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明治六年六月十一日
この日、渋沢栄一の主導により兜町の通称三井組ハウスにおいて、この国初めての銀行、第一国立銀行の第一回株主総会が開かれた。
大商人たる三井、小野の両家からそれぞれ百万円、そして一般から募った資金四十四万八百円。これが資本金となる。栄一さんの予想ではもう少し一般からの出資があるものだと思っていたらしいが、銀行と言う今まで誰も聞いたことのない仕組みに出資者は集まらず俺を加えた三十人ほどしかいない。
いろいろと難しい話が続いたが要約すればこの国立銀行は独自に紙幣を発行することができるらしい。お金を作れる、そういう事だ。もちろんその紙幣は金貨との交換が義務付けられてはいるけれど。
その頭取としては渋沢栄一が就任し、外国人の相談役も雇い入れると言う。誰もが初めての事業だけにこうした外国人の指導役は欠かせないのだ。政府としてはこうした国立銀行を大いに増やし、未だ米に価値を置く日本人の常識を改めて行きたいらしい。
ともかくも難しい話は終わり、俺は兜町を後にする。この銀行には板倉さまも関わっている。お金が大好きな板倉さまにとっては天職ともいえるのだろう。
ちなみに国立銀行と言う名前だが国営ではない。国の法に従って立てられた民間銀行、と言う意味で、なんだか消防署の方から来ました、と言う悪質訪問販売みたいな感じ。
こうしてまたこの国は一つ大きな変化を迎えた。だが俺は何一つ変化もないまま相変わらず子守りと一向に実らない就職活動をしていた。
そんな中、政府では西郷さんの朝鮮への派遣が決まり、新聞でもそれが報じられた。世は征韓、そんな流れに変わっていく。
「ねえ、聞多、聞きたいことがあるんだけど」
「征韓でしょ? あれはね、無謀っちゃ無謀、けどやらなきゃならないことでもあるんですわ」
元大蔵大輔、今は鐘屋の洗濯係。みんなからは洗濯大臣などと揶揄される聞多にずっと疑問に思う事を聞いてみた。
「あ、うん。そういうのもよくわかんないんだけど、」
「けど、なんです?」
「いや、要はさ、朝鮮を攻めるかどうかって話なわけでしょ?」
「ですね。国内の不平士族、こいつらを纏めて朝鮮に。そうすりゃ士族の反乱だのなんだのに気を取られなくて済むんですわ。向こうを占領できればそれなりに仕事だって。朝鮮は帝の勅書を突っ返すと言う無礼を働いた。国が、帝が舐められて良い訳はありませんからね。名分は立つ、それに戦う兵もいる。問題は金がないって事ですわ」
「はは、そうだよね」
「外征なんかする金があればその金を内治に。鉄道だってもっと伸ばしたいし、産業だってまだまだこれから。金がないのは首がないのも同じですからね。けど、それで不平士族に反乱でも起こされちゃ最悪です。それなら不平士族を朝鮮に送り込んだ方がマシってもんですわ。内戦を収めるためには金もかかるし、国際的な評判、信用だってがた落ちです。ですからね、新さん。この話はどっちが正解ってのはないんです。両方やらなきゃいけない。問題はその順番で。ま、今は西郷さんと板垣達が征韓って事で押し切ったみたいですけど、大久保さんたちが帰ってくればまたひと揉めありますよ、絶対」
「なんで? 征韓で話はついたんでしょ?」
「西郷さんはね、大久保さんたちの留守に大きな取り決めをしない、そういう条件で留守を預かってるわけですわ。それを知りつつ江藤や板垣なんかが鬼の居ぬ間に、とばかりに大きく政府を動かしてる。私がクビになったのもそれですし、狂介の事もそう。陸軍大輔を辞めさせたはいいけど代わりがいなくて陸軍卿で復帰ですよ? ま、禊を済ませた、なんて見方もあるんでしょうけど」
そう、山県は江藤らに追い込まれるように陸軍大輔を辞任。しかしその後継がおらず、西郷さんの強い意向もあってさらに権限の強い陸軍卿として政府に復帰した。江藤たちがやったことはまるで無意味だったわけだ。聞多が言うには江藤、大隈、大木と言った佐賀閥や板垣、後藤なんかの土佐は政府の仕事よりも薩長閥の切り崩し、いわゆる政争に血道をあげているのだと言う。
「けどさぁ、結局その江藤達も佐賀閥を押し上げて薩長に成り代わりたいだけなんでしょ? それにさ、なんだかんだ言って薩摩の西郷さんを旗頭にしてるんだし」
「まあ、そうなんでしょうけどね。江藤達が西郷さんを担ぐのは無理ない事ですわ。あの人は藩閥政治に否定的ですからね」
「んでお前たち長州閥が邪魔、と」
「そんなとこでしょうね。私も藩閥政治には反対ですよ?」
「そうなの?」
「ええ、出自ですべてが決まっちゃ幕府の頃と変わらないでしょ? けどですね、藩閥にこだわるやつがいるんですわ」
「木戸か」
「そ、あいつ、そういうとこうるさくて。いつまでも私や春輔なんかは子分扱い。その春輔もアメリカとの条約改正の件で木戸と大揉めですし、狂介だって木戸は嫌い。しかもこの狂介と春輔はすこぶる仲が悪いと来たもんで」
「え? そうなの? 山県と春輔って仲悪かったんだ」
「ええ、高杉が藩政を握った功山寺挙兵、あの時に春輔は高杉に付いて挙兵したわけです。んで高杉の作った奇兵隊の軍監は狂介。当然奇兵隊も合流、春輔たちはそう思う訳で」
「だろうね」
「ところが奇兵隊総督の赤根ってのが高杉と揉めて。結局その赤根は九州に逃げて総督は狂介に、って。その狂介がいよいよってところまで日和見決め込んだんで、春輔としちゃ面白くないってことですわ」
「へえ、いろいろあるんだね。で、聞多はその時何やってたの?」
「それがですよ、聞いてくださいよ。私はね、藩候の御側役だったじゃないですかぁ。結局私が高杉と交渉する羽目になって。ほら、あいつ話通じないでしょ?」
「そうね、それになんかおっかないし」
「そうなんですわ。で、結局藩侯は高杉達と行動を共にするって事で。ま、そんなわけで春輔は狂介に恨みを持ってる。狂介もあやまりゃいいのに全部を赤根のせいにしてとぼけるから仲がわるいまんまって訳で。長州閥、なんて言われちゃいますがね、中はいろいろあるんですわ」
「ま、そうだろうね。俺も近藤さんとか大嫌いだったし。トシなんて近藤さんを罠にはめて出頭させちゃったもん」
「あはは、そりゃまたびっくりな話で」
「結局さ、あれこれ言っても嫌いな奴は嫌い、それだけの事だよね。江藤が佐賀じゃなくてもウマが合わないのは確かだし、高杉は友達だったけどそばにはいてほしくないかな」
「ですよねー」
「で、そうそう、聞きたいのはそんな事じゃなくて」
「そうなんです?」
「うん、朝鮮を攻めるかどうかの話なんだよね、征韓論って」
「ですね」
「だったら征朝とか征鮮とかじゃないの? なのになんで征韓?」
「あはは、確かにそうですね。ま、多分ですけど征朝じゃ朝廷、帝を攻めるみたいな感じがして畏れ多い、征鮮じゃなんか語呂が悪いでしょ? だから三韓征伐の故事になぞらえて征韓、そんな感じじゃないですか?」
三韓征伐と言うのはそれこそ大昔、神功皇后が三韓と呼ばれた三つの国、新羅、百済、高句麗を討伐した故事である。その三国はそれ以降日本に朝貢を行ったとされている。その故事にちなんで朝鮮を討伐したいから征韓論。なるほどね。
ま、どっちにしても政府を離れた俺たちには関係ない。洗濯大臣井上馨はそう言い切った。
それはそれとして聞多の下には様々な人たちが足しげく通ってくる。三井、小野といった大商家の当主や番頭、そうした中に藤田伝三郎と言う男がいた。この藤田、元は長州の造り酒屋の子で後に奇兵隊に参加。高杉の信奉者で今は同じ奇兵隊の出である山県についている。長州藩の武器払い下げの折に大儲けをし、今ではそれなりの商人だ。例の山城屋の一件にも噛んでいたらしい。
聞多とはそれほど親しくないらしく、陸軍の物資調達からこの藤田の藤田組は外されていた。聞多は自身のシンパである三井組への利権の斡旋で忙しいのだ。
「ですから、お願いしますよ。山県閣下に言ってもこちらの松坂と言う方を訪ねよと言うばかりで」
その藤田は同席する俺に目も合わせずに聞多に拝み倒した。
「あのね、私はあくまでこちらの松坂さんに信任を受けていろいろしてるだけだから。私に頼むんじゃなくてこちらの松坂さんに言うべきじゃない?」
聞多にそう諭された藤田はちらりと訝し気に俺を見た。
「えっと、その、聞けばあなたは元幕臣だとか。政府の事に口を出すのは分をわきまえぬ事、そうは思いませんか? 私は長州の出ですし、維新の折も官軍として賊軍のあなたたちと戦ってまいりました」
「ふーん、それで?」
「ですから政府の調達に口を挟むな、と。わかりますよね? あなたたちは負けたんですから勝った私たちにどうこうできるいわれはない」
うーん、明治も六年目。暦すらも変わったと言うのにまだこういう事を言うのがいるんだ。そう思って頭を掻くと、隣の聞多が苦い顔をした。
「あーもう、お前、帰っていいよ。そして二度と来るな」
そう言って手で追い払うしぐさをする。俺ももういい歳なのだ。この程度の事で殴ったりしない。
「ぶ、無礼でありましょう! 賊軍の分際で!」
「無礼はお前ね」
前言撤回。俺は即座に藤田をぶん殴りそのザンギリ頭をひっつかんで玄関から放り出した。藤田は覚えていなさいよ! と捨て台詞を吐いて走っていった。
「相変わらずですね、新さんも」
「っていうかさ、未だにあんなこと言ってるやつがいるんだって逆にびっくりしたよ」
「まあ、アレは狂介や木戸にきっちりくっついてますからね。いわゆる政商ってやつですわ。後ろ盾の力を自分の力、そう錯覚してるんですよ」
「そうなの? んじゃ、お前にくっついてる三井なんかもその口?」
「いや、三井なんかは元々商人なだけあって流石に分をわきまえてますよ。商人として口を出していいとことそうじゃないところのね。ああいう成り上がりとは違いますわ。
だからこっちも利のある話を回しますけど、向こうだってこないだの銀行の話にも嫌な顔せず金を出してくれますから。持ちつもたれつって奴ですわ」
聞多は独り言のように「これだから藩閥ってのは」とつぶやいた。
このことが大きな諍いに発展したのはそれから数日後の事だった。