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 安政六年(1859年)一月の半ば。昨年の暮れに律が手に入れた不忍池の料理茶屋は親父殿にもらった百両のうち七十両を使って大規模な改装を行った。その屋号は「鐘屋かねや」表に掛けられた看板の字は親父殿の揮毫きごうである。その普請もようやく終わり、女将であるお千佳、それにいささか年老いた元道場の下女や下男が営業を開始した。


 正月明けと言う事で客はまばら、かと思ったら案外入っているようだ。俺と律も暖簾をくぐり、中に入ると待ち客が何組か居た。


「これは旦那様、それに奥方様も、さ、どうぞ。」


 女将のお千佳に出迎えを受け、ほかの客の視線を浴びながら中に入る。奥には趣味の良い座敷があってそこに通された。客の中には頭巾で顔を覆い隠した明らかに身分の高そうな人もいた。


「おかげさまで出だしは上々です。すでに何度か通って頂いている方も。料理も出さず、酒と軽いつまみだけですのに。」


「そうですか。やはりお千佳の言うように、布団を打ち直したのが正解ですね。誰であれ布団は気になりますから。」


「そうですね、あとは紅がらを壁に塗り、色を付けたのもよかったかと。お客様からまるで吉原の花魁の部屋のようだとお褒めに預かりましたから。」


「ええ、明かりやそうした雰囲気はとても重要です。それに料理を出さぬのも却って良いかと。何もかもをここで、と言うのではなく料理は料理屋で、ここはあくまでも体を。何事も六分の勝ちが最上と義父が申しておりました。何もかもと欲張ってはいけませんね。」


「ええ、あとは丁寧な掃除と洗濯。それにお風呂ですね。お客様にはお風呂に入られるときに、奥方様の言われた布海苔ふのりをお配りしております。使い方を記した絵図も各部屋に。」


「男谷の道場でみな、必要な事は覚えておりますからそれと同じ。丁寧に、そして手早く。」


「はい。皆さん本当によく働いていただいてます。」


 お千佳は19であるが少し恰幅の良いおばさんっぽい。旦那は元々腕のいい飾り職人だったが例のコレラ騒ぎで起きたり寝たりの病人になってしまったそうだ。だが寝込んでも飾り職人。そのセンスの良さでここの内装にもいろいろ意見をくれたそうだ。そしてお千佳は商家の奉公勤め。そろばん帳簿、それに接客と何をさせてもそつがない。その奉公先もコレラで死人が出て店を閉じてしまったそうだ。


 ひとしきり話が済むと、お千佳は酒膳をもって俺たちを案内する。ここの建物は二階建て。だがその他に離れがあった。そこに俺たちは通される。その離れからは不忍池の絶景が望め、他の部屋の窓からも、どこからも覗かれる心配もない。風呂も厠も専用の物。造りも贅沢だった。


「寿司の出前を。それと風呂の支度も頼みますね。」


「はい、畏まりました。」


 お千佳は酒膳を置くとすぐに立ち去った。


「なんかすごいね。こんなに流行るなんて。」


「お千佳が言うには十分な利が期待できそうとの事です。ここでのわたくしたちの取り分は月に三両。他はついえを抜いた半分を店の資金に、残りは皆の給金に。」


「歩合なの? 」


「いえ、それぞれに給金は費えに勘定しています。その上で出た利の半分を皆に。と言う訳です。」


「はあ、それじゃ頑張るよね。俺でも頑張るもの。」


「わたくしたちは月に三両あれば十分に暮らせますし、それとこの部屋はわたくしたちだけのもの。他のお客には使わせてないのですよ。」


「そりゃ贅沢な話だ。」


「ここであれば部屋数もありますのでお客様が見えても対応が。男谷の道場を出ても暮らせるようにと。」


「ははは、そうだね。」


「あくまで備えでありますけれど。いかなることになろうと夫の身が立つようにするのが妻の役目でありますれば。」


「律っちゃんがいてくれれば俺は、ぽやんとしてても生きていけそうだね。」


「ええ、病に倒れても、手足を失ってもこの律が新九郎さまを支えて見せまする。こうしてお側にいるだけで律はこれほどに幸せなのですから。」


「けどさ、なんで鐘屋なの? 」


「鐘と言うのは突いて突かれて良い音色を。そういう事にございまする。」


「ああ、なるほどね! 」


「お寿司を召し上がって、お風呂に入って。わたくしの鐘は突かれるのを待ちわびておりまする。」


 うーん、実にいい。窓の外には雪の残った不忍池。火鉢にあたりながら出前の寿司をつまみ、律の酌で暖められた酒を飲む。やっべクセになりそう。


 だがクセになるのはそこからだった。風呂が沸き、二人で湯に浸かる。湯から上がると律はそこにあった布海苔を自分の体に塗りたくる。


 説明しよう。布海苔と言うのは食べ物である。海藻の一種で味噌汁の具なんかにもなるそうだ。それ以外の用途として、いわゆる洗濯物の糊付けにも使われる。ぬるぬるしてるんだ、すっごく。後はどうなるかわかるよね。もちろん哲学に属する事が行われた。


 風呂でゆっくりと温まった体に冬の空気が気持ちいい。部屋に戻って一服つけると律が俺を寝間に誘った。この寝間がまたすごい。

 花魁の部屋のごとく敷布団は三枚重ね。ちょっとしたベットみたいなものだ。ふかふかのその上に寝転び、柔らかい律の体を抱きしめる。

 七三分けの落語家に、ちなみに~夜の生活の方は? といやらし気に聞かれても、俺は自信をもって満足しています。と答えられる。

 イエスの枕しか必要ないのだ。


 さて、そんな快適な鐘屋ではあるがしばらくすると変な奴らのたまり場になってしまう。変な奴らとは定さん、トシ、それに勇吉と言った金の亡者たちだ。


「ちょっとなあに、新さん。自分だけこんないい所作っちゃってさ! 」


「定さんだって道場作ったじゃん! 」


「かぁー羨ましいねぇ、全く。できた奥方持つってのは。」


「本当ですよね。拙者、今少し抑えの利かぬ性質たちであれば今頃暴れてると思います。」


「だよな、勇吉の言う通りだ。」


「ほんとだよね。ニクイもの! 」


「ふふ、君たちの嫉妬が俺の力の源なのだよ。ねー、律っちゃん? 」


「もう、新九郎さまったら。」


「あー、マジで爆発しねえかな。こいつら。」


「大砲とか撃ち込みたいですよね。」


「新さん、うちのさな、連れてきていいかな? 」


「それは良くないんじゃないかな! 」


「いいえ、かまいませぬよ? わたくしたちの普段の生活、それにさなさんが耐えきれるならば。」


「うん、無理。わしらが八つ当たりで怪我をするね。」


「ま、それはそうとして商売はうまく行ってんの? 」


「わしのところは変わりないかな。順調だよ。なんせ道場じゃ怪我する人は減らないからね。」


「拙者のところもいい案配で売れてます。」


「そうだな。おかげでうちも潤ってる。」


「けどさあ、こういうの見せられちゃうと、うちもって思っちゃったりしちゃうよね。」


「ですね。拙者もできれば花魁を揚げるくらいの金が欲しいです。」


「そしたら売り込みに行けばいいじゃん。士学館とか。」


「そうですね、確か交流試合があった気が。」


「ちょっと! 勇吉さん? あそこはうちが狙ってるんだからね。」


「早いもの勝ちですよ! 」


「ま、どっちだっていいやな。うちは売り上げが増えるんだからな。」


 定さんと勇吉はどちらも譲らずデットヒート。互いの襟を掴んだところで律が口をはさんだ。


「まあまあ、此度は勇吉さんに譲って差し上げてはどうです? 定吉先生。」


「律っちゃん。けどさあ、わしもお金欲しいし。」


「定吉先生にはいいお得意先があるではないですか。」


「えっ? そんなとこあった? 」


「土佐の才谷屋。諸物を扱っているのであれば当然薬も。」


「あー! そうね、そうだよね。別に江戸で売らなきゃいけないって訳でもないものね! けどなあ、土佐は遠いし、船賃もかかるよ?日にちだって。 」


「そこはそれ、土佐藩邸とて定期的に連絡をされているはず。その方にお頼みすれば。」


「うーん、引き受けてくれるかな? 」


「例えば勇吉さん? 長州に帰るときに箱一つ、ついでに持てば一分金、そういう話があったらどうします? 」


「当然受けます! 」


「ね? 箱に百袋も詰め込めば十分に利が。一分程度はどうとでも。」


「えっと一袋で一朱稼げば百袋で十六両と一分! うんうん、一分払っても全然いいね。それならさ、鳥取藩にも送れるよね。」


「拙者も長州に。売り先のあてはありますし! 」


「おうおう、景気のいい話じゃねえか。うまいことやってくれよ? 」


「んじゃわしはさっそく土佐藩邸に! 」


「拙者も藩邸に! 」


「外に出す分なら遠慮なく赤袋で作れるな。俺はそっちの準備をしとく。」


 そう言って三人は走っていった。


「さ、新九郎さま、今日は何を召し上がりますか? 」


「そうだねえ、天ぷらなんかいいかも。」



 その一月の半ば、勝海舟が長崎から江戸にもどり、男谷道場に挨拶に訪れた。


「精一郎さん、長い事留守にして申し訳ねえ。大きな地震、それにコロリ騒ぎ、オイラはそれを知りながら長崎に居たっきりだ。それに新九郎、おめえの祝言にも、役目に就いた祝いにも文の一つも出せなくて、すまなかったと思ってる。」


「麟太郎よ。お前も役目で出向いたのだ。気に掛ける必要は無い。」


「その分きっちりと学んできた。船の事も異国の事も。」


「そうか、築地にいる海軍とやらは物の役には立たぬ。お前がそうでなければいいが。」


「え、確かにあいつらは途中で帰っちまったが、それなりには。」


「船の事はわしはわからぬ。だが、それ以前に我らは武士。公儀の為に戦うために代々禄をもらっている。新九郎たちに手も足も出ぬでは何を学ぼうが同じ、わしはそう思うがな。」


「新九郎、おめえ、またなんかやったのか? 」


「たいしたことじゃないよ。あとから来て偉そうだから全員殴り飛ばしただけ。」


「かぁぁ。おめえよ、ちっとは考えてみろ。俺たちゃそれこそ大層な金使って長崎くんだりまで行ってんだ。オイラもそうだが多少頭でっかちになんのは仕方ねえだろ? 

 そいつらを片っ端からぶっ叩いちゃビビっちまって使いもんにならなくなる。いいか、新九郎。俺たちは遊びで出かけてきた訳じゃねえ。異国の奴らに馬鹿にされねえためには、船が、海軍がどうしたって要るんだよ。」


「んな事は言われなくてもわかってんだよ。けどな、だからって人の家に土足で上がり込むような真似が許せるわけねえだろ? あんたら海軍は俺たちの講武所に碌な挨拶もないまま、ずかずかと入り込んできたんだ。あの永井ってのも矢田堀ってのもぶん殴られて当然なんだよ! 」


「ガキじゃねえんだからよぉ、挨拶がどうので手を出してんじゃねえよ。いいか、奴らにゃ銭がかかってる。そりゃあ目ん玉飛び出るほどの金額だ。そいつらがぶん殴られて縮み上がっちまったら公儀としちゃあ大損もいいとこだ。おめえのやったことはそんだけでけえ事なんだよ! 」


「バッカじゃねえの? 海軍だろうが何だろうがいざとなりゃ大砲向けて撃ち合うんだろ? ぶん殴られた程度で使えなくなっちまうなら初めから役に立たねえ、そういう事じゃねえか! 」


「バカはてめえだ! 新九郎。海軍ってのはな船動かすのも大砲撃つのも頭なんだよ。腕っぷしなんてのは荒れる海相手じゃ何の役にも立たねえんだ。それぐらい判れってんだ! 」


「おいおい、俺たちゃ海軍だなんだという前に武士じゃねえのか? 武士なら刀が仕えて、腕っぷしがあって、覚悟があって当然だろ?その上で船だなんだを学ぶべきじゃねえのか? 」


「んなことやってちゃ間に合わねえんだよ! とりあえず頭の冴えた奴集めて仕込むのが先決なんだ! おめえみてえな馬鹿じゃ仕込むに仕込めねえんだよ! 」


「あ? なに? 喧嘩売ってる? 」


「ほら、おめえはすぐこれだ! いいか、異国の奴らを十や二十ぶん殴ろうが叩き斬ろうがそんなもんじゃ片が付かねえ。奴らとおんなじ土俵、船で戦えるようにならなきゃあいつらは認めちゃくれねえんだ! 五分で話なんか聞いちゃくれねえんだよ! なんでそれが判らねえ! 」


 海舟は涙声でそう俺に訴えた。


「そこまでにしろ、二人とも。麟太郎。お前の言い分もわからぬでもない。一刻も早く異国と同じ土俵に。そうならねば認められぬし対等には話せない。」


「精一郎さん。」


「だがな、わしにはお前たちのすごさが判らぬ。船、大砲、頭ではわかるがな。いいか、麟太郎。この新九郎は海軍の者どもを叩きのめし、男谷の名誉を守るため練兵館に乗り込んで、その塾頭を殴りつけた。 お前から見れば取るに足らぬことかもしれん。だが新九郎のすごさは誰もが判る。異国に認められるのも大事である。だがお前の言い分には実が欠ける。まずは我らに、そして公儀に認められる何かが必要

なのではないか? 」


「……言われてみりゃあ確かにそうだ。身内にすら認められねえもんがうまく行くはずもねえ。オイラの役目はそこ。そういう事か。」


「そうだな、お前がそれを成せるというなら世の見方も我らの見方も変わるというもの。お前にとってわしらは古く、愚かに見えるかもしれぬ。だが世の大半はそうだという事を忘れては何事も進まぬものよ。お前ならばわかるな? 」


「はい、オイラたちばっかり焦っても誰もついてこねえんじゃ意味がねえ。」


「そういう事だ。今の御大老はそれを案じて先走る者たちを留めておられる。異国とどのような交渉をしようとも、世がついてこられぬでは意味がない。お前はそのあたりをよくよく注意せねばな。」


「判りました、精一郎さん。オイラも今は多少なりとも人に話を聞いてもらえる立場にある。そのあたりをよっく聞かせて回るさ。」


「お前はお前、わしらはわしら。それぞれに公儀に尽くせばよいのだ。」


 勝海舟は親父殿に深々と頭を下げて席を立った。


「あいつ、相変わらずむかつくよね。」


「そうだな。はっはっは。」



 二月になると我らが井伊大老が動きを見せる。一身に悪評を背負い、崩れかけた幕府の威厳、世の秩序を取り戻すため剛腕を振るう。

 いわゆる異国通の官僚たちを左遷、発言権を封じてしまう。無論水戸の謀議も徹底的に調査を継続中だ。その上で朝廷に対しては今は仕方がないが、いずれ鎖国を。と機嫌を取った。


「御大老は開国に傾きすぎた公儀を平らかにしようとされておるのだ。武威も学問も大いに劣る今の情勢で国を開くは危険であるとな。

 今少し異国の知識を取り入れていささかなりとも力を付けた上で再考を。判らぬ話ではない。だが朝廷は異国に怯え、一も二もなく打ち払え、の一点張り。いずれ鎖国を、そうとでも言わねば話にもならぬのであろうよ。」


 親父殿は幕閣の情勢をそういう形で話してくれた。まあ、確かに。京にのさばる尊王攘夷の志士とやらは何も知ろうとせずに原則論だけ言い立てる。朝廷に対し、無礼、不忠、怪しからんと。そんな連中に政治的意図を絡めた一橋派が乗っかってる。

 きっと彼らは自分たちが頭が良いとでも思ってるのだろう。自分の意を通すため、公儀の足を引っ張る彼らに嫌悪感を感じていた。どことなく海舟と同じ臭いがするのだ。


「どうされたのです、そんな険しいお顔をなされて。」


「んー、律っちゃん、頭のいい人ってのは大変だなって。自分の意見の正しさを通すために苦労して、敵作って。そんなに大事な事かねえ。」


 律は愚痴を言う俺を膝に寝かせた。


「新九郎さま。そういう方が居られるからこそ私たちはこうして。面倒な事を引き受けてくださってるのですよ、きっと。」


「まあ、そうだよね。けどさあ。」


「新九郎さまもわたくしも難しきことは性分に合いませぬ。ですからそのお口はそんな事よりもこうして。」


 そう言って律は唇を重ねた。


「他所のお方は他所のお方。そんな事で腹を立ててもつまらないですよ? さ、こちらへ。憤りがあるならばそれは妻のわたくしが。」


 そう言って連れていかれた寝所には、不忍池の鐘屋のように敷布団が三枚重ねられていた。うむ、下らぬことは忘れて哲学に勤しまねば。



揮毫……毛筆で何か言葉や文章を書くこと。

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