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 八月の始め、俺は講武所の帰りに気が向いたので、桶町の千葉道場に顔を出す。


「あら、新さん。久しぶり。」


 外で庭掃除をしていた定さんが二カッと笑って出迎えてくれた。中に上がり、座敷に行くと、そこには龍馬とさながいた。


「二人とも、久しぶりだね。」


「あら、新九郎さん! 聞いてください。実はね、龍馬さん、この正月に北辰一刀流の目録を頂いたのですよ? 」


「へえ、すごいじゃん。」


「目録言うても長刀んだけちや。剣の方はまだまだぜよ。」


 恥ずかし気に龍馬が頭を掻いた。


「龍馬はね、さなからきっちり長刀を教わったからね。それにさなの婿だから目録ぐらい持ってないと。お父さんもいろいろ考えてるのよ、これでも。」


「そうだよね、千葉道場の婿かぁ。定さんもこれで安心だね。」


「ははっ、ははっ、ははっ、」


 龍馬は壊れたおもちゃみたいに同じ笑いを繰り返す。引っ叩いたらファー〇ーみたいに「モルスァ」みたいなことを言いそうだ。


「わ、わしはのう、新九郎さん。その、尊王攘夷っちゅうんに興味があるちや。この国の為に働かんといかんち。」


 現実逃避の果てに龍馬はそんなことを言い出した。きっと尊王攘夷の意味も分かってないに違いない。


「ふーん、大変だね。で? 」


「天下国家に身を置くわしじゃき、さなを妻に迎えてしまえば覚悟が鈍る。」


「はい? よく聞こえませんでした。もう一度。」


「いや、その、天下国家に、あうっ! 」


 龍馬はさなのショートフックを食らい気絶する。


「そういう浮かれた事は他の方に任せておけばいいのです。お父さん、龍馬さんには今少し、しつけが要りますね。」


「あ、うん。二人の事だし、好きにすればいいよ。」


 龍馬は襟首を掴まれてずるずると引きずられていった。


 その数日後、さなに全財産を握られている龍馬は一文無しで脱出した。置手紙にはそろそろ期限だから土佐に帰ると記してあった。当然さなはおかんむり。それを避けた定さんがうちに逃げ込んだという訳だ。


「もうね、大変な暴れっぷり。嫌になっちゃう。」


「大変だね、定さんも。」


「でもさ、わしもね、龍馬の立場だったらああするかも。」


「うん、そうかも。」


「さなさんはおなごの情の強い方でありますれば。」


「うちの娘が律っちゃんだったらどれだけよかったか。よく、子は親を選べないっていうけど親だって子を選べないもの。」


 すっかりなじんだ律は定さんからも律っちゃんと呼ばれ可愛がられている。ひとしきり愚痴を述べた定さんは夕方になって帰っていった。



「しかし、満たされないおなごと言うのは哀れなものですね。ウフフフ。」


「ほんとだよね、見てる分には楽しいけど。」


「さ、新九郎さま、律がああならないためにも満たしていただかないと。」


 そう言って律はいそいそと布団を敷きだした。


 律は本当によくやってくれている。家計の管理に家事全般。口うるさそうな年嵩の女中も親族もみんな律の事は褒めてくれる。俺が外出する時も過不足なく銭を持たせてくれるし、休みとあれば面白そうなところに連れて行ってくれる。


 好色ではあるが。


 さてその八月、江戸はおろか、全国的にコレラが大流行。バンバン死者がでてあちこちを棺桶が行ったり来たり。中身が現代人である俺は、とにかく風呂に入って清潔に。医薬品としてごくわずかに製造されていた高価な石鹸を手に入れて、親父殿や親しい人にそれを使うよう勧めた。

 もちろん我が家でも使用する。ぬるぬるとした感触が非常に新鮮に感じた。無論ぬるぬるとおっぱいという哲学的な組み合わせを試みたことは言うまでもない。


 その、コレラ騒ぎに紛れるように将軍、家定公が身罷られたと発表があった。七月には薩摩の賢公、一橋派の重鎮、島津斉彬が亡くなったばかりのこのタイミングでだ。後任は南紀派の推す慶福。まだ決まってはいないがそうなるだろうと親父殿は言っていた。


 ぶっちゃけて言えば俺たちにとって井伊大老はむしろ歓迎すべき存在だ。頭でっかちの海軍の奴らも総裁の永井を勘定方に回されてしまい、縮こまって稽古してる。井伊大老は守旧、つまり俺たち剣術方の必要は認めてくれるのだ。


 その我らが井伊大老であるが、九月に入るとテロリストの一斉検挙に乗り出した。事の起こりはアメリカとの通商条約。これに反発した朝廷は水戸藩に対して密勅を授け、幕府の転覆を図ろうとしたのだという。いわゆる尊王攘夷の志士が続々と逮捕され、ついでに一橋よりの活動家も逮捕される。うんうん、いいよ。そういう頭でっかちなのは公儀の敵。ついでに海舟とかも逮捕すればいいのに。


 いわゆる、安政の大獄、スタートです。


 十月になると紀州慶福が十四代将軍となり、名を家茂と改める。これからは家茂公の治世、その為にテロリストは綺麗に片づけないとね。それが大老のお役目だもん。


 その十月、俺たち講武所剣術方に嬉しいお知らせが届いた。俺たちは海軍の連中と別れ、新たに神田に拠点を構えるのだという。その敷地は七千坪。やったね。とはいえ工事は来年の七月から。まだまだ先の話ではある。


 それはそうと最近健吉は講武所に通う一人の若者を連れ歩いている。なに? ホモなの? そう思っていたが聞いてみると弟子らしい。まあ、健吉は直心影流男谷派の免許皆伝。榊原派を名乗って弟子をとってもおかしくはない。


 その弟子は上品な若者だった。


「新さん、彼はね、今井さん。どうしても私の弟子になりたいっていうから。」


「松坂先生、今井信郎と言います。榊原先生の力強さに憧れ、無理を言って弟子にして頂きました。若輩者ですが宜しくお願いします! 」


「あ、うん、よろしくね。」


 なんとなく好感の持てる若者だった。健吉が今井さんと呼ぶので俺もそう呼ぶことにした。この今井さん、剣の腕はもちろんの事、中々に芸達者なのだ。書や絵の心得があるらしく、暇な時に金魚の絵をかいてもらい、それを律に見せたら大層喜んだ。それもあって俺の今井さんに対する好感度は大幅にUP。今井さんも「新さん、新さん、」と懐いてくれる。


 その今井さんは青春真っただ中の18歳。真面目で可愛げのある男だった。


 十二月の中頃、長州藩邸から一通の手紙が届く。俺宛てのその手紙は練兵館の塾頭、桂からだった。中をべらべらっと開くと、桂からは簡単な挨拶が記されていて、その中に無記名の手紙が入っていた。


 塾頭、お久しぶりです。私の方はあれから様々な事がありました。この身に宿る魂を燃やし尽くすような何事かを成したく思っておりましたが、それはもはや成らぬようです。

 長州に戻った私は燃え尽きぬ魂を若き者たちに分け与え、彼らに私が成しえぬことを成し遂げてもらいたい、その想いで塾を開き、教育に当たりました。幸いにもこれまでにこの目で見て学びし事は、若い彼らにとっても有用でした。

 阿蘭陀オランダが力を落とせし昨今、これよりは英吉利エゲレス亜米利加アメリカの国の言葉、英語が重要になる事でしょう。私にあと五年、いや、十年の時が残されていれば必ずやこの国を外国に負けぬ強い国に。そう思ってみても今となっては仕方なく。私がいささかなりとも仕込み、魂を分け与えた若い彼らに後を託すほかありません。

 

 思い返せばあの五月塾での日々が私にとっては何よりの宝。わかりあえる友がいて、象山先生の元、充実した日々を。


 塾頭。聞けばあなたは桂とも親交があるとの事。この桂は必ずやこの国の先に必要なものとなりましょう。この吉田寅次郎、生涯の願いです、桂に塾頭のお力をお貸し願いたく。友であるあなたであればきっと聞き届けてくれますよね。ね? 



 そんな内容だった。使いの者に、吉田さんどうしたの? と聞いてみると、尊王攘夷の連中を取り締まるため、大老が京に派遣した老中、間部詮勝を殺す算段をしていたとかで、藩に捕まったらしい。もうね、それ、完全なテロリスト!


「ねえ、吉田さんの塾生ってみんな吉田さんっぽい感じ? 」


「それがしは良く存じませんがおかしな連中だと国元では。」


「桂も? 」


「いえ、桂さんは分別のある方ですから。あれでも。」


 なるほど、吉田さんは長州でテロリスト予備軍を育ててた訳だ。あの人ペリーに振られてからいろいろとおかしかったもんね。


「うん、手紙は受け取った。ありがとう。」


 そう言って手間賃に一朱金を渡した。二本差しの侍がわざわざ来てくれたのだ、これくらいはすべきだろう。


「いえ、役目ですから礼などは。拙者は志道勇吉しじゆうきち、どうかお見知りおきを。」


 言葉では断りながらその手はしっかりと金を握る。嫌いなタイプではなかった。折角なので少し話をと思い、中に招いた。


「んで、桂は? 」


「国元に。あんなヘタレでもいれば何かと役に立ちますから。」


 酒が入った勇吉は結構な毒舌で面白い。


「だよね、ほんとヘタレだったもの。」


「しかしあの場では仕方ありますまい? 竹刀ならともかくああもぶちのめされては。とはいえ桂さんといつも偉そうにしてる弥助が這いつくばっているのは見ていてすっとしましたが。」


「あ、志道さんもあそこに居たの? 」


「勇吉とお呼びくだされ。ええ、拙者も一応練兵館の門下ですし。いわゆる私費遊学って訳なんですよ。」


「んじゃ実家は金持ちなんだ。」


「いえいえ、とんでもない。びっくりするほど貧乏で。たまたま養家がそこそこの家だっただけで。ただ、養子ってのも肩身が狭くて。」


「だろうねえ。」


「桂さんみたいな坊ちゃんとは違いますからね。金もないし。」


 そこで俺はぴーんとひらめいた。


「ならさ、勇吉、薬売りやってみない? 」


「薬売り? 」


「うんうん、打ち身の薬なんだけどね、律っちゃん! あの薬持ってきて! 」


「はーい。」


 律が現れ勇吉に頭を下げると緑と赤の二つの袋を置いていった。


「これは? 」


「知り合いが作ってる家伝の薬、石田散薬って言うんだけど、これがね、今、講武所と千葉道場でバカ売れ。緑のは一朱、赤いのは三朱で売ってる。」


「ほう、三倍も値が違うのですか。効果がそれほどに? 」


「いや、これは内密なんだけど中身は一緒。」


「ふむ、袋だけ変えてと、あっ! そういう事ですか! 」


「判った? 緑は庶民、赤は道場の門弟や旗本だけに。赤いのは数を絞ってるからね。希少価値もあるし、なんたって講武所御用達だよ? あの剣聖、千葉周作先生も良いって言ってた、って事になってる。」


「つまりこれを私が練兵館と長州藩邸に、と言う事ですね? 」


「そうそう、判ってんじゃん。」


「して、取り分は? 」


「赤は一袋売るごとに一朱。」


「なんと! 」


「注意するのは無い時は無いって言い切る事ね。その辺の塩梅あんばいが重要。」


「是非、是非に拙者にも! 」


「近々薬売りのトシってのに藩邸を訪ねさせるから。効果効能、その他はそっちから聞いて? 」


「ええ、楽しみに。儲けたら必ずやご恩を返しに。」


 勇吉は中々にさといようだ。なんとなくだが気の合う感じがした。



「その、新九郎さま。わたくしもお話が。」


 勇吉が帰ると律はいつになく真面目な顔でそう言った。


「どうしたの? 律っちゃん。」


「できれば義父上さまにもお聞き頂き願いたく。」


「そう? なら親父殿の部屋に行ってみようか。」


 離れと言っても、道場を併設した本宅とは渡り廊下でつながっている。本宅の奥にある親父殿の部屋を訪ねた。


「どうした、新九郎。それに律まで。まあ、入りなさい。」


 親父殿は俺たちを迎え入れ、手を叩いて女中を呼ぶと茶を持ってこさせた。


「して、何用か? 」


「うん、なんか律っちゃんが話があるんだって。」


「ほう、律がな。申してみよ。」


「はい、義父上さま、実は、夏にコロリの病で亡くなった女中のおゆうの事なのですが。」


「ああ、可哀想な事であったな。」


「そのお由、いささか年老いておりましたので、大きな娘が。今年、19になると。」


「ふむ、母を病で失くしたとあれば困窮もしておろう。我が所で面倒見てやりたいのは山々であるが、一人に情けをかければ我もと。そのすべては抱えきらぬ。」


「実は、そのコロリ騒動の後で、主、親族のほとんどが亡くなったという料理茶屋が。残ったものは江戸を離れ生まれ故郷に引っ込むとかで、格安で譲っていただいたのです。」


「なに? 男谷の者が商いなどする必要は無い。」


「いえ、こちらに勤めし女中や下男も皆年が。娘やせがれもいる事ですし、その働き口に悩むものも。その受け皿となればと思い、勝手ではあると知りながら。」


「なるほど。男谷に関わりしものであれば何とかしてやりたい、そういう事かな? 」


「はい。水戸でも同じような事があり、幼い私はただ指をくわえて見ているだけしか。あのような思いは、もう。」


 律は涙を袖でふき取りながらそう言った。親父殿はそれを見るとたまらずに腰を浮かせた。


「泣くでない、わかっておる、律の心はすべて。そうであるな、そうした受け皿があればここで働くものも安心できよう。

 だが男谷の名で商いなどすれば他から軽くみられる事にもなりかねん。我らは検校殿のお力で身を立てたもの。その事をよく思わぬものも多いのだ。

 わしはな、それを払拭すべく、男谷の名を高めるためにこれまで力を尽くした。水戸の兄も同様だ。」


「はい、父もそのように申しておりました。盲人の金貸しで身を立てた、そう言われぬよう精進せねばならぬと。」


「そういう事だ。しかし、律の申し分も最もな事。」


「義父上さま。律に一つ案じていることが。」


「申してみよ。」


「その、お由の娘、お千佳。これが中々に才長けた者ゆえ、あくまでそのものを表に。わたくしは一切そちらには関わらず、働き手をお家の方々から募りまする。哀れに思った新九郎さまが行き場のないお千佳をそうして面倒見ているとすれば世間も悪くは申しますまいと。」


「なるほどな、あくまで私財を投じた人助け、そういう事か。」


「はい、こちらで働く年嵩としかさの者も娘やせがれに後を譲り、その料理茶屋で。さればどちらも信用できる者たちで固めることができまする。」


「ふむ、新九郎、どう思う? 」


「いいんじゃない? 俺は家計の事は律っちゃんに任せてるし、その律っちゃんがいいと思うなら。」


「ふっ、そうであるな。そうした受け皿があるとなれば家中の者も安堵あんどしよう。そうした事にわしは頭が回らぬ。男谷の名、新九郎の名を損なう事がなければ許そう。」


「義父上さま、お聞き届けいただきありがとうございます! 」


「ふむ、やるのであればしかと手を入れねばな。わしが百両出そう。しかと客を呼べるよう、手入れをせよ。」


「はい! しかと。」


 最後はにっこり笑った親父殿。律が家人かじんの行く末にまで気を配れるのが嬉しかったようだ。律を去らせた後、上機嫌で酒を飲みながら何度もその事を俺に言った。


「ねえ、律っちゃん。いつの間にそんな事してたのさ。」


「驚かせて差し上げたくて。不忍池に行った時からわたくしはああしたところをわが手に、と思い、女中たちや出入りの商人に探して貰っていたのですよ。そこにたまたまコロリ騒ぎ。安値で買いたたくことが叶いました。」


「安値って? 」


「権利、建物、土地で百両ほどです。」


「ひゃ、百両? そんなお金どこに? 」


「新九郎さま? あなたは二百俵取りなのですよ? 二人扶持は道場の方にお渡ししてますが、お金に変えても年に60両。わたくしがあなたに嫁いでもう三年目。お金の方は手元にまだ三十両ほども。わが地所ともなれば家賃もかかりませぬ。それに居抜きゆえ諸道具は全てありますし、料理などを出さずに出会い茶屋とすれば赤字になる事もありませぬ。」


「へえ、結構贅沢してたのにね。いろんなところに遊びに行ったり。」


「男谷のほうで暮らしの費えは全て面倒見て頂いておりますし、特に大きな潰えもなく。」


「けどさ、働き場所が出来てみんな助かるんじゃない? 」


「ええ、わたくしも男谷の女。皆の助けになればと。わたくしは商いの事はよくわかりませぬが、お千佳はそのあたりも十分に。」


「そっか、なら安心だね。」


 こうして俺はラブホテルの経営者となった。


「それにあちらがわが物、となりましたから、いつでも気軽に。それこそ何日でも。うふふ。」


 そう言いながら律は布団を敷きだした。


コロリ……コレラの事。


居抜き……お店を内装そのままに買ったり借りたりする事。

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