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「先生、もう勘弁してくれ! 俺が新九郎に勝てるわきゃねえんだ! 」


 俺の相手を務める麟太郎が泣き言をいう。俺はこの十ほども年上のいとこが好きではなかった。弱いくせに口だけはぺらぺらと回り、小難しい顔で俺に説教する。ま、伯父上と違い逆らえる分マシだが。


「うむ、麟太郎では相手にならんか。昔から才長けてはいたがな。」


 虎之助さんはそこまで! と言って稽古をやめさせる。そのあと何人かの高弟と相手させられたがみんな軽くひねってやった。この虎之助さんもかつては男谷の門弟。免状を与えられ、独立したのだ。物心ついたときから男谷で稽古をさせられていた俺とも顔見知り、そう言う事だ。


 気持ちよく汗をかいて面を外し、頭に巻いてた手拭いで顔を拭いながら麟太郎と並んで伯父上たちの前に座った。


「麟太郎、おめえはこいつと違って利口もんだ。だから手を出す前にいろいろ考えちまう。」


「確かに。」


「ま、利口な奴は本物の馬鹿には勝てねえ。そう言うもんだ。おめえの役目は前に出て戦う事じゃねえ。頭を使って勝ちを拾う事がその役目だ。戦うのはこういう馬鹿がやってくれる。その馬鹿をうまく使うにゃ馬鹿の強さを知っとかなきゃな。」


「はい、心得ておきます。」


「で、健吉。おめえから見てこの馬鹿はどうだ? 」


「それは、幼き頃よりうちの先生に仕込まれたんです。強くて当たり前でしょう? ま、まだ私は勝てますけど。」


 くぅぅ、むかつくぅ、偉そうに!


「ですが男谷の道場でもまともに立ち会えるのは数人かと。」


「虎はどう思う? 」


「剣でもなんでも戦いってのはひねくれた奴が強えもんだ。心根がまっすぐで強えなんてのは男谷の先生ぐれえなもんさ。それも一つの才ではあるがな。俺も小吉さんもそうだっただろ? だがな、それじゃ高みには登れねえ。剣は心、強くなるにはまっすぐな心をまず、しっかりと学ばねえとな。」


「だな、虎の言う通りだ。俺たちは世間じゃ強えのなんのとはやし立てられたが、歪んだ奴が強くちゃ世の迷惑ってもんよ。俺をかんがみるにな。ひゃっひゃっひゃっ! 」


 独特の引き笑いをしながら伯父上はそうのたまう。なるほど、てめえらがそうだったから子や弟子には真面目に生きろと。図々しいにもほどがあるだろ。


 そこで稽古けいこはいったん取りやめとなり、門弟たちが用意してくれた飯をみんなで食う。玄米と味噌汁、それに漬物だけの質素な飯だ。それを食うと叔父上は健吉を連れて帰っていった。


 昼からは道場に畳を運び入れ柔術の稽古。俺の相手は道場主の虎之助さん。面白いようにポンポン投げられ、畳に打ち付けられる。立ち上がるのが遅れれば絞め技だ。何度か気を失いながらも最後までやり遂げてふらふらになって道場を後にする。


「新九郎も懲りないねえ。何度親父たちにぶん殴られてやがんのさ。」


「うっせーよ! あんたと違ってこっちは部屋住みの身なんだよ。勝手はできないし扱いは悪い。腹立つ事ばっかりなんだ! 一緒にすんな。」


 こういう事をからかうように言うから麟太郎はむかつくのだ。かと言って手を出せば麟太郎にだけはダダ甘のあの伯父上に何をされるかわからない。


「はいはい、そう怒るなって。そばでもおごってやっからよ。」


 うん、こういう所は悪くない。気風きっぷのいいところは伯父上譲りだ。あの伯父上も嫌いだの死ねばいいだの思ってみても、憎み切れない所がある。

 小さなころはよく遊んでもらったし、いろんなものも食わせてくれた。この麟太郎にしてもそうだ。伯父上の度々の無茶で麟太郎の家はいつも貧乏と羽振りのいい時を行ったり来たり。貧乏な時も明るかったし、羽振りが良ければ俺たち親族や、周りの連中の面倒をよく見てくれる。

 図々しくておせっかいで、情が濃い。ろくでなし認定された俺にもこうしてあれこれ世話を焼いてくれる。俺は良い親族に恵まれた。


 ――わけねえよ! 危ない危ない、危うくそば一杯で騙されるところだった。そりゃ確かに憎み切れはしないけど、あの伯父は間違いなく近寄りたくない部類なのだ。


「なあ、新九郎。剣もいいがこれからは頭も利かなきゃ世は渡れねえ。おいらも聞いた話でしかねえが、今までの幕府ってのは西国大名、毛利だの島津だのをへこまして、普請ふしんだなんだとやらせときゃそれでよかったんだと。内向きにはおめえも知っての通りの倹約令さ。」


「そうなの? 」


「ま、他にもいろいろあるんだろうがな。で、今はな、いろんな異国がこの国に来てるらしい。いずれはそいつらとも話やなんやするかも知れねえ。そん時の為にな、俺ぁ洋学ってのを学んでる。ミミズののたくったような字で何書いてあんだかさっぱりだったが、先生についたこともあって今じゃ洋書もいくらか読める。あっちの本ってのはな、目玉の飛び出るほどに値が張るが、それだけの価値はあるってこった。」


「へえ、そうなんだ。」


「ま、おいらもまだまだ半人前だが今年あたり、ひとつ塾でも開いてみようと思ってる。新九郎、そしたらお前も塾生にしてやるよ。」


「えーっ! 俺が? 」


「道場でしごかれんのよりはマシなはずだぜ? 」


「まあ、その時にはね。」


「うっしゃ、決まりだ。親父にもそう言っとく。親父は喜ぶはずさ。おめえの事をなんだかんだで気にかけてるからな。」


 男谷道場の近くで麟太郎と別れた。道場に帰ると当然のごとく小言と折檻の雨あられ。盗んだ金にはまだ手を付けていなかったので許されたがそのあと一晩中、刀で素振りをさせられた。


 そんなこんなでハードな生活が続く、だが人と言うのは慣れるもの。男谷道場では徐々にみんなにも認められ、他流試合を挑まれた時に代表として相手を務めたり、師範並み、として稽古をつけたりもする。だが相変わらず精一郎さんはもちろん、健吉にも勝てなかった。

 男谷道場は門下生も多く、さらには男谷家の家禄もある。御本丸徒士頭としての役高もあるのだ。さらには男谷の本家としての財がある。非常に裕福だ。飯もうまいし、いくばくかの小遣いもくれる。実家からもわずかではあるが仕送りがあった。

 俺はその金で浅草の島田道場に行った時は吉原に寄って帰ったり、麟太郎と帰り道に買い食いしたり、それなりに充実して過ごしていた。


 夏も過ぎ、秋を迎えようとする九月の四日、伯父上の勝小吉が突然倒れ、帰らぬ人となった。俺は精一郎さんや兄貴たち、それに父上や親族と共に葬儀に参加し、手を合わせた。こうしていなくなってしまうと、存在が大きかっただけに、心にぽっかり穴が開いた気がした。

 麟太郎も、それこそ伯父上に毎日のように叩かれていた信伯母さんも泣いていた。それと嫁に出ていた長女のはな、次女は幼くして亡くなっていて、まだ独身ひとりみの三女、じゅんが顔を見せていた。他に、麟太郎の妻、たみが二人の子を抱えて涙を流していた。


 四十九日が済んだ頃、麟太郎は俺を誘って塾のまねごとを始めた。塾の名は「氷解塾ひょうかいじゅく」疑問がすらすらと氷解する。そんな願いを込めた名前だった。

 それにしても蘭学とは難解だ。書いてあること以前にこの、オランダ語と言うのが受け付けない。俺の中身は現代人。英語なら多少は出来そうだが、まったく異なる言語ではそれも難しい。まして先生役の麟太郎とてすべてを解っているわけではないのだ。ただ、麟太郎が以前に借り受け、写したという辞書があり、それをめくりながら一つ一つ訳していく。それでも文章の意味は大まかにしかわからない。

 何しろ辞書は一冊。教科書的な洋書も一冊しかないのだ。まったくと言っていいほど、はかどらない。


「ちょっとさぁ、正式に塾を開く前にもっと勉強した方がよくね? 」


「だな。おいらがこれじゃあ、塾生に舐められちまう。」


「それかさ、誰かに翻訳してもらって、その中身だけ教えるとか。」


「そいつは楽でいいが、それができる奴なんかいるのかねえ? 」


 麟太郎は麟太郎でいろいろ感銘かんめいを受けたことがあるらしく、それを俺に語り聞かせるが、その内容はふわっふわ。どうしたい、どうするべきだ、と言う結論がないから討論にもならないのだ。


「まずはその辺からだね。あんた、いろんな人知ってんだろ? いい先生紹介してもらったら? 」


「そういうなよ。確かに顔見知りは多いが、うちは知っての通りのすっからかんだ。顔出すにしても手土産てみやげの一つもなしじゃ相手にしてもらえねえよ。」


 亡くなった伯父上と違って頭でっかちな麟太郎はいつもこうなのだ。何かする前にいろいろ考えすぎて動けない。まったく、あの伯父上も俺を殴る前にこいつを殴ればよかったのに。


 ともあれ麟太郎の氷解塾は一日で氷解した。



 しばらくの間俺は剣術に精をだす。少しづつではあるが畳の方も斬れるようになってきて、今では三分の一くらいまでは刃が通る。出来るようになると何事もそれなりには面白いものだ。健吉も刺激を受けたのか俺の隣で畳斬りを始めた。

 竹刀打ちでは勝てないがこっちの方は俺が先に始めただけあって、まだ俺の方が上。だが、人がしているのを見ていると何がダメなのかが見えてくる。それを少しづつ改めてみると、思ったよりもスムーズに斬れた。


 柔術の方は比較的才があるらしく、今では免状を受けた師範たちともそれなりに組み合える。さすがに虎之助さんには全く歯が立たないが。師である虎之助さんも俺の上達が嬉しいらしく、いろんな技を俺に掛けてくる。本人はこれで教えてるつもりなのだからやられる方はたまらない。



 そんな感じでそれなりに楽しく日々を過ごし、翌年の春を迎えた。


「へえ、それじゃ、その先生ってのは肺の病で? 」


「そうだね。その見舞いの帰りって訳だ。」


 島田虎之助はこのところ調子が悪く寝込んでいる。本人も長くないと悟っているのか俺と麟太郎に柔術の免状をくれた。なんだかんだで世話になった師匠でもある。時たま顔を見に出向いて、その帰りに吉原で馴染みとなったお辰のところに通う。

 そのお辰もいい客が付いたそうで、今は立派な部屋持ちだ。揚げ代も一晩ともなれば一分金いちぶきんの一枚もいる。銭に直せば千枚。一貫文だ。


「あちきは新さんがこうして顔をお見せになってくれるだけで十分。」


「ま、ついでだ、ついで。俺はいつも言ってるように部屋住みの身だからね。部屋持ちのお前なんぞに通い詰めるだけの金はないんだ。ま、お辰が花魁だなんて呼ばれる頃には俺も深川あたりに河岸を変えなきゃな。」


「そんなつれない事を。あちきが新さんに惚れてるのを知ってるくせに。」


「はは、惚れた腫れたも銭次第ってね。その銭の都合がつかないんだからしょうがないさ。」


 お辰の膝に横になりながらそんな事を言う。馴染んだ女は気安くていいが、位が上がって金がかかるようになってしまえば仕方ない。安く上がる女を別に探すしかないのだ。何しろ俺は部屋住みの身。本家と実家がくれる小遣い以外は収入とてないのだ。当然嫁なんぞ迎えられる身ではないし、こうして吉原に通うには金が要る。どこかで用心棒でも、と思ってみても、そんなのは精一郎さんが許さない。


「新さん、あちきは。」


「ん? 」


「あちきは年季が開ければどっかで夜鷹でもするしか身の立てようが。」


「ま、お前なら身請けの話だってあるさ。」


「それでも。」


「女郎になった以上はそれが全てさ。俺だって好きで部屋住みなんぞに生まれたわけじゃないよ。こういうのは天地がひっくり返ったってくつがえらない。俺は道場で剣を振って冴えない人生を。お前は良い旦那に身請けしてもらえばそれでいい。」


 そう言って俺はお辰を抱き寄せた。



 一月ほどすると麟太郎が興奮仕切りで男谷の道場を訪ねてくる。


「新九郎! 」


「もう、なにさ。やかましい。」


「先生、先生が見つかった! 」


「なんのさ。」


蘭学らんがくだよ。蘭学。佐久間象山さくましょうざんって先生さ。信州は松代藩まつしろはんの方でな、今までは藩邸はんていで講義なさっておいでだったんだが、この五月に木挽町こびきちょうにお移りになって、五月塾さつきじゅくなんてのをお開きになった。おいらはその塾生になろうって訳よ。」


「ふーん。」


「おいおい、気のねえ返事をするんじゃねよ。佐久間象山っていやあ大砲の専門家よ、それだけじゃなく漢学も出来りゃ蘭学も達者なもんさ。それにな、新九郎、おいらが今までぽわっとしかわかってなかったことをズバッと言いなさった。この国に必要なのは陸の戦力じゃなく、海防、つまりは海のいくさに勝てるようにならなきゃならねえ。異国の船がばんばん来ることになりゃそいつらと一戦、なんて事もあるからな。」


「それで? 」


「だからよ、おめえもおいらと一緒に五月塾に通うんだよ。そんで覚えたことをおいらの塾で教えてく。そうすりゃ塾生から金だって取れるし、おめえもおいらも貧乏しねえで済むんだよ。」


「けどさ、その塾に通うのだって金が要るんじゃない? 」


「だ、か、ら、おめえとおいらで精一郎さんにお願えすんじゃねえか。おいらだけじゃ金をせびりに来たとしか思われねえが、おめえと一緒に学問に用立てるとなりゃ話は違うさ。な? 」


「なーんか、うまいことダシにされてるようで面白くないけど。ま、いいさ。聞くだけ聞いてみようか。」


「ん。この通りだ! おめえの言いようですべてが決まる。くれぐれも頼んどくぜ? 」


 蘭学、つまりオランダ語。俺はあまり気乗りしなかったが剣術以外にすることもなかったので、麟太郎を連れて精一郎さんの座敷に行った。精一郎さんは書見しょけんなどをしていたが、快く部屋に上げてくれた。


「どうした、新九郎。麟太郎も一緒だなんて珍しい。」


「えっと、そのですね。麟太郎が前に塾をやろうって話、したでしょ? 」


「ああ、あんまりにひどいんでやめたというアレか。」


「そそ、で、麟太郎がいい先生を見つけたらしく、俺も一緒に通ってみようかなって。」


「精一郎さん。うちが親父の代から本家に迷惑ばっかりかけてんのは重々承知してる。けども今回ばっかしは何としても! 」


 麟太郎の懇願こんがんに精一郎さんはうーむ、と目を閉じて考え込んだ。


「学問に勤しむのは麟太郎、お前はともかく、新九郎にはいいことだ。亡くなった小吉にも、松坂の伯父御にも、こ奴の事は頼まれておるしな。」


「だったら! 」


「だがな、麟太郎。男谷の家は武をもって成り立つもの。お前は虎之助の推薦すいせんがあったから免状をくれてやった。だが、腕の劣る事は自分で判ろう? 」


「うん、おいらは剣術は半端もんだ。弱え、とは思わねえが、島田の先生や新九郎、それにここの健吉なんかにははるかに及ばねえよ。」


「そうだな。だが新九郎は剣においては才がある。しかと鍛えれば本物の免許皆伝、その日も遠くはない。学問は結構だが剣をおろそかに、そう言う話であれば請け合えん。」


「そんなことはねえよ! 新九郎は剣の方だって。塾はそれなりでいいんだ。足りねえ分は俺が教える。それにだ、精一郎さん、俺たちが学ぼうっていう佐久間象山は剣術で言えば一流どころ。そんな塾で学んでたってなりゃいろいろと箔が付く。それに天下の名士が集まるだろうから、そういう顔も利くようになる。男谷はただでさえ武で名が通ってんだ。その上学問の方で、ともなりゃ新九郎だって身を立てやすくなるってもんさ。」


「なるほどな。まあ、わしは理屈ではお前にかなわん。いいだろう、此度はわしが何とかしてやろう。但し! 新九郎はこちらの務めが優先。いいな? 」


「ん、そりゃあ、おいらがこいつをふんじばってもそうさせる。」


「ならば良し。新九郎、腕だけでなく、学が無きゃ人は認めてくれん。しかと学べ。」


「ああ、うん。頑張ってみるよ。ありがとうね、精一郎さん。」


「男谷の男がつまらぬことで礼など言うな。わしは当たり前の事しかせん。」


 そう言って精一郎さんは書見に戻る。小さなころから厳しい鍛錬たんれんばかりさせるこの人が大嫌いだったが、ここで暮らし始めてから少しづつ、世間の評判がいいのももっともだと思い始めてきた。 思えば伯父の小吉も、麟太郎も、少々斜に構えたところのある島田の先生も精一郎さんの文句は一言たりとも口にしない。健吉にいたっては神仏を崇めるが如くだ。


 精一郎さんは俺と麟太郎の入塾費用として10両くれた。それをもって木挽町に向かい、五月塾、と記された真新しい看板の掛かる家を訪ねた。


 書生しょせいが一人、応対に出て、俺たちを座敷に上げる。その座敷に掲げられていた額には『海舟書屋かいしゅうしょおく』と見事な字で書かれた書が収められていた。


「新九郎、おいらはな、あの額をみてピーンと来たのよ。これからは陸じゃなく、海の時代、刀じゃなくって船の時代だってな。おいらがあの額ばかり見ていたら、象山先生はあれをくれるって言ってくだすった。けどな、今のおいらじゃあの額には見合わねえ、しっかり学んで自信がついたらもらう事にしてる。」


「へえ、海の時代ねえ。」


 中身が現代人である俺は明治維新を知っている。佐久間象山と言う名はおぼろげだが記憶にあった。


「そん時にゃあよ、あの海舟ってのを俺の号として名乗ろうかってな。勝海舟、どうだ? 収まりもいいだろ? 」


「えっ。」


 勝海舟、まさかこの理屈っぽい男が? 何をしたかまでは知らないがその名前は知っている。まさかの状況に俺は軽く頭が混乱した。


「待たせたようでありますな。」


 奥から品の良い姿の男が現れ、上座に座った。


「これは先生。お目通り頂き感謝いたします。」


 麟太郎がそう言ってその男に頭を下げるので、俺もそれにならって頭を下げた。


「ん、勝殿、丁寧なごあいさつ痛み入る。」


 そう言いながらその男は少しばかり腰を折る。まあ、俺は部屋住みだからいいけど、麟太郎は一応旗本。少し扱いが軽いんじゃないの? 陪臣ばいしんのくせに。そう思ってイラっとした顔をすると麟太郎がそれを目でとがめた。


「そちらの方は? 」


「拙者のいとこにあたります、松坂新九郎。今は狸穴まみあなの男谷道場にて師範を務めておりまする。」


「ほう、貴殿の親族であられたか。吾輩わがはいは佐久間象山。いささか砲術と蘭学をたしなむものにてござる。我が主君、松代公の許しを得て、これまでに学びし事を広く天下に。そう思いこの塾を開設いたした。」


「それで、先生。拙者とこの新九郎。是非とも門下の端にお加えいただき、その英知の一端を授かりたく。」


「ほう、吾輩の門下に。」


「はい、我らはいささか手元不用意なもので、本家の男谷に頼み、支度金を整えて参りました。」


 そう言って麟太郎は持ってきた10両を差し出した。


「うむ、何事においても金はかかるもの。殊勝しゅしょうな心がけと存ずる。よろしい、勝殿、松坂殿のお二人をわが門下生として認めよう。」


「ありがたき幸せ! 」


 麟太郎に倣って俺も頭を下げた。


「まだ塾を開いて数日も立たぬうちに貴殿らのような方を塾生と出来たは、わが僥倖ぎょうこうである。さっそくたずねるが、貴殿らは今の情勢をどう見ている? 」


つたなき私見を申せば、国家開闢こっかかいびゃく以来の危機、ご公儀がかじを誤ればかの元寇げんこうに劣らぬ災厄がもたらされましょう。」


 うーん、大げさじゃないかな、ま、黒船が来てすったもんだして幕府は潰れる。そのくらいは知ってるけどどうしてそうなったかはさっぱりで、口を挟むにも言葉を欠く。


「ふむ、なかなかの御見識。この国の災厄は常に外からもたらされる。貴殿の言われた鎌倉の頃の元寇、それにご神君の頃の伴天連ばてれん。一歩間違えばこの国は異国のものとなり仰せていたであろう。 此度もそうだ。従来、公儀においては祖法そほうともいえる鎖国政策を遵守じゅんしゅする

為、異国の船は打ち払う。そう決まりがあった。だが、異国は我らが思う以上に強大な船をこしらえ打ち払うには無理がある。そこで天保てんぽうの頃、薪水給与令。つまり必要なものを与えて帰ってもらう。そう方針を定めた。」


「はい、その通りかと。」


「だが、それでは乞食に金をくれてやるのと変わらん。味を占めた乞食は何度でもやってこよう。吾輩はな、海防をしかと固め、異国に舐められぬようするべきである。大砲を作り、異国に負けぬ船を持ち、あちらに劣らぬ技術を学ぶ。それが出来ねば遅かれ早かれ異国に屈することになろう。」


「なるほど、仰る通り。」


「それを成すにはまず教育。あちらの進んだ文物を理解し、この国の置かれた状況を理解できねばならん。話を聞いてもらうには砲術などの人の興味を引くことをも教えねばならぬ。技術ももちろん大事であるが、それをいかに用いるか。そしていかに人に話を聞いてもらうか。吾輩がこのように威儀いぎを保つもその為である。」


 そのあとも佐久間象山は難しそうな話を麟太郎としていた。俺は出された茶を飲みながらあくびをこらえていた。


「今日は実に目出度めでたき日であるな。吾輩は真に意見を交わせる人を得た。誰かある! 酒の用意を。」


 佐久間象山はよほどうれしかったようで、家人に酒の用意をさせた。麟太郎は伯父上に似て、あまり酒をやらない。その分は俺がしっかリ頂くことにした。


「昨今はやれ大砲がどうの、医術がどうのと小手先の技術を求め、蘭学を志す者が多いのだ。」


「さもありましょうな。」


「だが、それは何のためか、そこにまで気が回るものはそうはおらん。吾輩が勝殿を見るにその一点が衆に抜きんでている。」


 いや、こいつは貧乏を脱出したいだけだからね。


「拙者は亡き父の分までも公儀に尽くさねばなりません。それには小手先ではなく、しかとした考えが必要。そう思い、先生に師事しじを願い出たのでございます。」


 それを聞いて象山先生はますますもって上機嫌。今まで空気だった俺にもいろいろと話しかけてくる。


「して、松坂殿、吾輩が思うに、やはりおなごは尻。尻が良ければ子も多くなせる。おなごの魅力とはこれ、尻にありと思うのであるが? 」


「俺はやっぱり胸、いや乳であると思いますよ? そうした行為をするにあたっては男は乳に魅かれるもの。魅かれなければ行為そのものが成立せず、子を成すどころでは。」


「うーむ、なかなかの意見であるな。だが、やはり尻。これは譲れぬ。子を産むのがおなごの務めであり、そのために重要なのは乳よりも尻である! 」


「いいや、絶対乳だね。」


 そのあと遅くまで俺は象山先生と乳か尻かで大激論を交わした。麟太郎はそこらにある本に夢中で口を挟まない。


「ふむ、お主も語るではないか! 」


「先生こそ! 」


 結果的に顔が一番重要。美人万歳と言う事になり、互いに握手を交わしてその日は塾を後にした。





一分金……4枚集めると小判(一両)に交換できるよ。やったね。

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