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佃煮にはいくつかの起源説があります。徳川家康の頃からあったという説と幕末に売り始めたという説。
ここでは1858年(安政5年)に青柳才助が創始したとする説を用いています。
九月に入ってしばらくしたころ、高杉が一人でひょっこりと現れた。亀沢の男谷道場は敷居が高いらしく、トシぐらいしか訪ねて来ないのだが、この不忍池の鐘屋はちょこちょこいろんな奴が来る。休日を邪魔された俺は当然不機嫌。
「なに? 何か用? 」
「うむ、少し付き合ってもらう。」
なに? 何なのこの人? 完全に自分都合、俺の都合は無視ですか! ちなみに高杉は俺の六つ下。勇吉が俺の三つ下なのでさらに三つ下になる。今年、二十歳の若者だ。なのに、狂気をおくびにも隠さないその目と、物言いですっごく迫力あるの。
「もう、今回だけなんだからね。」
迫力に押された俺は仕方なしに支度をはじめる。勇吉もさ、こういう奴は勝手に出歩かない様にしっかり管理しないと。
仕方なしに高杉と一緒に歩く。小柄な高杉はそれに似合わぬ長い刀を腰に差し、引きずるように歩いていた。
「夏の大雨、利根川があふれて大変だったみたいだね。」
無言の時間に耐えかねた俺は無難な話題を口にする。
「うむ。」
うむ? それだけ? 一応俺の方が年上なんだけど?
「新九郎殿。水害も大変だろうが、今はもっと大変な事が起こりつつある。」
「えっ、そうなの? 」
高杉はしばらく考えて口を開いた。
「生糸の値が跳ね上がっているそうだ。」
「生糸って、絹の? 」
「そうだ。異国の奴らは生糸を欲しがる。あちらの国まで運ぶ手間を考えても値が安いのだろうな。奴らは金に糸目をつけずに買い漁っている。そのあおりを受けて、値が。こうした事一つにしても、異国との交易とは難しいものだ。
商人は利があれば後先などは考えぬ。それをうまく統制できねば国を損なう元ともなろう。」
「へえ、そんなことが。」
「だが、何事にも最初はあり、たいていそれは失敗する。その失敗を恐れては前に進むことはできぬ。公儀もこうした失敗を踏まえて地固めをしていくのであろうな。」
高杉は思ったよりも頭が回るようだ。もっとこう、ぎっちりと危ない思想に固まってるのかと思ってた。
「なんだ、その顔は。」
「あ、いや、ほら、吉田さんが捕まったりして、高杉は公儀を恨んでたりするのかなって思ってたから意外で。」
「松陰先生の事は誰よりも尊敬申し上げている。だが俺が公儀であったとしてもあの行動を捨て置くわけにはいかない。松陰先生は恐らく死罪。断腸の想いではあるが、それをもって公儀を恨むとあれば筋違いであろう。」
「だよね、俺も吉田さんとは友達だけど、公儀が間違っているとは思わない。」
「だが、そう思わないものもいる。幕臣たる新九郎殿はそれを知っておくべきだな。人の数だけ正義はあり、それは同一の物ではない。
己の正義、それを固めてしまったものは他者を排してでもそれをなそうとするものだ。松陰先生もその一人であったという事だな。」
うっわ、なんか深い事言ってる。高杉のくせに。
高杉に連れられて行ったのは小伝馬町の牢屋敷。いくつかの手続きを済ませ、中に入るとその牢の一室に吉田さんは居た。
「貴殿らの会話は全て記録させてもらう。その点、十分に心得られよ。」
役人がそう言い、近くに文机を置いて座り込んだ。
「晋作、それに、塾頭! 」
「吉田さん、元気そうで何より。」
「ええ、ええ、首打たれるにしろ、やせこけた姿ではあまりに。こちらの牢番の方々もよくしてくださいますし。晋作、よくぞ塾頭を連れて来てくれました。」
「先生。」
「塾頭、このような事になり、申し訳なく。私の振る舞いで象山先生は捕まり、五月塾も。この通りです。」
「もう過ぎた事だよ。吉田さん。」
「文にも記しましたが、あの五月塾の日々は私にとってまさに宝。皆と学び、論じ合い、そして友として交流する。塾頭、覚えてますか、あなたに天ぷらそばをごちそうになった事。」
「うん。」
「私は食事など、腹に溜まれば何でも構わぬと、そう思っていました。人としての楽しみを捨てる事で自分を磨いているつもりだったのです。そんな私にとって、あなたがごちそうしてくれたあの天ぷらそばは何よりもおいしく感じました。心を許した友との食事。それがあれほどにおいしく感じられるとは。」
「そうだね、そんな事もあったね。」
「私は十分に生きました。最後に友の顔を見る事も。なにひとつ、思い残すことはありません。」
そう言って吉田さんは目をつぶると突然英語で話し出した。
「I don't want to burden you with my troubles.(私の事であなたに迷惑をかけたくはありません。)」
やっべ、ぜんぜんわかんねえ。吉田さんも晋作も俺が英語を話せると思っているようで特に驚いた顔を見せなかった。ここは適当に返事をしておかないと。
「オウイエ。」
「I must tell two of you last. This country having to be gathered up in one. And acquire power, and control neighboring countries is a thing indicating the military power in the Western countries.(私は最後に二つあなたに伝えねばなりません。こ
の国は一つにまとまらねばならないという事、そして力をつけ、近隣諸国を制し、西洋の国々に武威を示す事。)」
やっべえ、何言ってるか全然わからねえ。
「If it is not made, this country will be infringed upon ontheirthought sometime soon.(それが出来ねばいずれこの国は彼らの想いのままに蹂躙されるでしょう。)」
ともかくも俺は神妙な顔でそれを聞いた。
「Your superior power for the future of this country. My wish is only it.(あなたの優れた力をこの国の未来のために。私の望みはそれだけです。)」
「イエス、アンダスタンド。」
そう答えると吉田さんは満足したようににっこりとほほ笑んだ。
「晋作、お前もわかりましたね? 」
「はい、全て。心に刻みつけました。」
高杉は自信ありげにそう答える。すっげーな、こいつ。
「私のすべてはあなた達に。塾頭、晋作。もう大丈夫です。私は心安らかに最期を迎えられそうですから。」
そう言って吉田さんは俺たちに深々と頭を下げた。
面会が終わり、なぜか俺だけ役人に呼び出しを受けた。
「松坂殿、貴殿はかつて、五月塾の塾頭を務められたほどの学識を。吉田殿が異国の言葉で何を話したか、教えてくれますね? 」
うわ、どうしよう。まったくわからない。かと言って仮にも元塾頭が判らないなどと言えば五月塾、ひいては象山先生の名誉にも関わるのだ。ここは、適当な事を言ってお茶を濁すしかない。
「えっと、難しい言い回しをしていましたが、要約すると、カッとなってやった。今は反省している。との事です。」
「そうですか。確かに吉田殿は取り調べにも素直に応じ、牢でも手向かいすることなく落ち着いて過ごしています。反省されているのでしょうね。ここだけの話、幕閣の方々もああした志士の方の取り扱いには相当悩まれていたそうです。梅田雲浜のような強情者は別として、吉田殿をはじめとした方は、あくまで国を憂いての行い。死罪までせずとも、と言う意見もあったのです。」
「そうなんですか。」
「ええ、しかし御大老は今、厳しき仕置きをせねば、より多くの者を罰せねばならぬ、一罰百戒、彼らには哀れとは思うがこれも公儀の為と、涙を浮かべて仰られたそうです。世ではいろいろと悪しざまに言われている御大老ですがあの方は公儀の為、その想いで苦渋の選択を。親交のある方を罰せられるは辛い事とは思いますが、どうか御大老を恨むことなく。」
「俺は御大老は素晴らしき方と。公家であろうが大名であろうが罪は罪。胸のすく思いです。友人が罰せられるのは確かに心苦しいですが、悪いのは吉田さんであって公儀でも、御大老でもありませんから。それに俺は男谷の一門。義父精一郎は常々公儀の為に尽くせと。ですのでお恨み申し上げる事など。」
「実に、実に素晴らしきお考えです。あなたのような方が公儀にはおられる。それが判っただけでも嬉しく思います。」
「一つ、お願いが。」
「なんでありましょうや。」
「一度でいいので、刑が執行される前に天ぷらそばをあの人に。」
「ええ、確かに、承りました。必ずや。」
役人に頭を下げ、牢屋敷を出た。そこに待っていた高杉を誘ってそば屋に入り、天ぷらそばを注文した。
「しかし、高杉。あんた凄いね。英語までわかるんだ。」
「いや、全くわからん。」
「えっ? 」
「新九郎殿、言葉とはその意味でなく、魂で感じるもの。あの場で先生が何を言ったかはわからぬがその想いは確かに受け取った。それで十分ではないか? 」
「あ、うん、そうかもね。」
ずるずるとそばを啜り、なつかしいあの日々を思い出す。吉田さん、河井さん、そして龍馬。ああ、海舟もいたね。偉そうに本を読み上げる象山先生の姿を思い出し、思わず笑みをこぼした。
「そういえばな、新九郎殿。」
「ん? 」
「勇吉の奴は鉄砲の調達を賞されて、今や藩公のお気に入りだ。」
「へえ、けど、アレはどっちかと言えば高杉の手柄じゃね? 」
「俺には手柄などいらぬ。身分がどうあろうが俺は俺。長州の為になると思えばそれを成すだけだ。身分がなければ己のなすべきこともできぬ、そのような者は男の風上にも置けぬ。特に桂のような奴はな。」
はいきました、桂ってみんなにヘタレって思われてんの?
高杉は別れ際、俺に深々と頭を下げた。ま、吉田さんの顔も見れたし、良しとするか。何言ってたかはわからなかったけど。
「そうですか、それはようござりましたね。胸のつかえが降りたとなれば何よりです。」
俺は鐘屋に戻り、風呂から上がると律に冷たく冷やしたビールを注いでもらった。のどに刺さる炭酸の刺激が堪らない。つまみは柚子味噌を塗ったパリッと焼けたウズラと、キュウリの塩もみ。それに近年売り出された佃煮。これが結構種類があって、魚に貝、それと昆布などの海藻に、シイタケなんかの山のもの。
この日はアナゴとアサリ、それにシイタケが皿に盛られていた。ごはんのおかずとしてもいいし、こうした酒のつまみには最高だ。ビールを飲み終えた俺は清酒に切り替え、律に酌をしてもらう。
「いいよねえ、佃煮っておいしくて。」
「ええ、わたくしも大好きです。それに佃煮であれば長持ちしますから時期の物以外も食べられますし。」
「うんうん、そうだよね。律っちゃんは何が好き? 」
「その、わたくしはカツオが。それにカキも。」
「いいよねえ、おいしくて。」
「生で食べるにはいささか不安もありますから。」
「そうだねえ。」
「新九郎さまは何がお好みですか? 」
「俺はね、佃煮ならこのアナゴかな。でもね。」
「でも? 」
「律っちゃんが拵えてくれるいつもの飯にはかなわないよ。このウズラもそうだし、漬物もね。」
「もう、わたくしなどはまだまだですのに。」
「律っちゃんが拵えてくれた、ってだけで十倍はおいしく感じるんだよ。」
「もう、そんな事ばかり仰って。もうお酒はお終いです。」
「えー! 」
「あとは律を味わって頂かないと。さ、こちらへ。」
この世で至上の味は律の肌。それだけは間違いないね。うん。