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 十月二十一日、アメリカの領事、ハリスが下田奉行の先導を受けて江戸城に到着する。沿道では異人を一目見ようと民衆が詰めかけていた。俺もその日は律を連れて町衆に紛れてハリスを見る。駕籠の窓を開けて朗らかに手を振るハリス。俺たちの位置からはチラリとしか見えなかった。


「あれが異人なのでござりますね。髪の色も肌の色も目の色もわたくしたちとは大違いで。」


「まあね、外人だし。」


「わたくしたちと同じ、人ではあるのでしょうが姿かたちがああも違うと中々に睦まじくとは。」


「あはは、律っちゃんは俺とだけ睦まじくしてればいいの。」


「うふふ、ならばそういたしましょうか。今日は屋形船を借り切って。」


 あれからそうした娯楽施設の情報集めに余念がない律は、あそこは景色がいいと聞いたとか、ここはどうだとか、いろいろ調べて俺を誘う。もちろん断る、と言うコマンドは俺にはないので、一緒になって楽しんだ。


 親父殿の話では幕閣に二つの派閥が出来つつあるという。元々そういう要素はあったのだが老中の阿部正弘がうまく調整していたらしい。

 その阿部正弘が六月に亡くなって以来、老中首座の堀田正睦を中心に水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、そして薩摩の島津斉彬などが阿部路線を引き継ぎ開国に向けて努力していた。

 その阿部路線に真っ向から反対しているのが彦根の井伊直弼。そこに会津、伊予松山、伊勢桑名、姫路、越後長岡の藩主たちがくっついて反対勢力を作っているらしい。


 この二派は外交問題だけでなく、将軍の後継問題でも争っているという。水戸、徳川斉昭の実子一橋慶喜を押す、堀田派と紀州の慶福を押す井伊派。今では一橋派、南紀派と呼ばれ険悪な雰囲気であるという。


 ま、そんな話を聞いてもふーんとしか思わない。確かあれだ、そのうち京都に悪い奴がでて、それを新選組が退治して、なんやかんやあって明治維新。それが俺の知ってる歴史のすべて。俺は新選組でもないし、全く問題ない。今のまま。律と仲良く暮らせればそれでいいのだ。


 ほかに大きな話題と言えば、蝦夷地に最新の城がつくられるということくらい。北海道なんかに要はないし、寒い所はそもそも嫌い。ひっじょーにどうでもいい話。気になる事と言えば、明治維新が成ったあとどうやって暮らすか、ぐらいだ。当然公儀はなくなる訳で今貰ってる二百俵二人扶持も貰えない。ま、その時はその時、何とかして律を食わしていけばいいさ。


 暮れの十二月、一つの事件が起きる。俺が亀沢の道場の担当の日、講武所に於いてうちの鑓次郎が神道無念流の藤田泰一郎と大喧嘩。その場は鑓次郎が打倒したが、藤田は捨て台詞のように、「うちの塾頭の桂さんには敵わない、」と言い捨てたそうだ。それにカッチーンと来た鑓次郎は藤田に連れられ練兵館に乗り込み、その桂と対峙、見事に負けを喫した。悔し涙を流しながら鑓次郎は俺と、戻ってきた健吉に泣きついた。


「新さん、健吉さん、俺、口惜しくて! 」


「うーん、負けちゃったものは仕方ないんじゃない? 」


「そうですね。」


「けど、男谷の者が練兵館に負けたと噂になれば、先生の面目が! 」


「でもさ、練兵館って確か定さんが格下っぽく言ってたけど? それに講武所にいるのだって大したことないじゃん。」


「もう、新さん? ここは、よし、俺がってなるとこでしょ? 」


「うーん、面倒だしな。健吉、行って来たら? 」


「そうやって何でもかんでも人にやらせて。普通に新さんが行けばいいじゃないですか。その塾頭がだれか知りませんけど。普通に引っ叩いてくればいいんですよ。」


「俺、今日はここの担当なんだけど。」


「さ、鑓次郎、新さんの剣術道具もってあげて。新さん、やりすぎちゃダメですよ。」


 健吉に追い出され、仕方なく九段坂上にある練兵館に向かう。


「あの、すいません。」


 そう声をかけると中から生意気そうな門弟が出てきた。


「ここは天下の練兵館だ。入門なら裏に回れ。」


「あ、いや、そういうんじゃなくて。」


「おいおい、うちはあの男谷の直弟子をぶちのめした道場だぜ? 兄さん、その頭は講武所かぶれなんだろうが、髪形だけじゃ強くなれねえぞ? 」


「あー、どうでもいいから、ちょっと上がらせてもらうね。」


「無礼だな、てめーは! 」


 そう言って殴り掛かってきた門弟を背負い投げた。そいつは顔色を変えて「道場破りだー! 出合え、出合え! 」と大きな声を上げる。


「ちょっと、新さん。まずいですよ! 」


 鑓次郎はそういうがすでに中からぞろぞろと門弟たちが出てきてる。その中に藤田さんの顔を見つけた。


「え、松坂先生? 」


「うん、なんかうちの鑓次郎が世話になったみたいで。で、その塾頭ってのは? 」


「藤田さん、なんだそいつ。」


 のそりと顔を出した男は雰囲気があった。


「や、弥助さん、何でもないですから。あはは、この人は講武所のね、いろいろ触らないほうが良い感じの人だから。」


「ああん? 関係ねえべ。うちの道場に来た以上ぶっ飛ばされても文句ねえべな。」


 なんとなーく気に入らなかったのでそいつをぶん殴る。不意打ちを食らってよろめいたところを足を払ってすっ転ばし、思い切り胸を踏みつけてやった。弥助と言う男は、ぎゃん! と一声上げて泡を吹いた。


「あのさ、藤田さん。面倒ごとにしたく無いから早く塾頭出してよ。練兵館が男谷舐めてるならぶっ潰すけど? ああん? 」


「あ、いや、そんなことは全く! ほら、みんな、下がって! 」


 一人強い目で睨んできたのでそいつもぶん殴り、外に投げ飛ばした。


「ほらほら、早く呼んでこないと。次はこいつね。」


 近くにいた奴の襟を掴んでぐっと引き寄せ膝で蹴る、そいつはうげええっと唸って胃液を吐いた。それを五人も繰り返すと顔を上げる奴は誰もいなくなった。


「新さん、やばいって、あんまり暴れちゃまた先生に。」


「だってむかつくじゃん、ちょっと竹刀打ちができるからって偉そうに。」


 門弟たちが姿を消した道場に上がって、その塾頭を待つ。しばらくするとちょっと洒落た感じのいけ好かない顔をした男が出てきた。


「あんたが塾頭? 」


「桂小五郎、長州藩士だ。」


「んな事は聞いてない。塾頭なの? 」


「そうだ。」


 そう答えた瞬間に腹にケリを入れてやった。突然の事に何が起こったかわからない桂と言う男の襟を取って締め上げる。


「あんた、竹刀打ちでうちの鑓次郎に勝ったんだって? でもさ、あんたはここで小便漏らしながら気絶しちゃうんだよ? 男谷どうこう触れ回るつもりならこっちも相応にしちゃうから。」


「や、やめて! 」


「きこえなーい。あんたは漏らしの小五郎としてこの先暮らすんだよ。」


「お、お願いだからやめてちょうだい! 僕はそんな事言いませんから! 」


「だーめ、信用できない。男谷を舐めるとどういう事になるか世間によーく知ってもらわないとね。」


「む、むりぃぃ! ほんとに無理なの! らめぇぇぇ! 」


 あとちょっと、そういうタイミングでさっき踏みつけた弥助と言う男が入ってくる。


「おい! お前! 卑怯だぞ、剣で勝負しろ! 剣で! 」


 ちっと舌打ちして桂を放し、走りながら飛び蹴りを弥助に決めた。今度は復活しない様に念入りに踏みつける。


「あのさあ、武術は竹刀打ちだけじゃないからね? 」


 桂を睨みながらそう言ってやった。


「あ、はい、そうですよね。僕もそうじゃないかと思ってたんですよ。」


「で、どうすんの? 」


「あの、何が? 」


「鑓次郎に勝ったことすっぱり忘れるっていうなら見逃してやってもいいけど、そうじゃないなら漏らしの小五郎にしてあげるけど? 」


「あれ? なんのことだっけ。僕すっかり忘れちゃったな。ね、藤田さん。」


「そう、そうですとも、私が鑓次郎殿に負けちゃって。いやあ、流石男谷先生の直弟子は違いますな。ははっ。」


「こう言ってるけど? 鑓次郎。」


「それであれば、一切口外しないというのであれば宜しいかと。藤田さん、うちにはまだ健吉さんもいるからね? 」


「ですよねー、あんなふっとい腕で殴られたら死んじゃいますもんね。」


 桂と言う男と藤田さんはバッチャバッチャ目を泳がせてそう言った。ま、このくらいでいいかな。あっ!


「そういえばあんた。」


「は、はい? 僕ですか! 」


「そうそう、あんた、長州だとか言ってなかった? 」


「はい、僕はか弱い長州藩士ですけど。それが何か? 」


「うん、吉田さん、知ってる? 吉田寅次郎。ちょっと危ない感じの。」


「ああ、長州じゃ有名な人ですから。確か今は松陰と名乗って先月だったかに塾を開いたと。お知り合いで? 」


「うん、ちょっとね。元気で何よりだ。俺は松坂新九郎。長州に帰ったらよろしく伝えて。」


「はい! もちろんですよ。」


 すっきりしたところで練兵館を出た。


「流石新さんだね。あの桂とか言うのも弥助とか言うのも一撃だもの。桂はね、竹刀打ちならたぶん、新さんや健吉さんよりできるかもしれない。」


「けどさ、ああも根性がないんじゃどうしようもないよね。完全に弱腰だもの。」


「そうですね。竹刀打ちだけ。それも立派な才とは思うけど。」


「ああいうのはね、普段かっこいい事言ってるけど、いざって時に逃げ出すさ。きっとね。」


「そんな感じだね。けどさ、新さん、なんで剣で競わなかったの? 」


「えー、だって万が一負けたら恥ずかしいじゃん。喧嘩なら絶対勝てる自信あったし。」


「そういうとこが小吉さんに似てるって言われるんだよ。」


「ちょっと、一緒にしないでくれる? 俺はね、島田流の柔術も免許持ってるの。覚えたことを使っただけ。ああいう無法者とはちがうの! 」


 道場に帰り、飯時にその事を親父殿に告げると大層喜んでくれた。


「そうだ、新九郎。竹刀打ちなどは勘を養うための物にすぎん。剣術とは刀をもって相手を斬る事。柔術は体をもって相手を制する事だ。持てる技能を使って勝つことに何の躊躇ちゅうちょがあろうか。勝ち方にこだわるなど、愚者のする事よ。」


 そう言って機嫌よく俺に酒を注いでくれた。


「新九郎さまはまたもお手柄。律も妻として鼻が高うございまする。ささ、お風呂に入って、お布団へ。わたくしが昂ぶりを晴らして差し上げますから。」


 はは、昂ぶってんのは律の方だよね。鼻血出そうな顔してるもの。


 その夜は小雪が降り、冷え込んだが律の体を抱いて眠る俺は、心も体も暖かかった。



 年が明けて安政五年(1858年)となる。道場のある男谷の本宅で正月の祝いをした後、俺は律を連れて神田明神まで初詣に向かう。

 そのあとは上野方面に向かい、将軍家の菩提である寛永寺にお参りした。不忍池の方に出る。この辺りは料理茶屋、そしてさらにそれ用に特化した出会い茶屋なるものがあり、律に池のほとりの一軒に連れ込まれた。


「新九郎さま、素敵ですね。お池がこんなにきれいに見えて。」


「うん。でも寒いよ、律っちゃん。」


「ならばこうして、わたくしが抱えて差し上げます。」


 そこで俺たちは姫始めを済ませた。



 三月になるとまたもや情勢は大きく動き出す。すっかりアメリカナイズされてしまった老中首座の堀田正睦はアメリカとの通商条約を形にするため朝廷の勅許を求めに京に上がった。しかしこれがあっさり却下。面目を失った堀田正睦は上洛中に何とか巻き返そうとあれこれ策を練るが、すでに時間切れ。将軍家定公がお倒れになり、江戸では井伊直弼が大老に就任していた。


 強大な権限を持つ大老となった井伊直弼の一番の懸念は将軍継嗣問題。ちょっぴりイカレ系の家定公に子は望めない。なので紀州の慶福をと言う訳だ。血筋からいえば筋目は慶福にあるが、なんと言ってもまだ12歳。この国難にあたるには若すぎる。そこで今年21歳になり、英邁であると評判の一橋慶喜が対抗馬に上がったわけだ。


 もちろんそこにはそれを取り巻く二つの派閥の意向が大きく関与する訳だが、井伊大老は後継は慶福、そう決めてしまった。そしてもう一つの課題が日米通商条約。これはいつものごとくのらりくらりと躱すつもりだったのだが、交渉役の井上、岩瀬と言う二人がハリスにうまい事言いくるめられて調印。なんでも、アメリカの言い分としてはイギリス、フランスは何をするかわからない危ない国。何かあったらアメリカがケツを持つ、そういう事らしい。それにアメリカもいつまでも良い顔はしていられないとの威しもあったようだ。


 これで井伊大老は開国派としての評価と、朝廷を無視して調印を行った不敬者としての烙印を押されることになる。大変だね、責任者って。


 これではっちゃけちゃったのか井伊大老は思い切った行動に出る。六月から七月にかけて、井伊大老は、俺に文句のあるやつはお仕置きだべ! とばかりに強権を振るう。老中の堀田はクビ。一橋派の連中は隠居、謹慎、登城禁止とあっという間に一掃される。ついでに頭でっかちの若手にもガツンと拳を振り下ろした。

 

 もちろんお仕置きされた側とて実力者、公儀が牛耳られたなら朝廷があるじゃない、と朝廷を担ぎ出す。その連中は井伊大老を責めるに違勅のアメリカとの条約を持ちだした。それに煽られた連中が攘夷だなんだと騒ぎ出す。朝廷はそもそも異国がお嫌い。さらにそれを煽りたてる。


 こうして尊王攘夷と言うお題目が生まれた。


 まあ、そういう事は偉い人が悩めばいい事、俺たちには関係ない。


「新九郎さま、夏祭りに行きましょうか。」


「うん、いいねえ。あ、律っちゃん、その浴衣可愛い。」


「えへへ、新九郎さまにお気に召してもらえるよう拵えておいたのですよ? 夜は屋形船で花火を。ちゃんと予約してありますから。」


 うむ、リア充とはこうでなければな。今夜も熱い夜を過ごすことになりそうだぜ。


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