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 今日は九月の晦日。と言う事は明日は十月の一日。一のつく日なので講武所はお休みである。


 どうしよっかなー、浅草に行って紅葉狩り? それとも川を下って船釣りもいいかも。屋形船を借り切って、ふたりっきりで景色を? でもなあ、それなら鐘屋の景色で十分だしなぁ。


 講武所での勤務を終えた俺は川船で墨田川を遡りながらそんな事を考えていた。何しろ金はあるのだ。律に預けた分を除いても財布には二分金が一枚と一朱金が三枚ほど。何で遊ぶにしても十分な額だ。問題は不忍池の鐘屋の居心地が良すぎる事だ。春になれば桜が、秋には紅葉が池の向こうにばっちり見える。わざわざ出かける必要性がないのだ。そろそろ両国橋が見えてきた。回向院で待ち合わせてる律の意見も聞いてみよう。


「律っちゃん! 」


「新九郎さま! 」


 回向院前のいつもの茶店、律が腰を浮かせて駆け寄ると、お付きの下女は、頭を下げて去っていく。人目があるのでひしっと抱き寄せたいのを我慢して、茶店に支払いを済ませる律を見ていた。そう、こうして外で見る律もまた可愛いのだ。


「ねえ、律っちゃん。」


「なんですか、新九郎さま。」


 船の漕ぎ手に筋違橋まで行くように言うと、俺は肩を寄せる律に問いかける。


「明日はさ、折角の休みだし、どこかに出かけてみる? 浅草で紅葉狩りでもいいし、海まで出て魚釣りでも。」


「そうですねえ。それも楽しそうではありまするが。」


 そこまで言って、律は俺の耳に口を近づける。


「それよりも、ずっとお布団で過ごす方が素敵。」


 と、囁いた。ですよねー。ほんと、もう紅葉狩りとかどうでもいいし、釣りも別にしたく無いもん。だが、ここはあえてごねてみる。そう、俺は夫。妻に簡単に提案を却下されては男が廃るのだ。


「でもさあ、律っちゃん。外で見る律っちゃんもいいんだよねえ。綺麗に着飾った律っちゃんを連れて歩くのも誇らしくてさ。」


「もう、新九郎さまったら。でしたら寛永寺くらいなら。すぐそばですし。」


「あー、そうだね。時期も時期だし、お昼は屋台で買い食いでもいいね。」


「ええ。帰りはおつまみになりそうなものを買って、ビールかワイン、ウイスキーでもいいかもしれません。」


「いいねえ。そしてほんのり赤みがさした律っちゃんを。」


「うふふ。もう、人に聞かれたら恥ずかしい。」


 船を降りるときに船頭が「爆発しろ。」と言った気がするがまったくもって気にならない。むしろさわやかな風を浴びた感じ?


 そこから上野に向かい、鐘屋に入るとちっともさわやかじゃない奴がいた。


「よう、旦那。上がらせてもらってるぜ。」


「いや、帰っていいよ。薬屋に用はないから。」


「つれねえ事いうなよぉ。俺だってな、この鐘屋の常連なんだぜ? 」


 薬屋のトシはにやりと笑ってそう言った。


「そうなの? 」


「ああ、ひっかけた女との逢引きに使ってる。ここに連れてきた女たちは大喜びだぜ? 」


「歳三さんも毎回違う女を連れてきて、お盛んなもんですよ。」


 お茶を持ってきたお千佳がそう口をはさんだ。


「へえ、ま、トシはもてそうだもんね。金で女を買うしかない勇吉と違ってさ。」


「あいつは欲が顔に出すぎんだよ。だから女に逃げられんだ。」


「ところで定さんは元気? さなが怖くてしばらく顔出してないんだけど。」


「ああ、元気も元気さ。さなさんはアレだがな。定吉先生はそれが嫌で月の半分は鳥取藩邸に逃げ込んでる。」


「はは、大変だね。」


「まあ、鳥取藩への売り込みもうまく行って、おかげで俺も左うちわさ。女のところに転がり込むってのは性じゃねえから三日に一度はここで過ごしてる。洋酒もうめえし、飯は出前で十分だからな。」


「歳三さん、お連れさんがいらっしゃったよ。」


「ああ、すぐ行く、女将、俺の部屋に通しておいてくれ。」


「はいよ。」


 襖の陰からこっそりと女の姿を覗く。げっ! あれは。


「ちいとばかし年増だが、三味線の先生でな、羽振りはなかなかいいみてえだからここしばらくは懇意にしてる。んじゃ旦那。またな。」


 トシは機嫌よく二階に上がっていった。あの女は豆奴。昔、象山先生が可愛がってた女芸者だ。まあ、そっちならいいが、蔦吉だったらどういう顔をしていいかわからない。



「新九郎さま? どうされたのです? 」


「あ、いや、別に。」


 離れに先に行っていた律が寝間着姿になって迎えに来た。


「お風呂がもうすぐわきますから、それまではあちらで。」



 律を前に抱くようにして湯船につかる。黙っていればいいのだが、それがものすごく重苦しいのだ。


「あのね、律? 」


 律はくるりとこちらを向いてややひきつった顔で、はい。と返事をした。


「新九郎さま? 何かわたくしに言えないようなことが? 」


「あ、いや、そうじゃないんだけど言いづらくはあるかな。」


「どのような事であれ、仰っていただかねばわかりませぬ。」


「いや、そのね。」


「わかりませぬ! 」


「あの。」


「わかりませぬ! わかりませぬ! 」


「律っちゃん。」


「新九郎さまはあの女の人と? 」


「いいや。」


「えっ。」


「あのトシが呼んだ女はね、昔通ってた塾の先生が可愛がってた女なんだ。」


「そうなのですか? ならばなぜ、そのようなお顔を? 」


「うん、すっごく言いづらいんだけど、若い頃ね、あの女の相方とねんごろになって。二人は辰巳芸者でさ。」


「その方は? 」


「どこかの旦那の妾になったって。そのあとはさっぱり。」


「そう、ですか。その、わたくしと一緒になってからは? 」


「ん? 浮気って事? あるわけないさ。だって律っちゃんよりいい女がこの世にいるわけないし。」


「新九郎さま、わたくしは不安で。新九郎さまがわたくしを想ってくださってるのは凄くわかりまする。わたくしも新九郎さまを誰よりも。大切に思えば思うほど、失うのが怖くて。」


「あはは、律っちゃん? 二世の先まで、祝言の日、そう約束しただろ? 俺は律っちゃんに会うまではいろいろあったけどそれ以降は一度もないさ。」


「はい。取り乱して申し訳ありませぬ。律は悋気りんきが強いおなごでございまする。」


「はは、律っちゃんに妬いてもらえなかったら寂しいだろ? 」


「でも、はしたなくて。」


「正直さ、その俺の相手だった女だったらどうしようって思ったんだ。けどね、こうして話してしまえばなんともない。町中であっても平気だね。」


「その、想いを残したりは? 」


「まったく。いきなりいなくなったしね。ああいう芸者さんとかはさ、そういうのも上手なんだよ。相手に想いを残させないで消える。その時は腹も立ったけど、今わかった。」


「ふふ、わたくしの前から消えたら許しませぬよ? 」


「バカだねえ、律っちゃんは。俺たちは夫婦なんだから、そんな必要は全くないだろ? たとえ一文無しになってもずっと一緒さ。」


「はい。ずっと、二世の先までも。」


「そうだね、そうありたい。」


 風呂から上がって飯にする。今日は出前の天ぷら。エビに野菜、それにキス。ビールを飲みながらそれをつまんだ。律は寝間着の胸元を大きく開けた色っぽい姿で酌をする。いつもの清楚な感じもいいがこういうのも堪らない。胸の谷間に光るサファイヤが俺を挑発するようにキラキラと輝いた。


 その夜、いつもよりもっと積極的な律と哲学について肉体言語で語り合った。


 翌日、またしても邪魔が入る。トシは居座ったままだがこれはいい。なにせお客だからね。余計なのを連れてきたのはいつもの通り、志道勇吉。今度は桂と一人の少年を伴っていた。


「なに? 忙しいんだけど。」


 座敷でトシと茶を飲んでいた俺は彼らを見てそう言った。


「もう、新さん? そんな言い方しなくても。拙者悲しい! 」


「で、勇吉、後ろのは? 」


 そう言うと勇吉を押しのけて桂がずいっと前に出る。


「松坂殿、貴殿にはこの勇吉や高杉が世話になったと聞いてる。僕の立場としては挨拶くらいはしておかないとね。あ、こっちは僕の従者、伊藤俊輔。俊輔、挨拶を。」


「伊藤俊介、当年で18となります。松陰先生の松下村塾で学び、桂さんの従者として江戸に参りました。どうぞお見知りおきを。」


「あっそう。大変だね、あんたも。桂の従者なんて。」


「ちょっと、松坂さん、それは無いんじゃない? 僕はね、これでも長州じゃ若手の頭なんだから。」


「ま、桂さんも、俊輔って言ったっけ? あんたも座りなって。落ち着かねえから。」

 

 トシがそう言って皆を座らせる。


「トシさん。あんたも松坂さんと? 」


「ああ、もう長い付き合いになる。うちの薬を広めてくれたのもこの旦那さ。」


「拙者は俊輔とは気も合うんですよ。なので紹介をって思ったら余計なのが。」


「勇吉? そういう言い方はないんじゃないかな? 」


「俊輔はね、気も利くし良い奴なんですよ、新さん。きっと新さんとも気が合うと思って。」


「聞いてる? 勇吉。僕の話。」


「もう、なんです? うるさいなあ、桂は。」


「か、か、桂って! ふーん、呼び捨てとかしちゃうんだ! 僕を。」


「まあまあ、落ち着けって、桂。」


「と、と、とトシさん? あんた、武士ですらないよね? ぶ、無礼討ちものだよ! 」


「もう、みっともない。落ち着いてくださいよ、桂。」


「俊輔、君は僕の従者だよね? おかしいよね、いろいろ。」


「ね、新さん、この人はいざってなると身分がどうだとか言いだすんですよ。嫌な感じでしょ? 」


「本当ッスよ、俺なんか、江戸に来るため仕方なく従者になったってのに。」


「ちょっと、お前たち! 」


「松陰先生が言ってたじゃないッスか。身分も何も関係ない。これからは一つにならなきゃって。あんた神妙に頷いてたッスよね? 」


「いいんだよ、俊輔さん。俺は田舎の農家の小せがれにしか過ぎねえんだ。長州の上士様にゃお声をかけるのもはばられる身なのさ。」


「俺だって足軽の子ッスよ。嫌ですね、ああやって生まれを誇る人は。桂のくせに。」


「そうだよね、俊輔の言う通りだ。桂のくせに。」


「だな、あいつは薬売りの輪から外さねえと。なんせ桂だし。」


「よくわかんないけど桂はヘタレのくせに桂だって威張ってんの? 」


「そういう事です、流石新さんだ。」


「実に的確な例えッスね。」


「旦那はこういうの得意だからな。なんせ元はその松陰先生も通ってた五月塾の塾頭。おつむの方もキレが違うさ。」


 みんなから責められた桂は涙目で俺に救いを求める目をしていた。ほんっとヘタレだな。


「まあさ、そう言ってやるなって。そうそう、高杉がこないだ来てさ、桂は男の風上にも置けないって。」


「えっ? 高杉まで? ねえ、松坂さん、嘘だよね? 」


「まあ桂だし。」


「そうッスね、桂だし。」


「だろうな、桂だし。」


 そこに律が現れて皆に茶を配ってくれた。


「伊藤様、と仰られるのですね? 」


「そんな、俺の事は俊輔って呼んで欲しいッス。新九郎さん、いや、新さんって呼んでいいッスか? きれいな奥方で羨ましいッス。」


「まあ、お上手です事。」


 ちなみに桂には一言もなく、律は去っていった。


「ねえ、松坂さん、おかしいですよね? 僕、この中じゃ明らかに最上位なんですけど。奥方、挨拶もしてくれないの? 」


「もうさ、誰が上とかそういうのいいじゃん。だったらさ、桂と俺、どっちが上? 」


「いや、それは、松坂さんは幕臣だしぃ。比べる方があれだしぃ。」


「俺にとってはトシも勇吉も、俊輔もみんな友達だから。あ、高杉もかな。桂は違うけど。」


「そうだよね、新さん。桂は違うけど。」


「そうッスね。桂は違うけど。」


「まあ、そういうこったな。桂以外はみんな友達って事でいいじゃねえか。な? 」


「「だよねー。」」


 桂は涙目で遠くを見ていた。


「でさ、この俊輔が女好きでねえ。もう、それこそ手あたり次第。ブスでもなんでも、な? 俊輔。」


「勇吉さん、俺だってブスは避けたいッスけど。金もないし、トシさんみたいにいい男って訳でも。やむおえないんですって。」


「まあ、女なんてのは数をこなしてなんぼだからな。」


「トシは若いねえ。俺もね、そう思っていたころがありました。」


「けっ、旦那はあの奥方がいるんだ。そりゃ十分だろうさ。」


「本当ですよねー。いっつもべたべたしてさ。」


「まあでも、あんな奥方ならわからないでもないッスよ。」


「ふふ、まあね。トシは例の長唄の師匠といっしょになればいいじゃーん。」


「うわぁ、それを言っちゃあお終いだろ。せっかく忘れかけてたのによぉ。兄貴がな、正式に婚約させるって息巻いてんだ。もう俺はどうしていいかわかんねえんだよ。」


「コホン、そもそもおなごと言う物はだな。」


「ああ、例の不細工だけど性格がめちゃくちゃ良いって人? 悩むよねえ、それは。 」


「そりゃあ難しいッスねえ。俺だったら妻にして外で遊ぶかな。どうせ家の意向は変えられないんでしょ? 」


「俊輔、そりゃあ、俺も考えたさ。けどなあ。」


「コホン、夫婦の絆とは、」


「トシさんの気持ちわかるわぁ。拙者も家の意向でそうなったらどうしよう。」


「俺、やばいかもしれないッス。」


「なんでえ。俊輔もそういうのがあんのか? 」


「いや、塾で一緒だった野村の妹、勇吉さんは見た事あるでしょ? アレに軽ーい気持ちで手を付けちゃって。」


「コホン、俊輔、それはいかんぞ。男として責任を、」


「あれ、えっとすみっていったっけ? 普通の感じの。」


「そう、それッス。抱き心地もフツーで、ほんとどうしようかと。」


「手を出しちまうからそうなる。俺はお琴に手を付けちゃいねえからな。」


「若さゆえの過ちって奴ッスよ。なんせ俺のアレは我慢が利かなくて。」


 あはははは、と皆が笑うと桂はずいっと前に出てきた。


「俊輔、そういう事はきちんとせねばな。長州に戻り次第、僕が野村のところと話を付けてやるから。」


「えっ。マジで言ってるッスか? 」


「つか、まだいたんですか? 」


「俺も帰ったもんだと思ってた。」


「大丈夫、僕はこのくらいじゃくじけないから! いいね、俊輔、そういう事はきちんと! 」


 そう言い残し、桂は袖で涙を拭いて走り去った。


「さ、皆さん、お菓子をどうぞ。」


 桂が去るのを見計らったかのように律が来て、皆にお菓子を配ってくれた。そのあとは桂抜きで楽しく歓談し、勇吉と俊輔は帰って行った。トシも自分の部屋に別の女を呼んで上がっていった。


 邪魔者が帰ったので、俺は律と寛永寺に行き、紅葉を楽しんだ。そして人気のない寺の裏の大きな杉の木の下で、抱き合いながら口づけを交わした。


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