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 十月七日、いわゆる志士と呼ばれた橋本左内、頼三樹三郎、飯泉喜内が斬首となった。彼らはみな、いわゆるエリート。食うに困る身分でもなく、名門の塾生だった奴もいる。普通に生きていればそれこそ輝かしい未来が待っていたはずなのに。


「何でみんな、幕閣でもないのに異国の事や、将軍継嗣の事なんかに口を出すんだろうね。」


 家に帰り、律の膝に寝転びながらそう愚痴る。


「吉田さんだってそうさ。友達としてはいい人だよ? 生まれだっていいはずさ。なのになんでって思うんだ。そんなに大事な事なのかな、志って。」


「生まれがよく、食うに困らぬからこそ、考えるだけの余裕も、知識もあるのでしょうね。」


「そうかもしれないけど、もっと別の事にその力を向けるべきじゃない? 俺はね、吉田さんが異国に行こうとした事は凄くいい事だと思った。行ってみなきゃ、やってみなきゃ本当のところはわからないからね。あくまで個人としての行動だし。

 けれども藩の大砲を持ちだして老中をどうこうするとか、主君を攫って藩に言い分を通そうとするとか、そういうのは全く賛同できないね。それをしなきゃならないほどの理由が吉田さんにはあったとしても。」


「そうですね、頭の働く方の想いと言うのはわかりづらいものかもしれませぬ。天ぷらそばの味を知ったものが、かけそばしか知らぬものにいくらその味の良さを説いてもわからぬのと一緒で。」


「あの人たちはそういう味を知ってる。で、相手の懐具合も考えずに、いいものだから天ぷらそばを食えと押し付けた。そんな感じかな。」


「ええ、それがこういうものもある、と勧めるうちはいいのですが、これにすべきだ、となれば他の人とは。」


「話が通じなくなるよね。海舟の進めてる海軍もそれと一緒か。頭ではわかるけど、実感がない。だから頭でっかちにしか見えない。」


「世が変わる時はそう言う物かもしれませんね。洋酒にビール、ああいう新しいものを好まれる方もいれば頑なに拒否される方も。」


 四隻の黒船が現れていずれ明治の世が訪れる。それは判っているが公儀に属する今の俺はなんでこのままじゃいけないのかがよく判らない。吉田さんが英語で俺に伝えた事、もしかするとそこに答えがあったのかもしれない。けれどもそれは俺にはわからなかった。今更不勉強を悔いても仕方がないし、英語で話したという事ははばかりのある事だったのだろう。


 だが世がどうこうという前に、俺には守らねばならないものがある。律はもちろんだが、最近めっきり年老いてきた親父殿、それに男谷の名誉。何がどうあれこの松坂新九郎として生きる上では絶対に変えられないものだ。


 本音を少しばかり言えば公儀が無くなり無職となるのは嫌だった。


 ま、でも判らない事は判らないのだ。考えるだけ無駄。そう思って起き上がり、キセルに火を入れた。なんとなくもやもやした気分だったが俺には勤めもあるし妻もいる。天下国家と秤にかければ日々の生活の方が大切だ。ははっ、俺はどう転んでも志士にはなれなそうだ。


 キセルを灰皿にカツンと叩き付け、火種を落とす。そしてそのまま、律を抱き寄せた。



 十月二十七日、ついに吉田さんが斬首される。弟子の伊藤俊輔が亡骸を引き取り、改葬したと言う。いつかその日が来ると判ってたにも拘わらず、不覚にも涙がでた。吉田さんは精いっぱい生きて、そして死んだ。悲しむことも憐れむこともあの人は望まない。そう思って竹刀を振った。


「ほら、次! 」


「はい! 」


 挑みかかってきた今井さんの小手を打つ。そして次は面を打った。ここしばらく俺は調子がいい。相手の肩、足の運び、そう言ったものでなんとなく手が読めるのだ。次は突き、そう感じた俺は体を開いてそれを躱し、竹刀を捨てて今井さんを投げ飛ばすと面を剥いだ。


「もう、全然及びませんね。」


「そんなことないさ、今井さんは腕を上げてる。今はまだ俺が上ってだけさ。」


 今日は亀沢道場は健吉が見ている。普段であれば今井さんを見るのは師匠の健吉だ。だがこういう時には俺に、そう健吉に言われているらしい。


 稽古が終わり、汗を拭く。あとは飯を食っていくつか書付をこなせば今日は終わりだ。


「新さん。最近少し変わりましたね。」


「何が? 」


「前に比べて静かと言うか、気の感じが。」


「あはは、それこそ気のせいだよ。」


「いえ、前は怖く感じましたが、今は恐ろしく。叩きのめされる、と言う怖さが、今は斬られるという恐ろしさに。何か心情の変化でも? 」


「特にあるわけじゃないさ。けどね、俺にも背負ってるものがある、そう自覚できた気がするよ。律っちゃん、親父殿、それに男谷の名。俺がしっかりしなきゃ皆守れない。そう思うようになっただけ。」


「そうですか、以前はどこか、遊び心のようなものが感じられましたが、今は。」


「強く有らなきゃいけない。俺たちは公儀を守るためにここで修練を積んでる。敵が異国の人なのか、はたまた志士かはわからないけど。」


「ですね。私もそう思います。」


 飯と味噌汁、それに漬物だけの飯を食い、書付に目を通す。いくつかに署名してそれを提出すれば勤務は終了。川船で両国橋まで行き、そこから歩いて亀沢町の家に帰る。


 いつもの通り律が出迎えてくれて俺から刀を受け取った。心に抱いたもやもやが律の笑顔を見るとほんの少し、晴れた気がした。


「新九郎さま、ようやくお顔が。」


「ん? ああ、なんかね、吉田さんの考えは判らないけど、俺は俺。できる事をやろうって。」


「ええ、それでいいのですよ。新九郎さまは新九郎さま。わたくしの旦那様で男谷の男。他所様が何を案じようがそれはそれです。」


「そうだね。難しい事を考えるのは性に合わない。」


「立場が違えば考えも異なって当然でござりまする。それよりも、お風呂の支度が整っておりまする。汗を流しすっきりと。」


 風呂に入ってすっきりすると悩んでいたことがどうでもよくなった。っていうか、背中に触れるおっぱいの感触が全てを忘れさせてくれる。この絶妙な柔らかさとプルンとした感触、決して他のものでは得られない心地よさ。それに触れる為、男というものは生きている。実に哲学的な自分の考察に満足した俺は、さらに探求を深めるべく、律の胸に顔を埋めた。



 年が明けて安政七年(1860年)一月十八日。公儀は通商条約の書面交換の為、新見正興、村垣範正、小栗忠順といった面々を使節として、アメリカの軍艦ポータハン号にてアメリカに向かわせる。その護衛艦として海舟たちを乗せた公儀の軍艦、咸臨丸は十三日に先行して出発していた。

 二十六日、ついに神田小川町に講武所が完成。俺たちはそちらに移る。


 そして二月の三日、井伊大老ご臨席の元、開場式が開かれた。初めてみた大老の姿は彦根牛、とあだ名されるされるようにもっさりとした雰囲気で、お疲れなのかやや、やつれているようだった。

 その井伊大老は新たに老中に任じた安藤信正に命じ、朝廷から下された密勅の返還を強硬に迫っているのだという。まあ、当然の事だ。密勅をそのままにすればいつでもそれを大義名分にして公儀への反逆、謀反ができるのだから。その折に、返還が遅延するなら水戸藩を改易すると言ったらしいが、これも当然。御三家であればなおの事、公儀に協力するべきだろう。


 水戸藩士が憤慨しているというが、彼らは何を考えているのだろうか。御三家と言えば公儀を支える屋台骨。それが公儀の命に異議を申し立てている。はき違えるにも程があるというものだ。あくまで水戸藩主は将軍の家臣。その家臣が将軍、幕閣を飛び越えて朝廷と接触を図る。これが不遜ふそんでなければ何が不遜なのだろうか。


 確かに一橋派の筆頭である水戸としては面白くない事もあるだろう。だとしてもそれはあくまで公儀、幕府の中の争いだ。それを幕府の外にある朝廷まで巻き込んで自分たちの意見を押し通そうとしている。実に醜い。なりふり構わずだ。


 親父殿が言うにはこうなったのも亡き老中、阿部正弘が諸藩の意見を聞いたことに始まるという。あれで幕府は諸大名に弱みを見せた。だから一橋派がつけ上がるのだと。その幕府の権威を取り戻すため、井伊大老は悪評に耐え、厳しき沙汰を行っているのだと。

 なるほど、判らない話ではないが、俺が思うに何をするにしても幕府の中で争うべきだった。その幕府を、将軍を越えて、朝廷に手を伸ばした瞬間、彼らは武士として失格なのだ。やっていることは完全な謀反なのだから。



 それはそうと新しい講武所は実に快適だ。海軍の連中もいないし、何より近い。歩いてもいくらもかからないし、不忍池の鐘屋にもすぐ行ける。実に便利な場所なのだ。

 なので休みの前日の待ち合わせも回向院でなく、講武所まで律に迎えに来てもらう。その日も下女を連れた律が昼過ぎにやってきて俺を待っていてくれた。


「お待たせ。」


「いいえ、こちらに来るのはわたくしも楽しみです。新九郎さまのお勤め先ですもの。」


「あはは、なんか照れるね。」


 連れてきた下女を帰らせて、俺たちは不忍池の鐘屋に向かう。真冬の風は冷たかったが、心はウキウキとしていた。律と一緒になってもう五年目だ。13だった律は今年17の娘盛り。あっちもこっちも成長して、いや、そうでなくとも未だに新鮮で、マンネリとは無縁だった。

 律は性欲が強いので、その分探求心も旺盛、あとはわかるね。哲学の探求もはかどるという訳だ。特に、周りを憚る必要のない鐘屋においては一層身が入るというものだ。


「新九郎さま、ほら、雪が。」


「少し急ごうか。律っちゃんが風邪をひくと困る。」


「ええ、そういたしましょう。」


 俺たちは足を速めて雪が本降りになる前に鐘屋についた。鐘屋は相変わらず待ちが出るほどの大繁盛。特に俺たちが来る日は休み前なので、いつも込み合っているのだ。


 それを横目に中に上がると一人の武士が文句をつけた。


「ちょっと、俺たちはずっと待ってるんだけど。」


「あら、そうなの? 」


「そうなのって、横入りは良くないよ。ちゃんと並ばなきゃ。江戸の侍はそんな事もわからないのかい? 」


 ぼんやりした顔のその男は、隣の女にせっつかれるようにして俺に文句を言い立てる。そのうちに女将のお千佳が現れて、事情を説明すると、その男は恥ずかしそうに首をすくめ、俺に頭を下げた。


「ま、俺もあんたの立場なら文句言うだろうから気にしないで。お千佳、あの人たちが部屋に入ったらビールの一本でもつけてやってよ。」


 そう言うとそのぼんやりした男も、隣の気の強そうな女も俺にわずかに頭を下げた。



「新九郎さま、ずいぶんと寛大なお振舞いでありましたね。」


 律が火鉢に火を熾しながらそう言った。


「だってこんな寒くて雪も降ってるんだ。早く部屋に入りたいのは誰もが一緒さ。文句の一つぐらい言いたくもなるって。」


「うふふ、そうですね。新九郎さま、お手がこんなに冷たく。こうして暖めて差し上げます。」


 律は俺の冷たくなった手を自分の胸元に差し入れて暖めてくれた。


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