った。そこではトシが俺の煙草を自分のキセルに詰めて火を入れていた。
「あ、桂じゃねえか。なんかくせーと思ったんだよ。」
「え? なに? 僕が臭いの? 」
「うん、桂クセ―。」
「なに、桂クサいってどんな臭い? ねえ、トシさん? そこのところはっきりさせてくれるかな! 」
「そんな事より、トシ、なんで俺のタバコ吸ってんの? 」
「切らしちまったんだからいいじゃねえか。ケチくせえな、旦那も。」
「ちょっと、こっちの話が先なんですけど! 」
「もういいじゃん、お前は桂クサいってことでさ。桂っぽい臭いがするの。生ごみみたいな。」
「トシさん、俺もその煙草分けてもらっていいッスかね? 」
「ああ、どんどん吸え。何しろ旦那は金持ちだ。なかなかいい煙草だぜ。」
「あ、本当ッスね。」
「だから勝手に吸うなって言ってんだろ! 」
「もう! 話が全然進まないからね! 僕の話を聞け! 」
「はいはい、判ったから。ちゃんと聞くから。桂、悪いけどお千佳のところに行ってビール貰ってきてよ。」
「あ、俺も。」
「俺もッス。」
「なんでかな? 長州の明日を担う僕が従者の俊輔と庶民のトシさんに使われてるの? 不思議だよね。」
「はいはい、長州の明日はこういう事もしておかないと背負えないよ? 民の心がわからなきゃ。」
「そうだぜ、俺たちゃそうやって人に使われながら生きてんだ。つまみも頼むな。」
「そうッスよ。下々の心が判らないから桂はだめなんッス。」
「わかりました! わかりましたよ! ちゃんとできますから! えっと、ビールが3本、つまみは? 」
「俺は佃煮が良いかな。」
「ああ、俺も旦那と同じで。アサリの奴な。」
「俺は漬物が良いッスね。」
「はい、女将さーん、お座敷のお客さん、ビール3本に佃煮とお新香ね。急ぎで! あ、佃煮はアサリだそうです。」
「あいよ、ついでに二階の菊の間のお客さんがお呼びだ。ちょっくら行ってとくれ。」
「喜んで! 」
「ばかだねーあいつ。」
「いいんスよ、ほっとけば。」
「で、長州じゃどんな感じなのよ。」
「それがッスね。もう、いろいろ。馬鹿ってのはどこにでもいるッスからね。」
「けどよ、御大老がああなっちまったんだ。幕府としちゃ今まで見たいに強気って訳にもいかねえだろ? 」
「そうなんスよ、で、それに付け込んでってのが多くて。幕府は長州をはじめとした外様の意見も聞くべきだーって。」
「それはそうと勇吉は? 」
「あ、勇吉さんは御大老が襲われて、んじゃうちの殿さまも護衛がいる、そうなって今は側付きを。名前も聞多って改めちゃって。」
「聞多? 変なの。」
「よく話を聞くから聞多なんですって。殿さまが直々につけてくれたらしいッス。」
「へえ。」
「俺もね、俊輔の俊を春って字に替えようかなって。」
「なんで? 」
「俊の字は松陰先生が選んでくれたんスよ。けどああなっちゃって、あんまり繋がりがあると思われてもいろいろ。」
「まずいの? 」
「長州には松陰先生の信奉者って言うんスかね。そういう過激なのがいて、あんまり近寄りたくないんスよ。」
「なるほどね。」
「ま、そういう事なんだろうさ。うっかり世の中がひっくり返りでもすりゃ、その松陰先生も、水戸の浪士も一躍英雄さまさまだ。けどそうじゃねえ限りは罪人だからな。」
「そうっスね。松陰先生のお人柄は尊敬するけど考え方は合わない部分もあるって事ッス。」
「それでいいと思うよ? 俺も吉田さんとは友達だったけど、死罪は当然、そう思うもの。」
「高杉さんもそう言ってたッス。」
「ああ、そうだったね。あいつ、いまだに変なの? 」
「いろいろぶっ飛んでますからね。けど俺たちからすれば桂よりはあてになるッスよ。」
「ま、少なくとも人のせいにする奴じゃないからね。言い訳とかも。」
「そうなんス。実に男らしいっていうか。変な人だけど。」
「つか桂の奴おっせえなぁ、何やってんだあいつ。」
「はいはい、トシさん。お待たせ。桂はあれこれ用事を言いつけてるよ。あんたたちもそのほうが良いんだろ? 」
「さっすが女将ッスね。察しがいいや。」
「客商売も長いからねえ。で、旦那様、奥方様が今夜は何が良いかって。」
「あー、そうだね。湯豆腐とかいいかも。」
結局桂はこき使われて帰っていった。なのにいい仕事しました的なさわやかな顔。店員が向いているのかもしれない。
「ねえ、新九郎さま? 」
「ん? 」
「そろそろ桜も芽吹く季節、楽しみですね。」
「そうだね、船も準備しとかなきゃ。」
「わたくしに抜かりはありませぬ。全てお任せを。」
その日も夜遅くまで哲学に打ち込んだ。